第19話「存在しない人間」
問題が発覚したのは、翌朝だった。
カイが宿に戻ってきたのは、夜が明けて間もない時間だった。扉を叩く音で、レンは目が覚めた。
「起きているか」
「今起きました」
「話がある。エルナも呼べ」
声のトーンで、良い話ではないとわかった。
三人が食堂に集まった。まだ朝食の時間前で、他に客はいない。カイがテーブルに折り畳んだ紙を置いた。
「昨夜、俺の伝手から情報が来た。魔法師ギルドが動いている。法的な妨害ではなく、別の方向だ」
「身元調査ですか」とレンは言った。
カイが目を上げた。「なぜわかった」
「セルディオは昨日、法的手段が通じないとわかった。次に取れる手は、私の信用を落とすことです。信用を落とす最も確実な方法は、身元を疑わせることです」
「正解だ」とカイは言った。紙を広げた。「ギルドの調査員が、お前の出身地を調べ始めた。王都の戸籍管理局、各地方の出生記録、冒険者ギルドの登録データベース。全てを当たっている」
エルナが顔を上げた。
「何か問題があるのですか。出身地が遠方なら、記録がないこともあります」
カイはレンを見た。
レンはエルナを見た。
二人の間に、短い沈黙があった。
「ある問題があります」とレンは言った。「私の出生記録が、この世界のどこにも存在しません」
エルナは三秒間、レンを見た。
「どういうことですか」
「正確に話します」とレンは言った。「私はこの世界の出身ではありません」
沈黙があった。
エルナの目が動いた。驚き、困惑、そして急速な思考。彼女は感情より先に頭が動くタイプだとわかっていた。
「別世界から来た、と言いますか」
「はい」
「それを証明する手段は」
「今のところ、ありません」
エルナはしばらく考えた。
「信じます」と彼女は言った。
「理由は」
「あなたの思考パターンは、この世界の人間のものではありません。魔法を情報処理として捉える発想も、詠唱を命令文として分解する発想も、この世界の教育体系からは生まれない。私は研究院で多くの研究者を見てきました。神崎レンという人間は、根本的に異なる知識体系を持っています。別世界の出身だとすれば、全てに説明がつきます」
エルナの声は揺れていなかった。
カイが言った。「俺も信じている。最初から薄々そうだと思っていた」
「なぜ言わなかったのですか」と聞くと、カイは「お前が言いたいときに言えばいい話だ」と答えた。
問題は信用ではなく、記録だった。
「魔法師ギルドが調査を続ければ、遅かれ早かれ記録がないと判明します」とレンは言った。「その時点で、私の身元が不明瞭な人物として公表される可能性があります。契約の信用性にも影響します」
「ヴァルキス商会との契約は公証済みです」とエルナが言った。「契約内容は技術の使用権であり、提供者の身元は契約の有効性に直接影響しません。ただし商会の信用問題として、ミレーヌさんが動揺する可能性はあります」
「連絡した方がいいですか」
「先に話しておく方が、後で発覚するより信用を保てます」
正しい判断だとレンは思った。
「もう一つの問題があります」とカイが言った。「出生記録がない人間は、王都では法的な保護を受けられない場合があります。身分不明者として拘束される可能性があります」
「拘束される前に、何か手を打てますか」
カイは少し考えた。
「一つある。王都には、特殊な事情を持つ人間の身元を保証する制度があります。保証人が王都市民であれば、出生記録がなくても一定期間の身分証が発行されます」
「保証人になれる人がいますか」
「俺がなれる」とカイは言った。「騎士団員の身分では、身元保証が可能です。ただし俺の正体を一定程度開示することになります」
「それは問題ないですか」
「今がその時機だと思っている」
午前中、三つのことを並行して動かした。
カイが騎士団の連絡先に身元保証の手続きを依頼した。エルナがミレーヌに状況を説明する書簡を送った。レンは魔法師ギルドの調査が現時点でどこまで進んでいるかを、カイの伝手を通じて確認した。
昼前に、三つの返答が揃った。
カイの身元保証手続きは受理された。ただし正式発行まで二日かかる。
ミレーヌからの返答は「承知しました。契約の有効性に変わりはありません。ご連絡に感謝します」という一文だった。簡潔で、感情がなく、それでいて確かな意思が込められていた。
魔法師ギルドの調査は、すでに王都の戸籍管理局まで進んでいた。記録がないという結論が出るのは、早ければ今日中だった。
「時間がありません」とレンは言った。「身元保証の発行が二日後では、間に合わない可能性があります」
「一日に縮められるか確認する」とカイは言った。
「私も研究院を通じて手を打ちます」とエルナが言った。「研究院には身元保証の別ルートがあります。カイさんのルートと並行して進めれば、どちらかが早く動くはずです」
「お願いします」
午後、レンは一人で宿に残った。
カイとエルナが動いている間、レンにできることがあった。
研究ノートを開いた。
問題の本質を整理する。
身元記録がない。これは事実だ。変えられない。ならば、記録がないことを弱点ではなく中立の事実として扱う枠組みを作る必要がある。
この世界に記録がない人間が存在する状況は、他にどんな場合があるか。
戦争で記録が焼失した場合。辺境の集落出身で記録が整備されていない場合。宗教的な理由で記録を持たない集団の出身である場合。そして――異世界から来た場合。
どれも証明できない。だが、どれも否定できない。
セルディオが「記録がない」という事実を使って何かをしようとするなら、その論理の穴を先に埋めておく必要がある。
レンはページに書き始めた。
記録の不在は存在の否定ではない。この世界には記録体制が整備されていない地域が多数存在する。神崎レンという人物の技術的能力は、記録の有無に関わらず実証されている。契約は公証済みで有効だ。身元保証の手続きは進行中だ。
論理の鎖を繋いでいく。
どこかで、感情が追いついてきた。
存在しない人間。
その言葉が、頭の中で反響した。
地球では確かに存在していた。家族がいた。研究室があった。論文があった。コンビニに行く習慣があった。全部、あった。
この世界では、何もない。
記録も、過去も、証明できる歴史も。
あるのは、今日ここにある行動の積み重ねだけだ。
レンはペンを止めずに書き続けた。
感情は後でいい。今は手を動かすことだけが、存在の証明になる。
夕方、カイとエルナが戻ってきた。
二人とも、疲れた顔をしていたが、目に力があった。
「手続きが一日に縮まりました」とカイが言った。「明日の午前中に身元保証書が発行されます」
「研究院のルートでも確認が取れました」とエルナが言った。「どちらかが遅れても、もう一方が補完できます」
「ありがとうございます」
レンは二人を見た。
今日一日、二人はレンのために動いた。自分の仕事を持ちながら、優先順位を変えてくれた。
「なぜ、そこまでしてくれるのですか」
聞いてから、少し後悔した。聞くべきではなかったかもしれない。
だがカイは考えずに答えた。
「お前が正しいことをしているからだ」
エルナは少し考えてから言った。
「あなたと一緒にいると、世界が少し変わって見えます。それだけで、十分な理由です」
レンはしばらく黙っていた。
この世界に来て、初めて何かが胸の奥から動いた。涙ではない。もっと静かで、確かなものだった。
「明日も、よろしくお願いします」とレンは言った。
二人が頷いた。
夜が来た。
存在しない人間の、確かな一日が終わった。




