第14話「令嬢と、仮面の理由」
返答を待つ六日目の朝、宿に見慣れない馬車が止まった。
黒塗りの車体に、金の細工。御者が二人、護衛らしき男が四人。どれも村には不釣り合いな装いだった。レンは宿の窓からそれを見て、一度だけ目を止めた。それから視線を研究ノートに戻した。
関係ないかもしれない。
だが三十分後、宿の女将がレンの部屋をノックした。
「お客さん。あんたを訪ねてきた人がいるよ」
「私をですか」
「名前を指定してきた。神崎レン、って」
食堂に降りると、一人の女性が座っていた。
年齢はレンと同じくらいか、一つ二つ下か。亜麻色の髪を丁寧に編み込み、深緑のドレスを着ている。姿勢が完璧に整っていた。貴族の教育を受けた人間の、骨格から作られた所作だった。
だが目が違った。
貴族の令嬢が持つような、世界を額縁越しに見る距離感がない。真っ直ぐで、好奇心が剥き出しで、どこか獣に近い目の鋭さがあった。
レンが椅子を引いて座ると、女性は開口一番に言った。
「圧縮詠唱の設計者が、魔力十九の二十四歳男性だと聞きました。本当ですか」
挨拶がなかった。
レンは少しだけ面白いと思った。
「はい。神崎レンです」
「私はエルナ・ヴァルトシュタイン」と女性は言った。「王都の魔法研究院に所属しています。ヴァルトシュタイン伯爵家の三女です」
魔法研究院。魔法師ギルドとは別の組織だとレンは記憶していた。王家直属の研究機関で、純粋な学術研究を目的としている。魔法師ギルドとは管轄が異なり、時に対立することもあると文献にあった。
「魔法師ギルドとは別の組織ですね」
「そうです」とエルナは即答した。「あそこは腐っています」
直球だった。
「詳しく聞かせてもらえますか」
「魔法師ギルドは魔法の研究機関ではなく、権威の維持機関です。新しい理論が出るたびに審査という名目で封じ込める。過去百年で、有望な研究が三十七件葬られました。私はその記録を全部読みました」
エルナはテーブルに革の手帳を置いた。びっしりと文字が書き込まれている。
「あなたの圧縮詠唱理論のことは、バルトの報告書で知りました。研究院の伝手で入手しました。読んで、すぐにここへ来ました」
「王都からここまで、何日かかりましたか」
「三日です。馬を飛ばしました」
レンは少し考えた。
王都から三日。バルトの報告書が研究院に届いたのが数日前だとすれば、報告書を読んだその日に出発したことになる。
「急いでいた理由は」
「魔法師ギルドが動く前に来たかった」とエルナは言った。「セルディオが公表禁止令を出したことも知っています。あの男は過去にも同じことをしています。私の研究院の先輩が、三年前に同じ手で潰された」
エルナの声に、静かな怒りがあった。感情的な怒りではなく、長年積み重なった怒りだった。
「あなたに協力したい」と彼女は言った。「研究院のバックアップがあれば、魔法師ギルドの審査権に対抗できます。研究院は王家直属です。ギルドより上位の権限を持つ場面があります」
レンはエルナを観察した。
動機は明確だ。魔法師ギルドへの対抗意識と、純粋な学術的興味。どちらも本物に見える。だが、情報が足りない。
「一つ確認させてください」とレンは言った。「研究院があなたを派遣したのですか。それとも個人的に来たのですか」
エルナは一瞬だけ目を逸らした。
「……個人的に来ました」
「研究院には報告していない」
「上に報告すると、手続きが必要になります。手続きには時間がかかる。時間がない」
「研究院の権限を使うと言いましたが、個人で来たなら使えないのでは」
エルナは口を閉じた。
五秒の沈黙があった。
それからエルナは、小さく息を吐いた。
「……正確には、使える可能性があります。研究院員には個人裁量での技術評価権が認められています。私が個人として技術を評価し、研究院への採択を推薦すれば、ギルドの審査権より優先されます。ただし採択には院長の承認が必要で、それには時間がかかります」
「つまり確実ではない」
「確実ではありません」とエルナは認めた。「でも、今あなたが持っている選択肢より可能性が高い」
レンは考えた。
商人ギルドのトレードからの返答が明日来る。そちらのルートも動いている。エルナのルートが加われば、二本の糸になる。どちらかが切れても、もう一本が残る。
リスク分散の観点から、悪い選択肢ではない。
だが、判断を急ぐ必要はない。
「今日は話を聞かせてください」とレンは言った。「返答は明日にします」
エルナは少し意外そうな顔をした。
「……断る可能性があるのですか」
「あります」
「なぜ」
「情報が足りないからです。あなたのことを、まだほとんど知らない」
エルナはレンを見た。
値踏みするような目ではなかった。何か別のものを探している目だった。しばらくして、彼女は少しだけ笑った。
「珍しい人ですね」
「そうですか」
「私に対してそういう反応をする人は、あまりいません。普通は伯爵家の名前を聞いた時点で態度が変わります」
「伯爵家かどうかよりも、あなた自身の判断力と誠実さの方が重要です。肩書きで信用は測れません」
エルナはしばらくレンを見た。
それから手帳を閉じ、背筋を伸ばした。先ほどより、少しだけ自然な姿勢になった。
「何を知りたいですか」とエルナは言った。「答えられる範囲で、正直に話します」
二時間、話した。
エルナは約束通り、正直だった。研究院内の派閥争い、魔法師ギルドとの確執、自分の研究内容、王都の政治状況。聞いたことには全て答えた。答えられないことは答えられないと言った。
レンは聞きながら、情報を整理した。
エルナ・ヴァルトシュタイン。伯爵家三女。研究院での専門は魔力理論の応用。過去に魔法師ギルドとの論文争いで敗れた経験がある。その経験が、今のギルドへの対抗心の根にある。
動機は複合的だが、一貫している。信用できる可能性が高い。
夕刻になり、エルナが立ち上がった。
「返答は明日ですね」
「はい」
「一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたは、なぜそんなに落ち着いているのですか」とエルナは言った。「魔法師ギルドに封じられて、王都の問題に巻き込まれそうになっている。普通なら怖いはずです」
レンは少し考えた。
「怖いです」と正直に言った。「ただ、怖さを感じている時間があったら、次の手を考えた方がいい。それだけです」
エルナはその答えを、しばらく咀嚼するように黙っていた。
それから扉に向かいながら、振り返らずに言った。
「明日の返答、待っています」
扉が閉まった。
レンは一人になり、天井を見た。
今日また、隣に立つ人間が一人増えるかもしれない。
蝋燭に火を灯し、研究ノートを開いた。
今夜考えるべきことが、また増えた。




