第2話「知恵と帳簿と、最初の一歩」
森を抜けるのに、一時間かかった。
レンは歩きながら、思考を止めなかった。感情を処理するには情報が足りない。情報を得るには行動しなければならない。だから考え続ける。それだけだ。
木の苔の生え方、葉の傾き、遠くから聞こえる水音の方角。地球の知識が全て使えるわけではないが、植物の光屈性や水の流れる方向といった物理法則は、おそらくこの世界でも変わらない。それを手がかりに、人の気配がある方角へ進んだ。
森の縁に出たとき、丘の下に小さな村が見えた。
石造りの家が十数軒。中央に井戸。端に馬小屋。夜だというのに、数軒の窓から暖かい灯りが漏れていた。焚き木の煙が、夜風に乗って流れてきた。
レンはすぐに近づかなかった。
まず観察する。三十分かけて、村の構造と人の動きを把握した。門番は一人で、半分居眠りをしている。武装は錆びた剣一本。村全体に緊張感はない。安全な村だと判断できる。
言語の確認も取れた。風に乗って聞こえてくる会話が、ほぼ日本語として理解できる。【知識の蓄積】が補完しているのか、転生時に付与されているのか、理由は不明だ。だが通じる。それだけわかれば十分だ。
レンは丘を下り始めた。
門番の老人は、レンを見て眉をひそめた。
「旅人か。こんな夜中に一人とは珍しい。身分証はあるか」
「持っていません。森で迷っていました。一晩泊まれる場所を教えていただけますか」
老人はレンをしばらく眺めた。脅威ではないと判断したのか、奥の建物を指さした。
「宿ならあそこだ。ただ、ステータスが低いなら夜道は気をつけろ。最近、村の周辺で魔物が出る」
「ありがとうございます。魔物というのは、どのような――」
「詳しくはギルドで聞け。儂は眠い」
老人はそのまま目を閉じた。
レンは礼を言い、宿へ向かった。歩きながら、「魔物」という単語を頭の中のリストに加えた。確認すべき事項が、また一つ増えた。
宿の女将は四十代の、骨格のしっかりした女性だった。
レンを見た瞬間「魔力なさそうだねえ」と笑ったが、声に棘はなかった。ただの観察だった。一泊の値段は銅貨三枚。レンには一枚もない。
「お金を持っていません。何か手伝える仕事をしますので、今夜だけ泊めていただけますか」
「字は読めるか」
「はい」
「計算は」
「得意です」
女将の目が変わった。「帳簿が溜まっていてね」と言って、紙の束を取り出した。一ヶ月分の収支記録で、数字は乱雑、記入漏れだらけだった。
レンは二時間で全て整理した。収支の構造を把握し、誤記を修正し、翌月以降に使いやすい形式に組み直した。蝋燭の灯りの下で、ペンを走らせながら、レンは初めて「この世界で自分に使える武器がある」と感じた。
女将は目を丸くして言った。
「……本当にやったのか。あんた、頭いいね」
「勉強だけが取り柄なので」
その言葉が、自然に口から出た。
現実では欠点として言われ続けた言葉が、今夜初めて武器になった。ほんの小さな変化だったが、レンの胸の中で、何かが静かに動いた。
与えられた部屋は物置に近かった。藁のベッドに横になり、天井を見上げる。
明日やるべきことを整理する。冒険者ギルドへ行く。通貨と物価を把握する。魔法の仕組みを理解する。【知識の蓄積】の限界を探る。
リストを作り終えたとき、初めて感情が追いついてきた。
母親の顔が浮かんだ。論文の締め切りを心配していた指導教員の顔が浮かんだ。結局、誰にも挨拶できなかった。誰にも、さよならを言えなかった。
目の奥が熱くなった。
レンは目を閉じた。泣かなかった。泣き方を、少し忘れていた。
代わりに、静かに呟いた。
「……必ず、生き残る」
誰に聞かせるわけでもない言葉が、暗い部屋に消えた。




