*13
「いい旅だったわね。わたしたちの大切な思い出が一つ刻まれたって感じ……。思い切って遠くまで出かけた甲斐があったわ」
「うん。そうだね」
「ねっ。さっきから、うん、うん、ばっかり。康彦さんたのしくなかったの?」
「そんなことないよ。充分に満喫したさ。あの夢の島から抜け出せないでいるんだよ」
「そうなんだ」
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旅の思い出に酔っている間もなく、帰宅した翌日から、康彦と稲子のハードなスケジュールの日々が始まった。
稲子は心なしか、自分が変わっているような気がしていた。何の不安もなく康彦を信じ、康彦の心の中にすっぽり入っている自分を感じた。自分の心をゆだねているのがわかる。
わずか数日の旅が、ふたりを本当の夫婦に作り替えてくれた、稲子はそう思った。
一方康彦は将来、あの島で暮らしたいという、実現に向けての夢を持つようになった。まだ隠居するには早いけれど、今の仕事を近い将来切り上げて、田舎の暮らしをするのもいいのじゃないかと思っていたが、まだそのことを稲子に報告するのは早すぎるような気もしていた。
「ねぇ、今夜の夕食何にする?」
「明日休みだから、どこかで落ち合って美味しいものでも食べようか」
「そうね、どこがいいかしら」
日々の会話の中に、不審な思いが邪魔をすることのない、透明なふたりだけの空間。稲子はこの結婚は間違いではなかった、そう思うようになっていた。
康彦も若いとき死んだ彼女のことにケジメをつけることができたような気がしていた。
人生の10年、20年はあっという間に過ぎて、人はみな老人になって死んでいく。今日もまた、ふたりの夜は静かに更けていった。
稲子は相変わらず、康彦に添い寝して寝顔を眺めていた。寝息が鎮まったところで、窓を開けて夜空を仰いだ。青みがかった夜空を欠けた月が照らし、そのすぐ傍に力強い金星が並んで光を放っていた。
――なんだかわたしたちみたい。コーヒーでも飲みたい気分……。稲子はコーヒーを沸かす為に、階段を静かに下りて行った。
完




