第1話 志貴の一目惚れ論
小学2年生の時、僕は「運命」を食した。
両親に連れられて行った店で出会った、一杯の豚骨ラーメン。
他のラーメンも美味い。だが、魂が震えるような衝撃は来なかった。
しかし、その豚骨スープは違った。スープをすすった瞬間、世界の音が遠のいた。とろりと濃厚なのに、しつこくない。口いっぱいに広がる旨味が、脳に直接訴えかけてくる。
麺は絶妙な硬さで、噛むたびに小麦の香りが弾ける。チャーシューは濃いのに優しい。そしてネギの爽やかな刺激が、すべてを完成形へ導く。
これは、ただの料理じゃない。僕のために存在している一杯だと思った。
「いつか、本場の味をこの舌で確かめたい」
その願いが叶ったのは、中学3年生の夏だった。
自ら貯めた小遣いを握りしめ、両親の許可を得て、僕は一人、空路で福岡へ降り立った。1泊2日の弾丸ツアー。目的はただ一つ、本場の豚骨ラーメンを味わうこと。
ホテルへのチェックインを済ませ、まずは駅周辺で一杯。悪くない。だが、調べると駅から1時間ほど離れた場所に、最近話題の「超人気店」があるという。迷わず向かった。
そこで口にした一杯は、これまでの人生で味わったことのない衝撃を僕に与えた。
「これだ……これこそが真理だ……」
至福の時を終え、店を出た。しかし、そこからが悲劇の始まりだった。
駅への道がわからない。
「まあ、誰かに聞けばいいか」と歩き出す瞬間、段差に足を取られて派手に転倒した。その拍子に、愛用の眼鏡がアスファルトに叩きつけられ、無残に砕け散った。
予備のコンタクトはホテルの部屋。世界は一瞬で、色のついた霞のようにぼやけた。スマホの充電も切れ、通りかかる人もいない。
視界不良の絶望に立ち尽くしていた、その時。
「あの、大丈夫ですか?」
後ろから、鈴を転がすような透き通った声が聞こえた。
振り返ると、そこには焦茶色の髪の女性が立っていた。視界はぼやけていて、顔の造作までははっきり見えない。
「すみません……眼鏡を壊してしまって。駅はどちらでしょうか……」
「ここからだと、少し遠いですよ?」
「そうですか……スマホの充電も切れてしまって」
「良ければ、案内しましょうか?」
申し訳なさに一度は断ったが、彼女は「特に用事はないから」と微笑み、僕の手を優しく取った。
「心配なので、一緒に行きますね」
彼女の手は、驚くほど柔らかくて温かかった。
駅へ向かう道中、僕は夢中で語った。東京から来たこと、豚骨ラーメンを愛していること。彼女は楽しそうに笑いながら、自分のことも話してくれた。
「実は私、ここの高校に通ってるの」
彼女が左側を指差した。
「日留高校って言ってね。普通科のほかに、調理科や国際科もあって、けっこう大きいんだ」
「私、そこの一年生でね。来年からは風紀委員長することになってるの! あと、バスケもやってるんだ〜」
他愛もない話をしているうちに、ぼやけた視界の向こうに、駅名の文字だけがかろうじて滲んで見えた。
駅に着いた時、僕は深々とお礼を言って別れようとした。だが、そこで気づいてしまった。財布の中に残っていたのは、わずか37円。
駅員に事情を話して後で返そうかと、冷や汗を流していた時、彼女が僕の手のひらに千円札を置いた。
「これ、使って!」
「受け取れません! 見ず知らずの僕に……」
「いいの! 困っている人を助けたら、その人は笑顔になるでしょ? 自分の力で助けられるなら、私はそうしたいの」
その瞬間、僕の中に雷が落ちた。
初めて豚骨ラーメンを食った時、あるいは生涯の傑作ゲームに出会った時のような、あの衝撃。
僕は、彼女に一目惚れしていた。
「必ず、返しに来ます! せめて、お名前を……!」去り際の彼女に叫ぶと、彼女は振り返って、眩しく笑った。
「そんなの、気にしなくていいのに」少しだけ困ったように笑ってから、続ける。「私、烏月風花。気長に待ってるから。それじゃあね!」
彼女が走り去った後も、僕はしばらく動けなかった。
あの人こそが、僕の運命の人だ。
帰りの電車も、飛行機も、東京に戻ってからも、頭の中は彼女のことでいっぱいだった。
*
夏休み明け。僕はクラスメイトに宣言した。
「僕、決めたよ。日留高校を受験する」
「は? 日留? どこだよそれ」
「福岡だ。運命の人に出会ってしまったんだよ」
「出たよ、志貴の運命論……」
「その人に会ってお礼を言って、告白して、彼氏になる。そのために僕は、彼女に認められる男になるんだ」
「まあ、お前ならワンチャンあるかもな。……振られた女子たちは可哀想だけど」
「何の話〜?」
そこに、元気よく割って入ってきたのは、幼馴染の熱海陽奈だ。
「陽奈のこと話してたの?」
「違う……おい、離れろって」
彼女はさらに体を密着させてくる。
「あはは、顔赤ーい! 照れてるの〜?」
その後、陽奈にも福岡での一件を話した。
すると、それまで明るかった彼女の機嫌が急降下し、何かをボソボソと呟きながらどこかへ行ってしまった。
「どうしたんだ、あいつ」
「お前……本当に、流石だな……」
「だから何がだよ?」
そいつは哀れむような目で僕を見た。
「……いや、なんでもない」
結局、誰も本当のことは教えてくれなかった。
*
そして春。
僕は今までで一番勉強し、宣言通り、日留高校に主席で合格した。
主席なら烏月風花さんの目にも入るかもしれない。
新入生代表挨拶という大役を任され、僕は壇上に上がる。緊張などない。この学校のどこかに、あの彼女がいる。それだけで胸が高鳴っていた。
だが、演台の前に立ち、新入生たちの顔を見渡した瞬間。僕は、無意識に探していた。
――あの黒髪を。
あの、透き通った声の主を。
いた。
先輩方が座っている二列目の中央付近。春の光を受けて揺れる黒髪。
間違いない。あの時、僕の手を引いてくれた人だ。
烏月風花さん。
胸が跳ねた。
世界が、あの日と同じ色になる。
……その、次の瞬間だった。
(後で会いにいこう)
そう思いながら、新入生の方へ視線を向けた。
その瞬間。
僕は、絶句した。
そこにいたのだ。
彼女ではない女子たちが。
僕が、過去に振った女子たちが。
櫻井のどか(さくらいのどか)。紅ヶ崎杏。白石美雪姫。
そして、幼馴染の熱海陽奈。
陽奈は、僕と目が合った瞬間、これ以上ないというほどの、とびきり眩しい、満面の笑顔を浮かべた。
その笑顔は、僕が今まで見た彼女の笑顔の中で、最も美しく、そして――何よりも恐ろしかった。
(なんで……なんでお前らが全員ここにいるんだよぉぉぉぉぉ!)
志貴の、命がけの「運命探し」が、今、修羅場と共に幕を開けた。




