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稲子が康彦と結婚して、半年が過ぎた。
部屋には二つのベッドを並べているのに、康彦は稲子の傍にきて眠った。康彦の寝顔を見ていると、自分が妻なのか姉なのか、もしかして母親なのか、わからなくなるときがある。でも時には稲子が康彦の子供になって甘えている。
男と暮らすのは初めての稲子にとって、同じ家の至る所に康彦の男の匂いを感じていた。自分が康彦の女として存在していることを忘れて、まるで幼児のように康彦の分厚い胸に顔を埋めて小さな息をしているとき、身も心も言いようのない充実した気持になるのだった。
――稲子、かわいい。
康彦は稲子の背に腕を回してぎゅっと抱きしめる。息が絡むほど顔を寄せ合う。
「僕のこと、好き?」
「あたりまえじゃない」
「じゃあ、好きって言ってごらん」
「だって恥ずかしいもの」
「恥ずかしがらなくていいからさ。じゃあ、一緒に言おうか」
康彦はいつもそんなおどけたふりをして、稲子に甘い安らぎのひとときをくれた。
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翌日の日曜日。康彦は稲子がこの間買ってきたばかりの、外出用のシャツを着ようとしていた。
「あらっ。お出かけ?聴いてなかったけど」
「うん。帰ってから話すよ。夜には帰るから」
朝から出かけてどこへ行くというのだろう。稲子は不審な気がした。
その晩、康彦は稲子が予想していたより早く帰ってきた。朝から落ち着かなかった稲子は、インターフォンが鳴ると、いそいそとドアを開け、笑顔で康彦を迎えた。
「ただいま」
「おかえりなさい。おつかれさま」
「ごめんね。せっかくの日曜だっていうのに。毎年必ず行ってた所に行かないと僕の気がすまないんだ。彼女の墓詣りだよ。稲ちゃんに悪いかなと思って黙ってたんだけど、これから死ぬまで一緒にいる稲ちゃんがこのこと知らないなんておかしいよね」
「話してくださってうれしいわ。秘密は無しって、わたしたち結婚するとき約束したんだもの。あなたの大切なひとのお墓詣りはそれは当然だと思うわよ。いつまでも心の中で思い出を温めてる康彦さんがそういうひとだから私は好きなの。私のことだって大切に思ってくれてるんだもの。ねっ。そうでしょ?」
「そうだよ。死んでしまったひとだから、思い出といっても忘れてるんだ。墓詣りはただけじめにしたいんだ」
稲子は康彦が自分の気分を損ねまいと、一生懸命話しているのがよくわかった。そのとき稲子は、康彦の中にこれまで温めてきた彼女のことを大切にしたいと思った。
「いつかふたりであの女性のお墓詣りに行けたらいいわね」
稲子はそう言って、夕飯の準備をするためにキッチンへと向かった。味噌汁に入れる葱を切りながら、稲子はポトっと落ちた涙を、康彦に見られまいとそっと拭った。




