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五百億の風―誠実は、誰を救うのか  作者: 一条信輝


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第八章 一台の車

夜を徹して整備した車は三台。そのうち一台を、朝一番で工房の前に並べた。錆びたボディに新しい部品がいくつも取り付けられ、赤土に汚れた車体は不格好ながらも確かに息を吹き返していた。


「本当に走るのか」

若者の一人が不安げに呟く。

隆志はドアを開け、運転席に腰を下ろした。イグニッションを回すと、セルモーターが短く唸り、次の瞬間、エンジンがかすれた咆哮を上げた。工房の中にこもっていた沈黙が、排気音で一気に弾け飛ぶ。


「行ける」

短く言い切り、ハンドルを握り直した。


ちょうどその時、工房の前に一人の男が駆け込んできた。肩で息をしながら叫ぶ。

「子どもが……村の子が倒れた! 病院は遠い、バスも来ない!」


サミュエルが素早く頷き、後部座席を片付ける。

「担架を積め。工具は降ろせ」

若者たちが慌てて動き、空いたスペースに小さな体が横たえられた。額に汗が浮かび、呼吸は浅い。母親が必死に名前を呼び続けていた。


隆志はアクセルを踏み込んだ。車体が大きく揺れ、赤土の道を突き進む。舗装の切れ目で跳ね、サスペンションが悲鳴を上げる。それでも、ハンドルは真っ直ぐに答えた。


窓の外を赤土の風が叩き、砂粒が頬に当たる。スピードメーターの針が震える。

「田中、左へ! 川沿いを抜けろ!」

助手席のサミュエルが叫び、手で合図を送る。


村を抜け、病院の白壁が視界に入った。駐車スペースに滑り込むと、医師と看護師が駆け寄ってきた。担架が運び出され、子どもの小さな手が母親の指を握る。

「間に合った……」

母親が涙を流し、隆志に頭を下げた。


その瞬間、胸の奥に熱が走った。数字でも契約でもない。確かに命を運んだという実感だった。


病院を出ると、サミュエルが笑った。

「見ただろう、田中。これが正しい答えだ」


帰り道、車内は静かだった。だが若者の一人が小声で言った。

「俺の名前、整備記録に書いてあるんだ。……初めて、自分がやったって言える」

その顔は誇らしげで、夜通しの疲労さえ薄れていた。


工房に戻ると、ムワンギ議員の車が止まっていた。議員自身が降り立ち、隆志をまっすぐに見た。

「今の搬送、聞いたぞ。人を救ったそうだな」

「偶然です。だが、これからは必然にする」

隆志は静かに答えた。


議員はしばらく沈黙し、やがて笑った。

「お前は風を変えた。……私も帆を貸そう」


その言葉に、隆志は深く息を吐いた。赤土の風はまだ荒々しい。だが、確かに向きを変え始めていた。


搬送から二日。工房の前に、見慣れない人だかりができていた。担架で運んだ少年の父親が、村の有志を連れて礼を言いに来たのだ。籠には卵やマンゴー、とうもろこしの粉。

「金はない。だから、これを」

父親は深く頭を下げた。若者たちは戸惑いながらも受け取り、壁に貼った〈搬送依頼〉の紙の端に、太い字で“ありがとう”と書き足した。


午前中、電話が立て続けに鳴った。診療所から、学校から、教会から。

「喘息の少年が発作」「妊婦の検診」「高熱の老人」

搬送の理由はさまざまだ。サミュエルが白墨で黒板に時刻を並べ、ルートを分担していく。

「田中、俺たちは整備と搬送を半々で回す。無理をすれば事故が増える。人を守るために、まず自分たちを守る」

「了解」

隆志はうなずき、整備記録の欄に新しいページを綴じた。


昼過ぎ、ムワンギ議員の秘書が書類を持って現れた。

「議員からの紹介状です。市の保健局、教育局、警察に対し、貴工房の搬送協力を周知する旨」

押印の濃い赤が目に入る。昨日まで扉だったものが、いくつも窓に変わっていく感触がした。

「条件は?」

隆志が問うと、秘書は首を横に振った。

「ひとまず無し。議員は“結果を見てから話を進めよう”と」

サミュエルが小さく笑った。

「やっと、風上に帆が立つ」


午後、アシャからメッセージ。

〈ユースの親たちが燃料費のカンパを始めました。ボールは足りています。今日は選手たちも工房に手伝いに行きたいと〉

まもなく、赤と黒の練習着を着た青年たちが到着した。慌てて工具を持とうとして手袋を逆にはめたり、タイヤチョークをサッカーボールのように蹴って叱られたり。それでも彼らの明るさは、工房の空気を確かに軽くした。

「俺たち、試合がないときは人を運ぶクラブになれる」

キャプテンがそう言い、荷室の担架の固定具を両手で確かめた。


夕方、一台目の搬送から戻ると、黒田の取り巻きが道の端に立っていた。彼らは黙って工房の中を見つめ、整備記録の束と、壁に貼られたスケジュールを順に確認していく。

「“確認者”の欄まであるのか」

誰かが呟き、別の誰かが喉を鳴らした。

札束よりも、紙束に宿る重さ。

視線が短く交差しただけで、取り巻きは何も言わずに去った。


その直後、早瀬記者がふらりと現れた。前回の強気な足取りは影を潜め、彼女はまず受付のボードをじっと見た。

「搬送件数、三日で十五件……本当ですか?」

「記録は全部ここに」

隆志が差し出すと、早瀬は無言でページをめくった。整備者の署名、時刻、ルート、患者の状態、到着後の医師のメモ。

「映像を撮らせてください。前とは……違う切り取り方をしたい」

カメラが回り始める。以前の刺すような質問は来ない。代わりに、子どもが担架から手を振る小さな仕草、若者がブレーキホースを二度確認して頷く顔、サミュエルが黒板のルートを消しては書き換える手の動き。レンズは“段取り”と“責任”を拾っていった。


夕暮れ時、工房に寄付箱が置かれた。紙切れに書かれた小額のメモが重なる。

〈パン二斤分〉

〈灯油少し〉

〈祈り〉

金額ではない。名前でもない。胸に残るのは、見えない風の手触りだった。


夜、最後の搬送から戻ると、若者が壁にもう一枚の紙を貼った。

〈品質基準(暫定)〉

ブレーキ系:パッド残量△以下即交換/ホース亀裂×

冷却系:漏れ×/応急=圧下げ+坂回避の併記必須

灯火:夜間運用は必ず二名体制——

「明日には細部を詰め直す。専門用語は減らして、誰が見ても分かる表現に」

隆志が言うと、最年少が頷いた。

「俺の妹にも読める言葉で」


静かな拍手が起き、すぐに消えた。拍手の代わりに、レンチの金属音が続く。

作業台の端で、キャプテンが油に汚れた手を見て笑った。

「サッカーと同じだ。足だけじゃなく、手も使う日がある。勝点じゃなくて、命の点数を稼ぐ試合だな」


深夜、風が強まった。トタン屋根が鳴り、遠くで犬が吠える。

隆志は壁の紙を見渡した。〈搬送依頼〉〈協力先〉〈品質基準〉。

紙はふくらみ、風を受ける帆のように見えた。

耳の奥で、風鈴の透明な音が短く鳴る。——見えない風は、確かに向きを変え始めている。


そして翌朝、工房の前に一台のワゴンが止まった。

ムワンギ議員の公用車だ。秘書が窓を下ろし、端的に告げる。

「保健局からの正式依頼。市内四地区の搬送を、暫定であなた方に委託したい。条件はひとつ、記録を毎日提出すること」

隆志は短く答えた。

「やります。記録は、もうここにあります」

紙束を掲げると、朝の風がページをめくった。

新しい一日が、音を立てて始まった。


保健局からの委託が決まって一週間。工房の前には、依頼者が列を作るようになった。妊婦、老人、病を抱えた子どもたち。受付板にはびっしりと名前と時刻が書き込まれ、黒板の地図には赤い線が幾重にも引かれていた。


「午前は東区の診療所、午後は学校からの呼び出しだ」

サミュエルが白墨で新しいルートを描きながら指示を出す。若者たちは手早く車を点検し、整備記録に署名を重ねる。整備はもはや作業ではなく儀式のようだった。


搬送の合間に、ナイロビ・ライオンズの選手たちが再び工房を訪れた。練習場が閉鎖されている彼らは、暇を持て余していたのだろう。だが手際は日に日に良くなっていった。タイヤ交換も、ブレーキのチェックも、今では一人前にこなす。

「勝点の代わりに、人の命を守る点数を稼ぐんだ」

キャプテンの言葉に若者たちは笑った。汗と油にまみれた彼らの顔は、かつてピッチで歓声を浴びた時と同じ輝きを放っていた。


ある日、搬送した母親が幼い娘を抱いて戻ってきた。娘は包帯で額を覆っていたが、笑顔で両手を広げた。

「この人たちがいなければ、助からなかった」

母親は涙をこらえきれず、工房の壁に「ありがとう」とチョークで書き残した。その文字は、油の染みた壁の中でひときわ鮮やかに光った。


ニュースの風向きも変わり始めた。早瀬記者が撮影した映像が国内で放送され、〈炎上の日本人、現地で命を運ぶ〉という特集が組まれた。画面には、汗まみれでハンドルを握る隆志、担架を運ぶ若者、そして整備記録に署名する手の映像が映し出された。

「前回は批判しましたが、今は違います。彼らの活動は確かに命を救っています」

早瀬のコメントが放送されると、ネットには再び別の声があふれた。〈応援する〉〈誇りだ〉。


その夜、隆志はスマホに届いたメッセージを見つめた。智子からだった。

〈ニュースを見ました。本当なのね……〉

短い一文だったが、胸に温かいものが広がった。


翌朝、ムワンギ議員が工房を訪れた。黒塗りの公用車から降り立つと、隆志に歩み寄り、重々しい声で言った。

「田中、よくやった。民はお前を選んだ。黒田ではなく」

隆志は深く頭を下げた。

「俺が選ばれたんじゃない。人を運ぶ車が選ばれたんです」


議員は一瞬だけ目を細め、口元に笑みを浮かべた。

「その謙虚さを忘れるな。だが覚えておけ、風は変わりやすい。帆を張り続ける覚悟が要る」


赤土の風が吹き、工房の壁に貼られた〈搬送依頼〉の紙を揺らした。紙は帆のように膨らみ、影が地面に落ちた。


夕暮れ、作業を終えた若者たちが外に出ると、近所の子どもたちが待っていた。サッカーボールを蹴りながら笑い声を上げる。その中の一人が赤と黒のユニフォームを着ていた。胸には「SAKURA MOTORS」のロゴ。

「パパが市場で配ってくれたんだ!」

少年は誇らしげに叫んだ。


隆志はその声を聞きながら、胸の奥に灯がともるのを感じた。まだ数字には遠い。だが確かに風向きは変わっている。

娘のみゆきの風鈴の音が、耳の奥で重なった。——見えない風は、希望を運んでくる。

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