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稲子が結婚してから三年が経っていた。
年がいってからの結婚だったので、子供を持つことは諦めて、ふたりきりのこれからの生活を楽しみたいと、稲子自身は考えていた。
一見しっかり者に見える稲子ではあるが、意外に子供っぽい所があるので、夫の康彦に時にはちゃかされたりしているものの、彼にとって稲子はかけがえのない存在だったし、稲子も康彦にすべてを預けているような心持ちでいた。
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地方出身の稲子は憧れていた東京の私立大学で心理学を専攻し、大学院の修士課程を終了した時点で、都内の総合病院に臨床カウンセラーとして就職した。
これまで恋人未満のボーイフレンドはそこそこいたが、仕事に専念している稲子を口説き落とすほどの熱意も持てないまま、彼らはそれぞれ離れていった。
40代にさしかかり、仕事の要領はすっかり心得ていたし、これまで切り詰めた暮らしをして小金を貯めて買った2LDKのマンションに引っ越してからは、ここで一緒に暮らす相手が欲しいなという思いが芽生え始めていた。
折りしも、同僚の美恵が急遽仕事の都合で行けなくなったピアノリサイタルのチケットを譲ってくれたとき、稲子は何の躊躇いもなく引き受けて、そのとき同伴した相手が康彦だった。
「稲子さん、悪いんだけど私の代わりに行ってくださらない?あなた、ピアノを弾けるんでしょ。これ、ブーニンのリサイタルなの」
と、美恵からチケットを渡された時、稲子はピアニストの中でも一番お気に入りのブーニンとあって大喜びしたものだ。
「高かったんでしょ。悪いわ。チケット代払うから」
「いいの、いいの、音楽会にはひとりでは行けない人がいるのよ。ねっ、お願い。一緒に行ってやって。私の弟みたいな子なのよ」
美恵は康彦のことを、そんな風に稲子に紹介していた。




