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稲子は美恵から電話があった三日後のリサイタルの当日、開場一時間前にホールに着いた。隣合わせの席に座るはずの、顔を見たこともない人を見つけるには多少の時間が必要だと思ったからだ。
開場30分前に、道を隔てた向こうから、立ち木のようにスリムな青年がこちらに向かって大股で歩いてくるのが見えた。
――あの人かしら?稲子はちょっとドキッとして、近づいてくる彼の方を見ていた。
「遅くなってごめんなさい。待たせちゃったかな」
青年はクールな風貌に似あわず、照れた様子でしきりに恐縮している。
「いえ、わたしも少し前に来たばかりなんですよ」
稲子は青年に気を遣わせまいと、なにげないふりをして答えた。ふたりは受付でプログラムを受け取り、並んで指定の席に座った。
稲子はこれまで、いつも独りでリサイタルに来ていたが、今日は違う。隣に座っている彼のことが気になって落ち着かなかった。開演までのわずかな間に、お互いに自己紹介をした。稲子は後で厄介なことになってはと、今までの経験で自分の年が42であることを、まず告げた。
「あ、僕35なんだけど。年下かなって思ってました。お若いですね。で、失礼ですがお独りですか?」
「ええ。もらってくれる人いなくて……」
稲子は心にもない控えめな返事をした。
二時間のブーニンの演奏は、稲子の心にたっぷり栄養を与えてくれた。いつも思うのだが、今日も来れてよかった、また聴きに来たい。今夜もそんな満たされた思いで会場を出た。リサイタルが終ると九時を過ぎていたので、稲子はタクシーで帰ることにした。
「じゃあ、わたし、ここで車を拾いますから失礼しますね」
ちょっと名残り惜しそうな顔付きの康彦を後にして、稲子は会場から出てくる客待ちのタクシーに乗り込んだ。タクシーの中でバックミラーを覗くと、康彦は車が見えなくなるまでこちらを見ているふうだった。
ちょっと悪いことしちゃったかな……。稲子はそう思ったが、翌日の仕事の下調べもあるし、康彦と別れて早く帰宅したことに後悔はしていなかった。




