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少年たちのエデン

少年たちのエデン

作者: 夏野梨生

 神は言われた。

 「光あれ」



 天が純白に反転し、アスファルトに巨大なしみが広がった。

 むきだした肩に雨がつき刺さるのをにげて、浅葉檸檬はドラッグストアの軒下にかけこんだ。

 頭上に雷鳴がとどろく。

 急にふりだした雨は路上でおおきく跳ねあがり、もはや、数センチさきも見えやしない。

「すごいや」

 濡れた腕をこすりながらつぶやく声も、雨音に、かき消える。

 檸檬はくびをななめにねじって、同じく雨宿りしている先客をみあげた。

 檸檬より頭ひとつ高い白人の少年だ。

 銀の髪がゆるく波打ち肩にかかり、灰色の瞳で豪雨を睨みつけている。手足が長く、陶器人形のようにつややかな皮膚だ。鎖骨が白いTシャツの襟元からみえていた。彼のまわりだけ、次元が狂っているように風景から浮き上がっている。近くのスーパーのビニル袋を手にしているのが、ひどく似合わない。

「すごい雨だね」

 日本語が通じるか、わからないまま檸檬は話しかけた。

 少年が顔を檸檬にむけた。

 生命感のない、灰色の、ガラスのような瞳だ。

「あ、え……と、入ってく?」

 檸檬は折り畳み傘をとりだし、少年に見せた。

 少年がほおをさっと緊張させ、檸檬の手をはたいた。傘が転がり落ちる。

 同時に。

 視界が真っ白になった。

「ひゃっ」

 爆音が耳元でつんざく。

 檸檬は少年にしがみついた。幅広の、かたい胸だった。清潔な、洗剤のにおいがした。

 二度、三度、雷鳴は鳴り、遠ざかっていった。

「ご、ごめん……」

 檸檬がTシャツをにぎりしめていた手を離すと、少年は固くしていた体から力を抜き、身をひいた。

 客のとぎれたドラッグストアの店員は、カウンターから出てきて、雨宿りだけの客をみにきたが、無言でまた店の奥にもどっていった。

「あ、あの、えと、日本語……わかる?」

 銀髪の少年は口元でゆびをうごかした。

「え?」

 色のない、うすいくちびるがあきれたように開き、また、つよく結ばれた。顔をそむける。

 声はない。

「しゃべれないの……?」

 少年の精緻な横顔に変化はなかった。

「ご――」

 ごめん、といいかけて、檸檬は言葉をきった。あやまるのは、なんだか、障害を見下しているような、健常者の驕りのような気もする。

 少年はかがむと、落ちたままになっていた檸檬の折り畳み傘をひろいあげ、檸檬に渡した。

「ありがとう」

 少年はしなやかな腕を雨のなかにつきだした。

 だいぶ、雨も弱くなってきている。

空も明るくなった。

「かえる? かえりたい? 送っていこうか?」

 檸檬が問うと、少年はほそい銀の髪を波打たせ、ちいさな子どものようにしっかりとうなずいた。


 浅葉檸檬は全寮制の中学校にはいって三年で、家にはながい休みに数日、帰ってくるだけである。

 二年前に親だけが越してきたこの街にはなじみがなく、することのない生活は苦痛で、帰省するのはもうやめようと思いかけてた前の冬やすみ、この銀髪の少年を街でみかけ、この夏休みはとぶように帰ってきた。

 檸檬は腕をのばして、少年の方に傘をかたむけながら、考えた。ちいさな傘だから、檸檬の左半身はみるまに濡れていく。

 この少年を次にみかけたら、どう親しくなるか、いろいろ考えていたのだけど。しゃべれない、というのは、まったく計算外。日本語が通じない、英語も通じない、そのくらいのことまでしか考えていなかった。

 こちらの言っていることは理解しているようだが、なんとなく、空気がかみ合っていない。

 長身の少年がかるい足どりですすんでいくので、檸檬は水しぶきを上げながら小走りに歩調をあわせなきゃいけない。

 まるで、勝手に雨がよけているとでも思っているよう。

「あ」

 檸檬は短く声を発した。

「ここ……ぼくの家」

 まだ真新しい、大きなマンションの前で、少年はようやく足をとめた。

 惜しそうに、傘をみあげる。幼子のように、感情がむき出しだった。

 檸檬はふきだした。

「いいよ、送ってく。ひまなんだ」

 少年の透明な瞳が、檸檬を映した。視線が、濡れそぼった檸檬の左肩にいどうする。

 少年は檸檬の手をうえからくるんだ。ひんやりとした清潔な手だった。

 檸檬はゆっくりと手をひいた。

少年は傘を檸檬にかたむけ、歩調をおとしてあるきはじめた。



 主なる神は言われた。

「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」



 檸檬のマンションから五分ほどあるいた細い路地で、少年はたちどまった。延々と塀がつづく広大な邸宅の、勝手口である。

 ざっと見渡しただけでも、檸檬のマンションがまるごと入りそうな広さである。

 だが、クリィム色らしい塀はかなり汚れており、勝手口の木製の扉も、腐敗して、金具はさびついている。鍵だけが、真新しく、三重についていた。

 よく見ると、塀の上にも尖った鉄柵があり、鉄柵には有刺鉄線がまかれている。

「ここ、君の家?」

 銀髪の少年は答えずに、鍵を開けると、檸檬の手首をつかんでひいた。


 塀のなかは濃い酸素に満ちていた。

 大地は朽葉にしきつめられ、空を覆った木々が雨のしずくをしたたらせている。重なった葉の隙間から、あかるくなりはじめた空がちいさくみえた。

 気温も数度、ひくいようだ。

 少年が音をたてて、勝手口の扉を施錠すると、さらに緑の香が濃くなった気がした。

 目の前には建物らしきものの外壁がみえるが、とても大きい洋館らしい、としか檸檬には判断できなかった。

 少年は建物の裏口から、檸檬を招き入れると、そこにいるようにと身振りでつげて、奥に消えていった。

 檸檬はぐるりと周囲をみわたした。ひどく古いつくりの、やたらにひろい台所で、食堂につづくドアは開け放されている。

 檸檬は食堂に足をふみいれた。

 しんとしており、人の気配はない。

 二〇人ほどは座れるだろう、広いダイニングテーブルがあった。壁には油絵がかけられているが、ほこりがつもり、天井からぶるさがったシャンデリアもくすんでいる。

 じゅうたんも家具も、相当に高価なものらしい気がするが、すべてが古く、手入れされていなかった。

 食堂からは庭が眺められるようになっていた。

 とてつもなく、ひろい空間に芝が広がり、遠くに木やガーデンがあるようだ。庭の隅には、いくつかの建物もある。

 都心の一等地の光景とは思えない。

(まるで、古いヨーロッパの古城。

 それも人里離れたゴーストハウス、ホラー映画で出てくるような)

 化かされているような気分だ。

 銀髪の少年がもどってきた。

 乾いた服に着替えており、もってきたバスタオルで檸檬をあたまからくるむと、乱暴にこすった。

「ありがとう」

 檸檬は少年の手の上から、タオルを押さえた。

 真正面から少年をみあげる。

「ぼく、浅葉檸檬。聖クレマティス学園の中学三年。君は?」

 銀髪の少年はびくりと体を震わせた。臆病な子ウサギのように逃げようとする少年の手を、檸檬はおさえた。

「去年の冬、君のことをみかけてからずっと、気になっていたんだ。ぼくは君のことが好きなんだ……女の子が男の子を好きになるように」

 少年は身をよじる。

 檸檬は手をゆるめた。

 少年は檸檬の手をふりはらうと、背が壁につくまであとずさった。肩を上下させながら、まるで、おさなごのように口をひらいておびえている。

「ごめん」

 檸檬が謝ると、乱れた銀の髪のすきまから、少年が灰色の目を見開いた。

「ごめん、気持ち悪いよね……本当に、ごめん」

 檸檬はタオルで目を押さえ、顔を隠した。

 少年には泣いているようにみえたかもしれない。

「あの、ね、女の子が男の子にしてあげるようなことなんでも――ううん、それ以上のことだって、なんだってしてあげたいと思ったんだ」

 檸檬は顔をそむけたままバスタオルをはずし、折りたたんでテーブルに置いた。

「もう帰るね。迷惑かけたくないから」

 すこしゆっくりした動作で、少年の前をぎこちなく通る。

 少年が檸檬の肩をつかんだ。

 つかんだものの、少年自身がどうしていいのか分からぬように、檸檬をじっとみたまま、浅い呼吸をくりかえした。

「ぼく、なんでもするよ」

 檸檬はまっすぐに少年をみあげていった。

 少年はぎこちなく手をうごかした。

 まるではじめて人肌にふれるかのように、檸檬の頬を指でおした。

 ゆびでつよく、檸檬のくちびるをおさえ、弾力をたしかめると、いきなりゆびをねじりこんできた。

 いっしゅん、おどろいて噛みそうになったが、檸檬はこらえて、舌を少年のゆびにからませた。

 音をたてて、指をしゃぶる。

 少年は呼吸をあらくすると、いきなり、檸檬の頭をつかんでおさえつけた。

 檸檬は床にひざをついた。

 上目づかいに少年をみて、

「いいよ」

 と彼ののぞみを受けいれた。


 檸檬はファーストフードで夕食をすませてから、帰宅した。檸檬の母は潔癖症で、檸檬は同年代の男子とくらべるとはるかに華奢で中性的であるのに、「男臭い」と檸檬の身の回りの世話を、このところとみに嫌がるようになった。

 時には、近所の住人が警察に通報するほどのヒステリーをおこす。

 だから、檸檬は帰省中は食事を外でとり、洗濯、掃除もじぶんでおこなうようにしていた。

 寮より、窮屈な生活である。

 それでも、個室にとじこもれば、自由だ。

 檸檬はさっそく、ネットをたちあげた。

 地図の検索で、少年の家をさがす。

 当然といえば当然だが、檸檬がほとんど感じたとおりの広さの邸宅だった。

 千坪はかるく越えている。

 所有者は津久見卓也となっている。

「津久見?」

 檸檬はつぶやいた。

 聞き覚えはある。食品から飲食店、化粧品、薬品、バイオをあつかう大グループだ。

 津久見卓也の名を検索すると、津久見グループの総帥として、数万件の情報があがった。

 維新のときに活躍した旧華族の家柄。戦前に食料品の輸入事業に乗り出し、現在も繁栄をつづけている一大グループだ。

 津久見卓也の家族構成をしらべようといくつか検索をしたが、うまくひっかかってこなかった。

 時間ばかりが過ぎて、空が明るくなりかけた頃、

『津久見卓也 結婚』

 のキーワードに反応があった。

 十年ほど前に津久見氏が再婚したとの情報に、五年前に前夫人とは死別、前の夫人はスウェーデンの貴族の出身であったと付随記事があった。

「北欧貴族かぁ……」

 檸檬はノート型PCを閉じると、ベッドに転がった。

 なんだか顔がにやけてくる。

「ぼくの、王子さま……」

 つぶやいて、檸檬は甘い眠りにおちた。



 男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。



 昼過ぎに目覚めて、檸檬はしばらく息を殺して室内の気配をさぐった。すでに母は病院に行ったらしく、物音はない。

 誰もいないのを確認して、檸檬は起き上がった。

 牛乳いっぱいで朝&昼食をすませ、つかったコップをきちんとかたづけてから、身支度をして家を出た。

 夏らしい濃い青空だ。

 アスファルトには陽炎がゆらめいている。

 昨日とおなじ路をたどり、少年の家からすこしはなれた場所で、檸檬は立ち止まった。家の全体をみわたす。広い敷地をかこむ外壁に、うっそうと繁った木々。その奥に、洋館がみえる。道路から見える窓は かたく閉じられ、世間を拒絶するように人の気配はなかった。

 檸檬はちらりと視線だけでまわりを見、通行人がいないのを確認して、勝手口ではなく表玄関にむかった。

 車がらくに二台は通れるだろう、両開きの大きな門があり、かつては門番がいたのだろう、ちいさな詰め所もある。どちらもかたく扉が閉められ、煤け、長いこと使われていないのは明らかだった。

 門の脇には縦書きのプレートがある。

 汚れて、文字は見えない。

 檸檬は手をのばし、文字をたどった。

 白い手が檸檬の手をおさえた。冷たい手だ。

 美しい、氷のような顔が険しく檸檬を見下ろしている。真夏の炎天下にも溶けない、硬く凍った氷だ。

 少年の手の中で、檸檬の手の骨がきしんだ。

「――い、痛ぃ」

 檸檬が手を引こうとすると、少年はいきなり路上で檸檬を抱きしめた。

 キスをするというより、かじりつくように、檸檬のくちびるに歯をたてる。

「ヤ」

 檸檬は身をよじったが、少年はかまわずに檸檬の頭をおさえつけ、昨日とおなじ行為をさせようとした。

「だ、ダメだよ、こんな……」

 いまは誰も通っていないけど、いつ人が通るかわからない。近所の人かもしれない。おなじマンションの人かもしれない。

 身体から血の気がひいていく。

 もし、……もし、母さんにしれたら。

 前にヒステリーをおこしたときは、口から泡をふき、奇怪な言葉をわめき、さけび、手あたりしだいに物を破壊し、まさに、目はぐるぐると回っていた。

 見ていられない姿。

 けれども、警察に事情を説明し、近隣に頭を下げ、病院に付き添うしかなかった。

 この世から、自分が存在したという明かしすべてと共に、消えたかった。消えられなかった。

「おねがい……ヤメ……」

 目の前がすうっと暗くなり、檸檬は両手で口をおさえ、うずくまった。

 気持ちが悪い。

 吐き気がするなんて、生易しいものじゃない。

 ハラワタをかきむしり、どろどろに腐敗した内臓を抉りだしたいほど、気分が悪い。

 少年はぱっと両手を広げて檸檬から離れた。

 しばらくして、檸檬が顔をあげると、少年はすこしはなれた場所で、気遣わしげに眉根をよせて檸檬を見ていた。

 綺麗な透明な瞳だった。

 全身で呼吸をしながら、心配そうに檸檬をみおろしている。

「ゴ、ゴメン、大丈夫」

 檸檬は立ちあがったが、少年はきゅっと眉をよせた。

「大丈夫」

 檸檬が笑顔をつくると、少年はうなずいてついてくるように身ぶりで告げた。

 昨日とおなじ勝手口からはいり、鍵がかかると、気分がかるくなった。

 木陰で涼しいせいか。

 酸素が濃いからかもしれない。

 少年はもう我慢が出来ないというように檸檬にかじりつき、檸檬はその要求にこたえた。

 望みを果たしてしまうと、少年は満足したのか、そのままひとりで洋館に入っていった。

 ふりかえりもしない。

(ちょっと……あんまりじゃ、)

 檸檬は憮然とハンカチでくちをぬぐったが、少年を追う気力はなかった。

 なんだかすべてが面倒くさく、けだるかった。

 夏の終わりに、いっきょに疲れが出たようなけだるさだ。

 帰る気にもならず、そのまま敷地の中をふらふらしていると、洋館の正面に出た。

 頭の中に見取り図を浮かべながら考えると、ちょうど、先ほどの門の内側にあたる場所だ。舗装された車寄せが輪になっており、その中央には大きな噴水があるが、すべてがもう、ながいこと人から忘れ去られているかのように寂びれていた。

 木々は思い思いに濃い葉を繁らせ、蔦が幹に絡みついている。

 扉はもう二度と開かないがごとく閉じられ、外界を遮断し、噴水の中央のビーナスは汚れたまま、虚ろな目で空をみつめている。

 檸檬は洋館のエントランスの手すりに腰かけた。

 かなしい、とも、さみしいとも、哀れとも思わなかった。

 ただ、静かだと思った。

 涙が出るほどに。

 静か。

 …………。

 どのくらいの時間たったのか。

 檸檬はいきなり背後から抱きしめられた。

 息も止まりそうなほどの力だ。

「ど、どうして、いつも、……」

 抗うまもなく、服を捲りあげられ、直にふれられていた。

 痛みと快楽が同時にひきだされる。

 獣のように叫び、抗い、そして檸檬は気を失った。


 気がついたときには、革張りのソファーに横たわっていた。裸だった。こじんまりとした応接室のようで、やはり高級そうな家具の、長いことつかわれていないような部屋だった。傍らの大理石のテーブルに檸檬の服がおかれていた。

 遠くからピアノの音色が聞こえてくる。

 檸檬は起きあがり、服を着ると、音をたどった。

 エントランスホールに出た。

(すげ……)

 大きな螺旋をえがく階段。

 壁に飾られた美術品の数々。

 いくつものドア。

 ものすごく古く、長いこと手入れされていないのは確かだが、それでも非常に格調の高く趣味の良い人々が住んでいたのは明らかだ。

 音が大きくなるほうへあるいていくと、板張りの、ぽっかりと空間のある部屋の扉がひらいていた。

 舞踏室、とでもいうのだろうか。

 庭に面した一面は窓ガラスで、中央よりやや壁際にピアノがあり、銀髪の少年が身体が勝手に動いているかのようにピアノを弾いていた。

「英雄ポロネーズ。ショパンが好きなの?」

 少年は手をとめ、夕陽を背に立ち上がった。

 長い影が木の床にのびる。

「きみはいったい……」

 最後までしゃべらせずに、少年はくちびるをかさねた。

 舌をもつれさせ、身体が火照り、もうなにもたずねる気力がなくなる頃、少年はようやく身体をはなした。

 微かに笑っていたようだが、逆光でよくみえない。

 檸檬が動いて、目を凝らしたときには、いつもの無表情の貌だった。

 檸檬はくちをひらいたが、何をいっていいのかわからなかった。

 迷い、ようよう、「帰るね」とつぶやいた。

「また、明日、来てもいい?」

 少年はうなずいた。


 檸檬は洋館に日参した。

 はじめ、どこでみているのか、檸檬が来るときに少年がそとにでてきて檸檬を迎え入れたが、やがて、勝手口の鍵があけはなされるようになった。

 檸檬はきままに庭をぶらぶらし、洋館を見てまわった。

 丸一日、裸体で睦みあうときもあったが、なんのコミュニケーションもとらず、めいめいが勝手にすごす日もあった。

 そのどちらも快適だった。

 少年はこの広大な屋敷で、気のむくまま家事をし、ピアノを弾き、スケールの大きいひとりぐらしを謳歌しているようであった。

 檸檬はしだいに少年に話しかけるのをやめた。

 言葉をすてた少年とのつきあいは快適だった。

 ひとりで、食堂で宿題をかたづけているときでも(少年は檸檬のノートをのぞきこんで思いっきり顔をしかめ、すぐに消えた)、孤独を感じなかった。

 檸檬が少年の姿をみつけ、抱きつくと、少年はいつも以上に檸檬の要求に応え、満足させた。

 それでも、青空がたかくなるにつれ、檸檬は夏の終わりを意識したりもしたが、かんがえてもはじまらず、ただ毎日におぼれた。



 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」



 台風一過で、空は澄み切っていた。

 少年は天候によって気分の変わるまさにお天気やで、ここ数日低気圧だったのが一変、今日は上機嫌で広大な庭に檸檬をひきずりだし、羽目をはずした。

 檸檬はかたちばかり抵抗してみたが、すぐに青臭い芝のうえで獣と獣のようにからみあい、あまい声をあげた。

 どこかで物音がした。

 人の声がしたような気もしたが、錯覚だろうと檸檬が思ったとき、はじかれたように少年が起き上がった。

 ちらかっている服を手早く着、かけだしていく。

 ダイニングルームのガラス戸を、男性が開くところだった。少年がはねるようにしてその男性にだきつく。

 上から下まで黒衣の、檸檬たちよりすこし年上らしい青年だ。

 檸檬と眼が合うと、ひどくおどろいた顔をした。

 檸檬はあわてて顔を伏せた。

 動こうにも、拘束されたままで動けない。

 ひざとひざをあわせて、前を隠すのが精一杯だった。

 草の上をあるく軽い音がして、黒い革靴が眼にはいった。

「……あの、ゴメンね」

 檸檬が思わず顔をあげると、黒衣の青年が、色白のほおをすこし朱くして、こまったような笑みを浮かべていた。

 一重で切れ長の瞳の、けっして際立った面立ちではないが、眼を惹きつけられる不思議な魅力がある。

「それ、自分じゃ解けないよね」

 檸檬が恥ずかしさでうなずくことも出来ずにいると、青年は芝にひざをつき、檸檬の手首を縛った麻縄をほどいた。

 青年の体から、ふわりと甘い香りが流れる。

「ぼくは津久見夏惟。秋彦の兄だ。はじめまして」

「アキヒコ?」

 夏惟はわずかに眉をあげ、洋館へ指先をむけて、秋彦、と言ったが、銀髪の少年はするりと逃げて中へ姿を消したあとだった。

「日本人の名だ」

 檸檬がつぶやくと、夏惟はおりまげた指をくちびるにあて、くすくすと笑った。

 一重の瞳がすっと細まる、品のいい笑顔だ。

「君、かわいいね」

 檸檬がかっとほおを熱くすると、夏惟は指先で檸檬の髪をすいた。

「日本人だよ、ぼくも秋彦も。まあ、血筋はハーフだけどね……はい、解けたよ」

 夏惟は周囲をみまわし、ちらかった檸檬の服をかき集めて、ひざの上にのせると、

「先に行ってるね」

 と、にっこりして洋館に戻っていった。

 黒い長袖のカッターシャツに、黒いジーンズで、黒ずくめだ。

 黒髪、色白の肌によくあっていた。

 歩く後姿も、一挙手一投足が優雅だった。

 檸檬は足のいましめを自分で解いた。体の中に埋められた玩具を取り出す。

 夏惟はきづいていたのだろうと思う。だから、檸檬の手だけを自由にして、先に行ったのだ。

 みじめだった。

 服を着て洋館に戻ると、銀髪の少年――津久見秋彦は、いそいそと台所でティーセットをならべていた。ふたり分だった。

「ひどいじゃない」

 手首にのこった縄跡をこすりながら、檸檬は秋彦の背にいった。

 肩までのびた銀の髪を波打たせて、秋彦はふりかえった。

 両手で檸檬の腕をつかみ、戸口の方に押した。

「帰るよ、帰る。

 言われなくたって……」

「ダメだよ」

 おちついた、だがよく通る声がした。

 津久見夏惟は片手を壁にかるくあて、すらりと立っていた。

 色のしろいきれいな皮膚に、漆黒の髪と瞳。

 はっきりした目鼻立ちではないが、逆に、表情の優雅さが際立つ。

 姿かたちで言えば、秋彦は精緻に作られた人形のように美しいが、それでも、夏惟とならぶと薄っぺらな感じで、かすんで見えた。

「秋、ぼくに紹介してくれ、そのかわいい子を。

 きみの友だちだろう」

 秋彦はきっと兄をにらむと、むなもとで指を動かした。

 夏惟が驚いたように目をみはり、そして、眉根をよせた。

「そんなわけ、ないだろう」

 秋彦のゆびはおなじ動きを繰りかえした。

 夏惟は秋彦の手をおさえた。

「秋彦」

 ちらりと檸檬を気づかうように視線をはしらせるが、檸檬は意味がわからなかった。

 手をおさえられた秋彦は、声のでないくちを動かし、兄にむかって訴え続ける。

「秋彦、やめなさい」

 夏惟が秋彦の頬を打った。

 音が静かな邸宅内にひびきわたる。

 銀の髪をみだして、秋彦がうつむいた。

「あ……、その、ゴメンね。こいつ常識がなくて」

 夏惟が場をとりつくろうように、笑顔を檸檬に向けた。

「その……悪気はないんだ。ねえ、急いでなければお茶につきあってくれない? 一杯だけ」

 檸檬はあとずさった。

(なに……なにを、言った?)

 なにかを秋彦は兄に告げた。

 殴られるようなことを。

 はじめ、ドラッグストアの軒下で少年がゆびをうごかしたとき、檸檬はそれを手話だと気づかず、そのあとも気にしていなかった。

 言葉によるコミュニケーションなんて、ふたりの間にはなくても大丈夫だと思っていた。

 うかつといえば、うかつだったのだが。

 檸檬の網膜に少年の指の動きがこびりついている。

 意味は分からないが、なにかの意志をこめていた。

「ねえ、君」

 夏惟の言葉に答えずに、檸檬は身をひるがえした。


 洋館からとびだして、檸檬はすぐにノートをとりだした。先ほどの少年の手の動きをメモする。

 本屋で手話辞典を買った。

 店から出るのももどかしく、袋を破りページをめくる。

 津久見秋彦が兄になにを言ったのか。

 なにを夏惟が気にしていたのか。

――友達・ない

――知らない

――勝手に・ついてくる

 檸檬の体からちからがぬけた。手から本がすべりおちた。

 たしかに、檸檬が勝手についていった。

 でも、彼だって、それなりに気持ちがあって檸檬を迎え入れていると思ってた。

 檸檬は店先の植込みに腰掛けたまま、行きかう人をながめていた。

 誰も彼もせわしなく、檸檬に目もくれない。

 いま、この瞬間、檸檬がこの世から消えたとしても、誰も気にもとめないだろう。

(もう、戻ろうかな)

 まだ、夏休みはのこっているが、いろいろな事情で寮に残り続けている生徒たちはいる。

 戻れば、それなりに檸檬を必要としてくれるだろう。

 檸檬は立ちあがった。


 家で荷造りをしながら、クラスメイトにそろそろ寮に戻らないかとメールを打った。時間をおいてばらばらと返事がかえってくる。みんな、そろそろ宿題を気にしながら寮に戻るときをみはからっていたようだ。

 携帯電話がまた振動して、メールの着信を告げた。

『メシ、食った?』

 高瀬英二からだった。

 高瀬とは入学式からのつきあいで、好きではないけれど、嫌いにもなれない。腐れ縁だ。

 まだだと返事をうつと、今から行くと、相変わらずこちらの都合もきかない、自分勝手な返事がきた。

 玄関でスニーカーの紐を結んでいると、ドアが開いて父親が入ってきた。

 冬休みにあって以来、半年ぶりだ。この夏の帰省でははじめて顔を合わせる。

 手にはコンビニの袋を持っている。

 なにをいっていいのか分からず沈黙していると、父親は肩を丸めて檸檬の脇をとおりぬけた。

 テーブルの上の小型テレビをつけ、イヤホンを耳につけ野球中継を見はじめた。

 檸檬はスニーカーのかかとを床に打ち、体をねじって台所をのぞき込んだ。

 無理やり明るい声を出す。

「友だちがきてるから、出てくる。帰らないかも」

 返事はない。

 コーラを飲みながら、ぴちゃぴちゃと音をたててコンビニ弁当を食べている。

 記憶よりもさらに体がたるみ、髪は薄くなっていた。

「仕事、いそがしい?」

 テレビ画面はCMになっているが、目はテレビをむいたままだ。中身を見ていなのかもしれない。

 檸檬はつばをごくり飲み、呼吸をととのえた。

「行ってくるね」

「通知表」

「え?」

「みた」

 それきりだった。

 それ以上、なにも話すつもりはないようだ。

 話さなきゃいけないことはあるはずだ。進路のこと、母さんの病気のこと、父の会社のこと。ぜんぶが、話したくないことばかり。

 だから。

 だから、なにも話さないのが正解なのかもしれない。

 檸檬は無言でドアを開け、施錠をした。

 マンションの前でぶらぶらしていると、すぐにBMWのオープンカーがすべりこんできた。

 運転席で、高瀬が得意そうにふんぞりかえっている。

 檸檬はげっそりとしてため息をついた。

「なんだよ、これ」

「兄貴の。新しいの買ったからって、もらったんだ」

「免許は」

「もってるわけねーじゃん。オレたち十六だぜ」

 つきあいきれずに、歩きだすと、高瀬はあわてて車をおり、檸檬の前にまわりこんだ。

「あ、安全運転するから。……ずっと軽井沢で練習してたんだ。だいいち、だれも、無免許のガキがBMW運転してるなんて思わないしサ」

 檸檬は横目で高瀬をにらみつけた。檸檬よりふたまわり体が大きく、中学生には見えない体躯と、その外見にふさわしい尊大な動作だが、なかみは臆病な小心者だ。

 檸檬が怒っているのをみて、大きな体をすぼめてしゅんとしている。はじめて会ったときから、体格は立派だったが、主導権はいつも檸檬にあった。

 檸檬が舌打ちして助手席に乗ると、高瀬は犬がしっぽを振るようにはしゃいで運転席にすわり、忘れないうちにと、チケットホルダーを出した。

「帰省のチケット。ほら、メールで帰るって書いてきたじゃん。オレ、コンパートメント取るのに、他に三人分買ったからやるよ」

「いらないよ」

「でも、あまってるから」

 そんなんだからクラスで浮くんだとの言葉を、檸檬がのみこむと、高瀬は檸檬のバッグにチケットをねじこみ、話はついたといわんばかりで、鼻歌を歌いながらご機嫌にアクセルを踏みこんだ。

 適当に車を走らせ、ひとめのない一角で停車すると待ちかねたように檸檬を求めてきた。

 高瀬英二の行動はひどく直線的で、わかりやすい。好きにさせていると、勝手に満足して、勝手に元気になっている。

「やっぱ、浅葉がいちばんいいヤ」

 へらへらと笑う顔に、どこかほっとしている節があり、この夏になにかあったらしいが、興味はなかった。

「お腹すいたな」

「あ、そうそう、そうだ。なにがいい? なんでもおごる」

「なんでもいいよ」

 高瀬が車を止めたのは、父親が経営するチェーン店のひとつの焼肉屋で、でも、普通の客としてはいり、カネを払う。

 他の店に入ると父親に怒られるし、かといって、社長の息子だとわかると、良くも悪くも尾ひれがついて話が回るので、だまっているらしい。

 そういうところがあるから、なんだかんだあっても高瀬のことは嫌いになれない。

「浅葉、やせたな、夏バテか。食えよ」

 高瀬はせっせと肉を焼いては檸檬の前につみあげた。食の細い檸檬にはありがた迷惑でもあるが、ここしばらく誰の気づかいもうけたことがなかったので、珍しく満腹になるまで食べてしまった。

「そうか、高瀬ンとこも食品業だ」

「なに?」

「家のちかくにでっかい屋敷があるんだ。津久見って表札が出ているから、ちょっと気になって」

「津久見グループの? でも、家は広尾だよ。行ったことがある、なんつーかあそこまでいくと別格」

「そんなに広いのか」

「いや、家とかじゃなくて……」

 高瀬はほおづえをついて、ちょっと考え込んだ。

「なんだろ、人が……というか、格が、かなぁ。むこうの御曹司が姉貴と近いから、あわよくばってな感じもあったんだけど、入りこむ隙なんてなくてさ。

 代々の……家臣っているのかな、取り巻きたちが十重二十重にとりかこんで余所者は近づかせない、ってのがアリアリと出てた」

 高瀬の姉に、というのならその御曹司は夏惟か、ほかの兄弟だろう。すくなくとも秋彦ではないはずだ。

「高瀬のところですら?」

 高瀬英二はくちびるをとがらし、肩をすくめた。

「オヤジが自分で発展した、成り上がりだもン。

 でもさ、あのプリンス、それでもオレなんかにちゃんと話しかけに来るんだよね。すっげー綺麗な人でぼーっとなっちまった。

 クレマティスに一時期いたことがあるらしい。海外留学するために退学したらしいけど。

 当人は経営に興味なくて、信奉者たちが勝手に事業を守りたててるらしいけど、それで本人も周りもうまく行ってるみたいだから……」

「まるで、江戸時代の若殿さまだな」

 夏惟の姿を思い浮かべながら、檸檬は答えた。

 いかにもそんな感じだ。

 生まれつきの貴族。

 この世界の上澄みだけで生きていけるよう、まわりがすべてお膳立てをしてくれている。

 だが、いっぽうで秋彦は文明社会から隔離された野生児のようだ。

「だろ」

 なぜか得意そうに高瀬は笑い、でも、この辺に津久見の家があったかと真剣に考えだしたので、

「でも、不動産だけあるのかも。人が出入りしているのを、見たこともないし。ちょっと気になっただけなんだ」

「ふーん」

 高瀬はさほど興味もなさそうに、上っ面なあいづちを打った。

 おごるとの言葉通り、支払いを済ませると、檸檬を家まで送り、じゃあ電車で会おう、と言って帰って行った。

 一回ぬいて、すっきりした。

 それ以上は檸檬に興味もないが、そこで突き放すのは気が引けるし今後のこともあるから、食事をおごったまで。

 そんな心うちが手に取るように読める。

 高瀬に会う前より、さらに自分がみじめになった。


 高瀬が檸檬によこしたチケットは、夏休み最終日のものだった。檸檬の送ったメールをちゃんと読んでいない。いかにも高瀬らしい。

「あのバカがっ」

 檸檬はひとり、家で罵ったが、なんだかケチがついてしまうと自分でチケットを取り直して帰る気にもならず、だらだらとネットしながら、昼夜のない日々をおくった。

 父親は、あの日以来、かえってくる気配はなかった。檸檬と顔をあわせるのがおっくうだから、会社に泊まりこんでいるのだろう。

 母親は家で暮らしているようだが、むこうが懸命に檸檬と顔をあわせないようにしているのを感じ、檸檬は母親が家にいるうちは、部屋で息を殺し、顔を合わせないようにしていた。

 檸檬がパソコンをたちあげたまま、机につっぷしてうとうとしていると、激しい物音に目が覚めた。

 思わず部屋を飛びだす。

 飛びだしてから、母親のいないことを知って、ほっとした。

 叩かれているのは玄関のドアだ。

 珍しい、というより、ありえない。

 インターホンがあるし、だいたい、宅配業者なら――セールスでも、オートロックのマンションだからエントランスホールからまず、鳴らしてくる。

 おそるおそる、のぞき穴から見てみると、わすれたくてもわすれられない、銀の髪がみえた。

 どうするべきか、檸檬は迷ったが、津久見秋彦はドアを破壊するような勢いで叩き続けている。

 このままだったら、近所の人が顔を出すのも時間の問題だった。

 檸檬がドアを開くと、津久見秋彦はとびこんでくると同時に、檸檬を抱きしめた。

「ど、どうして……きみは、いつもいつも……」

 突然で、身勝手で、強引で。

 文句はいくらでもあるのに、声にならなかった。

 とても懐かしかった。

 絹糸のような髪の手触り。つめたいゆびさき。あまいくちびる。触れた箇所から情欲がダイレクトに流れ込んでくるような錯覚に陥る。

 この数日、どうして離れたままでいれたのか。

 気が狂いそうに懐かしい。

 秋彦がそのまま檸檬のパジャマを開いて、肌に触れようとするので、檸檬はあわててとめた。

「ダメ……それは、ここじゃあ、ダメなんだ」

 母さんがいつ帰ってくるかわからない。

 その場に居合わせなくても、なにかの痕跡で気づくだろう。

「出かけよう、着替えるから……」

 檸檬は話しかけて、やめた。『ちょっと待っててくれる?』と手話でたずねる。

 秋彦は透明な瞳で檸檬を見つめ、うなずくと、

『夏惟が待っている。檸檬と話したいって』

 と返事をした。

 檸檬はまじまじと秋彦を見つめた。

 こんなにまともに返事が返ってくると思わなかった。

 そんなそぶりは今までになかった。

 もっと獣じみた、幼稚なコミュニケーションしかとれないのかと思っていた。

 ややながめの細い銀の髪が、陶磁器のような肌に流れている。ガラスのように透明な灰色の瞳に、うすい、形のよいくちびる。

 本当にきれいな、まるで、夢の国から抜け出してきたような少年が、ひとりの人間の存在として、檸檬にのしかかってきた。

「――どうして、どうして、手話が出来るっていってくれなかったの? すぐに覚えたのに」

 秋彦は顔をしかめた。

「ぼくが……ぼくが、勝手についていったから? 友だちでないから?」

 秋彦はいらいらと銀の髪をかきあげ、口をわずかに開いた。なにかを言いたげに……でも、言葉は出ない。

「ぼくが嫌い?」

 檸檬がなおも問うと、

『言葉はうそをつく』

 もう、それ以上はなにも話したくないというように、秋彦はゆびをおろし、横をむいた。


 秋彦が銀の髪を風に流しながら、かるい足取りで歩くのを、檸檬は小走りに追いかけた。

 あの雷雨の出会いからおおよそ二週間。

 とんでもなく深い迷路にはまりこんでしまった気がする。

 抜け出せるのか、ゴールはあるのは、そもそもじぶんが抜け出したいと思っているのか、檸檬はよく分からなかった。

 秋彦はいままで、洋館の中をどこでも好きなように檸檬に見せてくれたが、二階の中央にある部屋だけは入らせなかった。

 その部屋に檸檬をひっぱっていった。

 広い部屋だった。

 一〇〇平米ちかくはありそうだ。

 大きなキングスサイズのベッドに、壁一面のクローゼット。黒檀の、この屋敷でも桁違いに上質な家具がそろっている。

 秋彦はカーテンを開いた。

 午前のあかるい光がさあっとながれこむ。

 うめき声がベッドから上がった。

「秋、……だめだよ、ぼくは妖怪になるんだから、朝日は浴びないんだ」

 津久見夏惟はもぞもぞとベッドにもぐりこもうとしたが、秋彦は聞き入れるつもりは毛頭ないようで、タオルケットをはぎとった。

 色白の、肩甲骨がくっきり浮かんだ、きれいな背中があらわになった。

 細身ではあるけれど、しっかりと筋肉がついている。夏惟はうつぶせに枕を抱え込み眠たそうにしていたが、目をひらくと檸檬をみて、

「おはよう」

 とにっこりした。

「あ、おはよう、ございます……」

『食事、つくる』

 秋彦は夏惟に告げると階下に降りていった。

 夏惟はまくらにつっぷしたまま、漆黒の瞳をちろりと檸檬に流した。

「きみが来なくなってから、秋が落ち着かなくて。仕方ないから迎えに行かせたのだけど。

 失礼しなかった?」

「え……」

 檸檬が言葉につまり、いいよどんでいると、くすくすと笑いながら、夏惟はひじをついておきあがった。

 上半身ははだかで、黒い、ジーンズだけを前を止めずにはいている。

 胸には、左肩から心臓のうえをとおって腹まで、大きな傷跡がのこっていた。

「ほんと、図体はでかくなっても、中身はちいさい子どものまま。お気に入りのおもちゃを取り上げられそうになったら、ぼくから隠せばすむと思っているんだから」

 夏惟は檸檬にウインクして、たちあがりのびをした。

 しなやかに伸びた指先は女形のようにたおやかで、そのくせ直ぐに立つ姿には、力ある男の色気も漂う。

 高瀬はプリンスと表したが、老若男女とわず、人々がこの男に惹かれ、夢中になり、かしずくさまが簡単に目に浮かんだ。

 この男ともっと言葉をかわしたい。

 みつめられたい。認められたい。そんな欲望が湧きでてくる。

「あのう、妖怪って、どんな妖怪になるんですか?」

「そうだなァ、なにがいいだろう。きみだったら何がいい?」

 夏惟は素足に革靴をつっかけ、クローゼットを開いた。

 仕立てのよいスーツが何十着もかけられているが、夏惟がとりだしたのはシンプルな黒いカッターシャツだった。

「ん……と、座敷わらし?」

 夏惟は声を立てて笑った。

 どんな気難しい人間の心でも溶かしそうな、明るい、幸せに満ちた笑顔だ。

「かわいいね」

 シャツのボタンを留め、クローゼットを閉じる。

 かわいいね、と夏惟はもういちど言い、顔をひきしめた。

「きみと話しているのは楽しい。情がうつる前に、話をつけよう」

 津久見夏惟はクローゼットを背に、まっすぐに立った。

 しろい、なだらかなひたいにおちた黒髪を、落ちついた仕草でなでつける。

 先ほどまでとは別人のように、冷めた眼で檸檬を射抜いた。

「浅葉檸檬。きみの目的は何だ」


 檸檬が息をのむと、夏惟はしずかに続けた。

「学校に問い合わせたらすぐに返事が来たよ。小学校入学前にIQ三〇〇を記録。以降、被試験体として年に二回テストを行い、標準値が三〇〇を越えている。きみがわずか小学生のときにしでかした事件も調べた。

 クレマティスは入学金、授業料免除の上、奨学金の名目で生活費まで出してきみを迎えたってね。

 その一方で、きみの父親の会社はもう事業が立ち行かなくなっている。母親は精神疾患。

 資金援助か、事業拡大のコネか、それともきみ自身が家族を断ち切って津久見のバックアップのもとに独立したいのか。目的はなんだか知らないが、きみには知的障害者である秋彦を手玉に取るなんて、たやすくて、暇つぶしにもならなかっただろうね」

 檸檬はようよう笑いをつくった。

「手玉に取るなんて……いつも、ぼくが振り回されているんだけど」

「信じられないな」

 檸檬は肩をすくめた。

 信じてほしいとも思わない。信じてくれなくても別に、檸檬は、かまわない。

「話はそれだけですか? 終わったなら、かえります」

 檸檬の腕を夏惟がとらえた。

 見かけより、ずっと力のある腕だった。

「秋には二度と近づかないでほしい」

 檸檬は無言で夏惟をにらみあげた。

 檸檬のあごを夏惟は持って、力づくであお向かせた。

「承服しかねる、って感じだな。かわいい顔して強情な。

 人の気持ちを変える手段はいくらでもあるけれど、きみを相手に、あまり、手荒な手段はとりたくないんだ」

「権力で? 暴力、財力で人の心をねじまげて、踏みにじって、楽しいんですか?」

 檸檬をおさえつける夏惟のゆびに、力がかかった。息ができなくなる。

 いきなり、体がつきとばされた。

 津久見秋彦が、兄と、檸檬のあいだに割ってはいったのだ。だがこの後、どうしていいのか分からぬという風に、ふたりを見比べておろおろしていた。

「秋、どきなさい」

 感情を押し殺した声で、夏惟がいう。

「その子はお前の手におえる相手じゃないよ。

 面白半分にクラスメイトを扇動して教師を自殺させた。上場企業の株価を操作して、倒産させた。

悪意があろうとなかろうと、小学生でそんなことをやってのけた『化け物』だよ、その子は」

 秋彦はおどろいたように目をみはり、檸檬にふりかえった。

 きれいな瞳だった。

 硝子のように透きとおった灰色。

 檸檬を真正面からうつしている。

「ぼく……ぼく、」

 ありのままの檸檬をうつす。

 檸檬の肩から力が抜けた。

 あの時。

 あの頃は、なにも分からなかった。「悪いやつ」をこらしめればいいと。

 安っぽい正義感。

 その結果が他の誰でもない、檸檬の中に一生巣食うだなんて、知らなかったのだ。

 秋彦はかすかにうなずいた。

 そして檸檬を背にかばって夏惟にむきなおった。

 広い背中が檸檬の視野をかくした。

 夏惟が秋彦のほおを打った。

「おまえはどうしていつもいつも……どれだけ、父さまやぼくに迷惑をかければ、目が覚めるんだ! 何人の人間が津久見の蜜を吸おうと、お前にむらがってきた!

 浅葉檸檬の能力をぼくは買ってもいい。だが、秋を利用する行為を許すことは出来ない」

 秋彦ははりつめた顔で、首を振った。

「秋彦」

 夏惟が冷ややかに呼んだ。

 秋彦はまた、首を振った。

 夏惟は肩から息をはきだした。

「じゃあ、お前のすきにしろ。そのかわり、ぼくは二度とお前の後始末をしない」

 視線だけで、秋彦は夏惟がでていくのを追った。その横顔は青ざめ、ありありと不安が浮かんでいる。

「い、行っちゃうよ。お兄さん……ダメ、だよ。そんなのダメ!」

 檸檬は秋彦をゆさぶったが、秋彦は動かなかった。

 小刻みにふるえてはいるが、檸檬の髪に触れ、しっかりと抱きしめる。

 あたたかい体だった。

 たくましい腕だった。

 気が遠くなりそうに心地よい。これでもう、充分。これいじょう幸せになったら、きっと罰が当たる。

 檸檬はぎゅっと、秋彦を抱きしめキスをすると、秋彦をつきとばして駆け出した。

 台所の勝手口からつきぬけ、出て行こうとする夏惟の背にさけんだ。

「まって、まってください」


「ぼくは……ぼくは、ただ、一緒にいたかっただけ。きれいだと思って、気になって、好きだから一緒にいたかった。

 でも、誰かを、なにかを背負うなんて無理なんだ。そんなことができるくらいなら、とうに家に戻っている!」

 夏惟は足をとめ、ふりかえった。

 夏の終わりの、緑の濃い庭によく似合う、きれいな姿だった。

 檸檬は、やはり、この人を嫌いにはなれそうもなかった。

「ぼくは……母さんたちがぼくの荷物になるまいと、ぼくを避けているのを知ってて、その気持ちに応えて縁を切ることもできないし、かといって、母さんたちを背負って生きる覚悟も出来ない。

 ぼくは……今さえよければ、今が孤独じゃなければ、それでいい。それ以上のことは考えられない。

 もう、夏も終わる。ここには……この街には、戻ってきません」

 夏惟は漆黒の瞳を細め、風に黒髪がながれるの、ゆびさきで梳き、耳にかけた。

 出てこないね、

 ほとんどくちびるを動かさず、夏惟はつぶやいた。

「え?」

 夏惟は洋館をちらりとみて、寂しげにわらった。

「あいつの問題なのに。

 出てきやしない。にげてるんだ。

 秋は臆病なんだ。

 ちょっとからかわれたくらいで、学校に行けなくなる。父の再婚相手だって、完璧とはいわないけど、悪い人じゃない。

 ここだって、何人も人をやとっていたけれど、ちょっと感情の行き違いがあったくらいで、すぐに癇癪をおこしてクビにした」

「でも……でも、さっきはぼくをかばってくれた。

 優しい、と思う。

 ふつうに言われる優しさとは違うかもしれないけど、でも、ぼくは優しいと思う」

「ありがとう」

 夏惟はしろい歯をみせた。

「そう言ってくれたのはきみがはじめてだ。

 秋がぼくに逆らったのも。

 それならその意志をみとめてやろうとも思ったのだけど」

 ぼくには無理です、と、檸檬は息だけの声でつげた。

 実の両親のことですら、逃げ続けているくらいなのだから。

 夏惟は手をのばし、檸檬の髪にふれた。やわらかに髪を撫でる。泣きたくなるほど、やさしい指先だった。

「さっきはすまなかった。

 じっさい、秋は父やぼくにとって、最大のウィークポイントだ。秋を利用して津久見にくいこんで来ようとしたヤツらには、相応の痛い目をみてもらったよ。みせしめのために。

 でも、それは君を侮辱したいいわけにはならないね。

 きみとは別の形でまた会いたいな。

 今度、食事でもどう? ぼくの友だちにも紹介するよ」

 檸檬は微笑して、首をふった。

 秋彦と別れる代償として、今後の便宜をはかってくれるというのなら、欲しくない。そこまで自分を落としたくはない。

 夏惟はふいにびくりとして指を止めた。

「きみ、泣いてる?」

 檸檬はおどろいて、ほおをぬぐった。涙は流れていない。もうながいこと、物心ついてから、涙を流した記憶がない。むしろ、つらいときこそ、微笑をしてやりすごす術を身につけていた。

 檸檬が乾いた手のひらをみていると、夏惟はゆっくりと手を離した。いちど口を開いたが、また唇を閉じた。

 じっと漆黒の瞳が檸檬を見下ろしている。

 不思議な瞳だった。

 すべてを見透かし、そして、善も悪も超越してつつみこんでしまう闇の瞳。

 津久見夏惟の吸引力は、その家柄でも、肩書きでもなく、この眼にあるのかもしれない。

「きみの能力からすれば、この世界はとても愉快な玩具だろうに。

 なぜ『今が孤独でなければいい』なんて、言うんだ」

「あなたは誰もが欲しがるもの、すべてを持ち、たくさんの人に囲まれ守られているのに、なんで、妖怪になりたいんですか」

 夏惟はおどろいたように目をみはったが、

「きみと話すのは、やはり楽しいや」

 くっとのどの奥で笑った。

「ぼくは、想い人が妖怪だから向こうの世界に行きたい、それだけだよ」

 夏惟は澄ました顔でさらりといった。

 真意をとりそこねて、檸檬が夏惟の表情をさぐっていると、夏惟はほおを引き締めて、檸檬を見下ろした。

「きみみたいな天才からみる世界は、案外、窮屈なものなのかな。あまりにモノが見えすぎると、動けなくなってしまう。

 ぼくが言うすじあいじゃァないけれど、秋にふりまわされるくらいなら、きみは、もう少し、自分の我を持った方がいい。人間、というか、あらゆる生物は、じぶんの為に生きるのが本能だから。

 そんなに自分を押し殺していると、いつか、心と体がばらばらになるよ」

 檸檬が呆然とすると、夏惟は洋館に戻っていった。

 ふりかえりはしない。

 それがこの兄弟の流儀なのかもしれない。

 見上げた空は、すっかり秋の色になっていた。



 神はアダムに向かって言われた。

「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。

 お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。

 お前に対して

 土は茨とあざみを生えいでさせる

 野の草を食べようとするお前に。

 お前は顔に汗を流してパンを得る

 土に返るときまで。

 お前がそこから取られた土に。

 塵にすぎないお前は塵に返る。」



 八月三十一日、新宿駅発の電車は、寮に帰る生徒で満席だった。早く帰るだの、実家が窮屈だの、なんだかんだいいながら、けっきょくみんな、最後ギリギリの電車に乗る。

 檸檬はホームで人込みをかきわけ、見知った顔をさがしまわった。強気に押し分けていかないと、すぐに人の波に流されて、電車から遠ざかってしまう。

 年頃も、生活環境も似たコばかりだから、多少年齢が違っていても、雰囲気がよく似ており、どれもがおなじ顔に見える。

 ときおり、

――ア、浅葉さんだ……

 というざわめきが、耳をかすめる。

――知り合い?

――すごく、あたまイイって

――かわいー系じゃん、年上には見え……

 檸檬はほとんどを聞き流し、見たことのある後輩に会釈をされると手を振り、もみくちゃにされながら仲間たちに合流した。

 上級生の特権で、後輩たちを通路に立たせても席をぶんどり、お菓子をひろげはじめている。

 入学からずっと一緒に生活しているメンツだから家族みたいなものだ。言いたい放題、したい放題しながらも、なんとはなしに統制が取れていく。

 檸檬は半泣きになっている連中にノートを貸したり、宿題をみたりしながら、高瀬英二の姿が見えないことに気づいた。

「高瀬はきてないのか?」

「しらねーよ、あんなヤツ」

「呼んでくるよ」

「ほっとけって」

「そうもいかない」

 檸檬はチケットをとりだし、高瀬のコンパートメントの番号を確認した。プライドが無意味に高いから、じぶんからみんなのところにやってくることはできず、かといって、ひとりじゃ寂しくて、檸檬が呼びに来るのを待っているはずだった。

 全指定席の車両だが、中一からから高三までがいりみだれてのっており、通路もクレマティスの生徒でいっぱいだ。世間では男子校にしては上品と言われているクレマティスの生徒でも、長く学校を離れていれば、こんなものである。

 また、これから、おなじ生活が始まる。

 窓ガラスにうつる、制服姿の自分を檸檬はみた。

 自分であって、自分でないよう。

 優等生で。

 友達が多く。

 後輩の面倒見もよく。

 いろいろな役員も兼任していて。

 ああ、また、生徒会の改選の時期……。

 高瀬のコンパートメントにはいった瞬間、檸檬は床にひざをついた。

 もう限界だった。

 学校が嫌いなわけではない。

 だれかとうまくいっていないわけでもない。

 でも……。

 でも。

 これは、ぼくの、本当じゃない。


(――そんなに自分を押し殺していると、いつか、体と心がばらばらになるよ)

 津久見夏惟の声がよみがえる。


 違う。

 違う……。

 とうに檸檬の心は壊れている。表面をとりつくろっていた仮面がぱりぱりに乾き、ひび割れ、はがれおちていく。

 もう、いまとなっては、本当のじぶんがどんなだったかすら、思い出せない。

「あ、浅葉、ど、どうした……」

 突然、コンパートメントに入ってきて倒れこんだ檸檬に、高瀬はぎょっとなって、椅子からとびあがった。

「ご、ごめん……酔ったみたい。気持ち悪くて。

 あ、みんな、あっちの車両にいるから……」

「あ……、そう。じゃあ、オレ、みんなのとこ顔出してくるから、浅葉、ここで休んでろよ。

 酔い止めあるから……」

「いい、大丈夫。

 ちょっと休めば大丈夫だから。休ませて」

 檸檬が言うと、高瀬はどこかほっとしたというように、そそくさと出て行った。

 そう、誰も彼も。

 都合のよいときは檸檬にすりより、そうでなくなったとたん、背を向けた。

 誰もが……。

 だから、みなの身勝手な要求にさきまわりして応じてきたんだ。

 そうすれば、すくなくとも、孤独じゃない。

(秋彦、秋彦)

 会いたい。

 あの透明な瞳にうつる檸檬だけは、ありのままだった。

 秋彦はなにも檸檬に聞かなかったし、知ろうともしなかった。

 好き勝手に、手荒にあつかわれたけど、それでも……そう、檸檬が母親譲りのパニックを起こしかけたときには、離れず、そこにいてくれたじゃあないか。兄から檸檬を守ろうとしてじゃないか。

 ドクン。

 心臓が強くなった。

(ぼくは……ぼくは、この先、ほんとうにこんなんでやっていけるのか……?)

 でも。

 でも、もう。

 あの場所にはもう行けない。

 あの閉じられた楽園には。

 津久見夏惟に、もう二度と戻らないと約束した。秋彦もそのつもりでいるだろう。

 いまさら前言を撤回して、嫌われたくない。軽蔑されたくない。

 だいいち、夏惟は檸檬が秋彦のそばにいることを許さない……。

 檸檬は心臓をつよく押さえ、呼吸を繰り返した。

 檸檬にはもう、戻る場所はない。

 このまま進むしかない。

 壊れた心のまま。

 他人の要求だけを叶え続けて。



 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕せることにされた。

 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。



 浅葉檸檬は昏い街でぼうぜんとしていた。

 閑静な住宅街にふさわしく、外灯のしろい明かりだけがぽつぽつともり、車両ももう通っていない。

 夜に見る、津久見邸はひっそりと樹木の陰に覆われ、明かりひとつなく、無人のようだ。

 自分がどうしてここにいるのか、ここで何しているか、檸檬には自分でも分からなかった。

 荷物はすべて電車にのせたまま、気づくと身ひとつでホームに降りていた。そこからどこをどうやってここまでたどりついたか、記憶にない。

 早く寮に戻らなくては。

 せめても、電話一本いれないと、とは思っても、体が動かない。

 かといって、ここから前に進むわけにいかないのは、よく分かっていた。

 津久見夏惟は、檸檬を――だれであれ弟に近づく輩を歓迎しない。

 秋彦も、もう、すでに自分を捨てた檸檬を迎え入れはしないだろう。

(バカだ……ぼくは、ほんとうにバカだ)

 夜気が身にしみ、檸檬は立て続けにくしゃみをした。

 ひねくれた方程式がすらすら解けたところで、いつも、じぶんの気持ちすら把握できていない。

(ぼくは……なにひとつ分かっちゃいなかった)

 本当は秋彦がかばってくれて、嬉しかった。

 そのまま甘えていたかった。

 夏惟あいてに、もっとしゃべりたかった。

 両親のまえで自分を殺していい子になんて、したくなかった。わめきたかった。文句をいいたかった。クラスメイトの面倒を一方的にみつづけるのも、もううんざりだった。

 夜空を見上げているうちに、涙が出てきた。

 不安で。

 悲しくて。

「……ぅ」

 奥歯を噛み締めても、声がもれる。

 指先が濡れている。

(ぼく、泣ける、んだ…………)

 感情なんて、じぶんにはないと思っていた。

 怒りも。

 悲しみも。

 押し殺しているうちに、何も感じなくなっていた。だからクラスメイトの稚拙な喜怒哀楽の世話をしながらも、彼らがうらやましかった。

(ぼく……ぼく、は、……)

 これからどうすればいいのだろう。

 子どものように、道端でぽろぽろ涙を流していると、かちゃりと音がした。

 勝手口のドアが開き、秋彦が出てきた。外灯を銀の髪が反射し、まるで全身が白く発光しているよう。

 美しくて、たくましい。

 まっすぐな腕が、檸檬にむかってのばされる。

 檸檬はかぶりをふった。

 秋彦は檸檬に歩み寄り、肩を抱き、ひきよせた。

「ご、ごめん……迷惑かけないよ。

 もう、帰るから」

 秋彦は檸檬をひきずるようにして、屋敷に戻る。檸檬はあらがった。

「だ、だって、……夏惟さんにだって約束した」

 秋彦はちらりと灰色の瞳を檸檬に流した。

 くちびるに、からかうような微笑が浮かぶ。

「秋彦……?」

 また路上でなにかされるのかと身を硬くしたが、ただ強い力で檸檬を屋敷に連れこんだだけだった。

 ダイニングルームは磨かれたシャンデリアに煌々と明かりがともり、香ばしい匂いがただよっていた。

 中央の席に、ひとりぶんだけ、若草色のクロスがひろげられ、ジノリの皿にシャンペングラス、ナイフとフォークが並んでいる。

「夏惟さん? ……じゃあ、秋彦の?」

 秋彦は檸檬の肩をおしていすに座らせた。

 いちど姿を消すと、ほどなくして、プレートとシャンパンのボトルを運んでくる。

 熱した皿にはステーキと温野菜の盛り合わせが美しく揃えられてある。

「ぼくの? ぼくだけ?」

 秋彦が檸檬の横に座り、テーブルにひじをついてにこにこしながら檸檬の顔をのぞきこんでいるので、檸檬はつい、嬉しくなって口をつけた。

「おいしい。おいしいよ。秋彦が作ったの?」

 秋彦は満足げに目を細めた。

 綺麗な笑顔だ。

 いままで、秋彦は感情をみせたことはなかった。

 檸檬はみょうな気分に陥った。

 そういえば、水いっぱいですら、檸檬にすすめたことがなかった。なんとはなしに、子どもで、ちょっと世間知らずで、自己中で、そういうことに気が回らないのだと思っていた。

 そうじゃなかったようだ。

 トクン。

 檸檬の心臓が鳴った。

 世の中の誰も、檸檬がこの屋敷にいることを知らない。檸檬は誰にもいっていないし、津久見夏惟だって、檸檬は去ったと思っているはずだ。

 おまけに、檸檬は寮に戻る電車の中から、荷物すら残したまま、消えたのだ。

(もし、このままぼくが消えたら……?)

 食べ物がノドに通らなくなった。

 ゆびの震えをかくすために、檸檬はナイフとフォークを置いた。

「……あ、あまり、お腹がすいてなくて。ゴメン」

 秋彦はたいして気を害したふうもなく、シャンパンのボトルから金色の液体をグラスに注いだ。

 ボトルを握る手は、関節がしっかり浮き出た男のもので、注ぐ作法も洗練された大人の男のものだった。

 ずっと、無表情で、子どもじみた仕草ばかりだったから、上背がいくらあっても、檸檬よりずっと年下だろうと思っていた。

 もしかしたら、檸檬と年は変わらないかも……いや、上なのかもしれない。

 夏惟は秋彦が知的障害者だと言ったが、それはどの程度の障害なのだろうか。通学はしていないようだし、社会性もないようだが、ひとりでこの広大な屋敷で生活できるのだったら、それなりの知能はあるということじゃあないのか。

 しゃべれなくても、その気になれば、手話による会話はきちんとできたのだ。

 秋彦は細長いシャンパングラスを檸檬の前に置くと、深くいすに座りなおした。

 ひじ掛けに両肘をのせ、目を細める。

 優雅な動作も、表情も、こうしてみるとやはり、夏惟によく似ていた。

 ガラスのように透明な灰色の瞳がじっと、檸檬をみつめている。

 きれいだ。

 陶磁器のようなほおに落ちた、細い銀の髪も。

 きゅっとむすばれた、色のない、薄いくちびるも。

 なんだかんだ、理屈をつけてみたけれど、単に檸檬は秋彦のことが好きで、はなれたくなかった、それだけなのかもしれない。

 シャンパングラスには黄金の液体がみち、細かな泡が立ちのぼっていた。

 泡にさそわれて無意識のうちにグラスを持っていた。

 ひとくち含んだ。

「苦い」

 サイダーを想像していたので、ちょっと顔をしかめて舌を出した。

 秋彦がじっと檸檬を見ている。

 のこりは一息で飲み干した。

 音をたててグラスを置く。

 檸檬は正面から秋彦をみつめた。

「秋彦は……言葉は嘘をつくっていったけど、ぼくはもう少し、嘘でもいいから、秋彦と話しをしたかった。

 名前もおしえてくれなかったんだよ」

 秋彦はやさしい微笑を浮かべたままだ。

 前のように、イラついた顔を見せることもない。

 檸檬はつづけた。

「秋彦は……」

 体ががくりと傾いた。

 眠い。

 まぶたが閉じてしまう。

 無性に眠くて、なんだか、ぼうっとしてきて、ひどく気持ちがいい。

 くずれる檸檬の体を、秋彦がうでをのばして受け止めた。その腕に、腕をからませようとするが、力が、もう、はいらなかった。

(秋彦は……、すこしはぼくのこと、好きだった……?)

 ぼくのこと、

 死体となっても愛してくれる?



 津久見秋彦は、深い眠りに落ちた檸檬の髪を丁寧に整えた。

 まつげが長く、年よりはずっと幼く見える。

 檸檬の甘い、やわらかなくちびるに一度くちづけすると、秋彦は檸檬の体をだきあげた。

 檸檬の体は、温かくて、やわらかい。


 夏惟は賢い。

 この世の中で最も賢い。

 いつでも、物事は夏惟がいうとおりなった。

 たくさんの人間が秋彦の前にあらわれ、夏惟の手練手管のまえに、正体を現し、消えていった。

 檸檬はいかにも夏惟がダメと言いそうな相手だった。

 愛らしい外見で、目ざとく、利口だった。プライドが高そうなのに、秋彦の要求にはどんなことでも応えた。肌はなめらかで、イヤラシかった。

 だから、何か目的があって秋彦の前に現れたのだ、いずれ夏惟が消してしまうと思っていた。それまでの玩具として、楽しむことにした。

 でも、夏惟は檸檬をひとめで気に入った。夏惟は好き嫌いがカオにでるから分かった。檸檬はイイ奴だったのだと。

 なのに、檸檬は出て行った。

 一緒にいたかった、

 キレイだと思った、

 好きだから、

 そういったくせに、出て行った。


 やっぱり言葉は嘘をつく。


 だから、決めた。

 もし檸檬が戻ってきたら。

 もう、二度と、檸檬を外には出さない。

 もう、誰にも触れさせない。

 夏惟にだって。


 秋彦は東向きのいちばん高い部屋に、檸檬を運んだ。

 いちばんはじめに、朝日の差し込む部屋だ。

 檸檬をベッドに横たえると、両手と首を拘束した。

 華奢な檸檬のくびに無骨な鉄枷をはめるのは、すこし心が痛んだが、仕方ない。

 秋彦はベッドに腰をおろし、檸檬の寝顔をわくわくしながら見守った。

 目覚めたときに、どんな、顔をするのだろう。

 すこし、怒るかもしれない。

 でも、すぐに分かってくれる気がする。

 

――嘘でもいいから、もっと話をしたかった。


 それが檸檬の望みなら、叶えよう。

 今から、

 無限の時間がある。



 閉じられた、ふたりきりの楽園。

 天使と、きらめく剣の炎に守られて、

 もう何人たりとも、彼らを邪魔することはない。


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― 新着の感想 ―
[一言] こんばんは。作品拝読しました。なろうのBL、現代モノの短編てあまり読んでいないなと思い読んでみました。鳩山郁子さん…でしたでしょうか、耽美系の少年の話を描かれる漫画家さんを思い出しました。話…
[良い点]  読み始めたら止まらなくなりました。  ミステリの雰囲気をにおわせつつも、繊細な文字づかいの感覚、間々に絶妙なタイミングで挿入される詩、川端康成を思わせる時間・行間の取り方など、非常に純文…
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