第16話「王都への道、そして最初の影」
王都への道は、三日かかると言われていた。
出発の朝、レンは荷物をまとめた。着替え二着、研究ノート三冊、筆記具、乾燥薬草、銀貨十一枚と銅貨数枚。全財産がそれだけだった。宿の女将が黒パンを持たせてくれた。「また帰ってきなよ」と言った。
レンは「はい」と答えた。
それが約束になるかどうか、まだわからなかった。
ギルドの前でカイとエルナが待っていた。カイは旅慣れた装備で、余分なものを持っていない。エルナは馬車を使うつもりだったが、レンに「目立ちます」と言われて御者だけ残し、馬一頭の移動に切り替えていた。
ゴードンが見送りに来た。
「王都か」と彼は言った。「気をつけろよ。あそこは村とは違う。金と権力が全部絡まってる」
「わかっています」
「わかってても、初めて行くやつは必ず驚く」ゴードンは腕を組んだ。「帰ってきたら話を聞かせろ。土産話くらいは期待していい」
「何がいいですか」
「王都の酒」とゴードンは即答した。
レンは笑った。この村に来て、初めて笑った気がした。
アリアがギルドの入口に立っていた。見送りに来たのかどうか、判断しにくい立ち方だった。レンが目を向けると、彼女は一度だけ頷いた。言葉はなかった。
それで十分だった。
最初の一日は平坦な街道が続いた。
三人の間隔は、自然と一定に保たれていた。カイが先頭、レンが中央、エルナが後ろ。誰も指示しなかったが、それぞれの判断で自然にそうなった。
昼過ぎに休憩を取ったとき、エルナがレンの隣に来た。
「魔法の訓練をしましょう」と彼女は言った。
「移動中にですか」
「時間がもったいない。あなたの圧縮詠唱理論は正しい。ただし発動の安定性が低い。昨日の実演を見ていて気になりました」
「安定性」
「同じ詠唱をしても、毎回出力が微妙に違います。魔力の初期流量が安定していないからです。それを均一化する訓練があります」
エルナは手のひらを上に向け、目を閉じた。
一秒後、手のひらの上に水の球が現れた。直径三センチ、完全な球形。揺らぎが全くない。
「魔力流量の均一化訓練です。魔力を一定速度で放出し続ける感覚を体で覚える。剣士が素振りを繰り返すのと同じです」
「具体的にどうやりますか」
「まず自分の魔力の流れを観察します。川の流れをイメージしてください。速い場所と遅い場所がある川ではなく、均一な速度で流れる川。それを体の中に作る」
レンは目を閉じた。
胸の奥の熱に意識を向ける。いつもの炭火。それをよく見ると、確かに揺らいでいた。一定ではない。息の速さに連動して、微妙に変動している。
「呼吸と連動しています」とレンは言った。
「正解です。初心者は全員そうです。呼吸から切り離す訓練が最初のステップです」
エルナの声が、授業をする教師のものになっていた。さっきまでの鋭い目が、集中した目に変わっている。
レンは素直に従った。
プライドより、学ぶことの方が大事だ。
三時間歩きながら、レンは魔力流量の均一化を練習した。
最初は全くできなかった。意識するほど呼吸が乱れ、呼吸が乱れるほど魔力が揺らいだ。悪循環だった。
二時間目に、一つの突破口を見つけた。
呼吸から切り離そうとするのではなく、呼吸を均一にする方が早い。呼吸を一定にすれば、魔力も自然に安定する。論理的に考えれば当然の順序だった。
レンは呼吸を四秒吸って四秒吐くリズムに固定した。それを維持しながら魔力の流れを観察すると、揺らぎが七割減った。
「気づきましたね」とエルナが言った。後ろから見ていたらしい。
「呼吸を先に安定させる方が早い」
「正しい。ただし戦闘中は呼吸を一定に保てない。だから最終的には呼吸から切り離す必要があります。でも今日の段階では十分です」
「どれくらいで切り離せますか」
「通常なら三ヶ月です」
「早める方法は」
エルナは少しの間、考えた。
「あなたなら、二週間でできるかもしれません」
「根拠は」
「私が今まで会った中で、あなたが最も速く理論を実践に変える人間だからです」
それは客観的な評価だった。お世辞ではなく、データとして言っている。
レンは前を見た。
「やります」
二日目の夜、野営の火を囲んで三人が座った。
カイが薪を組み、エルナが火魔法で点火した。レンは食料の配分を計算した。それぞれが自然に役割を分担していた。
火が落ち着いたころ、エルナが口を開いた。
「魔力脈の収束について、一つ仮説があります」
カイが顔を上げた。
「建国時の封印に関する文献に、一つの記述がありました。封印は定期的に魔力を消費して維持される。その消費源は王都地下の魔力脈です。封印が弱まれば、魔力脈から吸収される量が増える」
「封印が弱まっている、と」とカイが言った。
「あるいは意図的に弱めさせられている。封印の維持機構に干渉できれば、魔力脈を異常収束させることができます」
「その干渉方法は」
「魔力脈への直接アクセスが必要です。通常の魔法使いにはできません。ただし――」エルナは少し間を置いた。「王都の地下には、建国時に作られた魔力制御装置があると文献に記されています。それを使えば、魔力脈に干渉できます」
「その装置の場所を知っている人間が、王都にいる」とレンは言った。
「おそらく。そして魔法師ギルドは、その場所を知っている可能性が高い」
三人の間に、沈黙があった。
火が爆ぜた。
「セルディオが、直接関与している可能性があります」とレンは言った。
「私もそう思います」とエルナは答えた。「ただ証拠がない」
「王都に入れば、証拠を探せます」
「探し方がわからなければ、探せません」
「一つずつ当たります」とレンは言った。「情報は必ずどこかに残ります。完全に隠すことは、どんな組織にもできない」
カイが薪を一本足した。炎が大きくなった。
「王都に入ったら、俺の伝手を使える」と彼は言った。「騎士団の旧知が数人いる。表向きには動けないが、情報は取れる」
三人が、それぞれの手札を確認し合った。
商業ルート、学術ルート、諜報ルート。三本の糸が王都で交差する。
三日目の午後、王都が見えてきた。
丘の上から、石造りの巨大な城壁が見えた。複数の塔が空に伸び、旗が風に揺れていた。城壁の手前に、街道沿いの検問所がある。人と馬車の列が続いていた。
レンはその光景を見て、一瞬だけ足を止めた。
スケールが村とは違う。建物の密度、人の数、空気の重さ。全てが別の次元だった。
カイが並んで立った。
「初めて王都を見る顔だな」
「はい」
「圧倒されるのは最初だけだ。すぐに慣れる」
その瞬間、レンの首筋に冷たいものが走った。
本能ではなく、観察の結果だった。
街道脇の林の中に、人影があった。動いていない。木に溶け込んでいる。だが葉の揺れ方が、風の方向と合っていない。
「カイさん」とレンは静かに言った。「左の林、十一時の方向。動いていない人影が三つあります」
カイの目が動いた。一瞬だけ。それだけで確認したとわかった。
「エルナ」とカイは言った。声は穏やかだった。「馬の手綱を持ったまま、歩き続けてください。ペースを変えないで」
「わかりました」とエルナは言った。声が揺れていなかった。
三人は歩き続けた。
林の人影は動かなかった。
検問所まで五十メートルになったとき、人影が消えた。
そのまま何も起きなかった。
検問を抜け、城門をくぐった瞬間、カイが小声で言った。
「見られていた。尾行の訓練を受けた人間だ」
「誰が動かしていると思いますか」とレンは聞いた。
「わからない。ただ一つだけわかる」
「何ですか」
「王都に入る前から、俺たちは知られていた」
城門の向こうに、王都の街並みが広がっていた。
石畳、建物、人の波、市場の喧騒。全てが動いていた。
その喧騒の中に、静かな敵意が混じっていた。
レンは前を向いた。
始まった、と思った。




