第七章 不可逆の選択
夜半、工房の明かりだけが通りに浮かんでいた。机の上では黒田が置いていった封筒が、薄い影を引いている。札束の匂いは油と混ざり、甘ったるく鼻についた。隆志は椅子に座ったまま、拳を開いたり閉じたりしていた。目を閉じると、夏祭りの夜、風鈴の金魚がゆらめき、澄んだ音が胸の奥を叩いた。
――どちらを選んでも、誰かが傷つく。
だが、どちらを選べば、未来が減らないか。
扉が軋み、サミュエルが入ってきた。無言で封筒を見、次いで隆志の顔を見る。
「田中。皆、待っている」
「分かっている」
「今答えを出せ。出せないなら、皆は散る」
沈黙。外では赤土の風がトタン屋根を鳴らし、どこかで犬が短く吠えた。隆志は立ち上がり、封筒を手に取った。重さを確かめ、深く息を吸う。そして、蛍光灯の下で封を破らずに――火の点いていないドラム缶に放り込んだ。空っぽの鉄が鈍い音を返す。
「やらない。全ロット、やり直す」
声は掠れていたが、揺れてはいなかった。
サミュエルの眉が動く。
「破綻するぞ」
「破綻しても、嘘よりましだ。嘘は、次の嘘を連れてくる。事故は、誰かの喉から笑い声を奪う」
「給料は?」
「遅らせる。俺の私物はすべて売る。港が開くまでの間は、地域の搬送に車を出す。今日は病院、明日は食料の配達。走らせる理由を、こちらで作る」
背後で物音がした。若者たちが何人も立っていた。夜食の鍋を抱えた者、工具箱を肩に掛けた者。最年少の整備士が、おずおずと口を開く。
「全部、やり直すって……どこから?」
隆志は答えた。
「最初からだ。点火、燃料、冷却、制動。整備記録も一台ずつ書き直す。『走る』じゃなく『運べる』にする」
サミュエルが息を吐いた。短く、だが笑った。
「地獄みたいな夜になる」
「地獄を抜ければ、朝が来る」
トルクレンチが鳴き、ライトが各ピットに配られる。ジャッキが上がり、古いホースが外れ、乾いた亀裂が露わになる。部品棚は心許ない。足りないものは、分解した別の車から融通する。誰かがため息をつくと、別の誰かが冗談で返す。沈黙は、少しずつ作業音に置き換わっていった。
深夜二時。ラジエーターを洗い、ブレーキホースを新品に換える。パッドの摩耗は限界、だが交換用は数が足りない。サミュエルが指で厚みを測り、最も危険な個体を優先に回す判断を下す。
「命に直結する順から。日本の順番とは違うが、ここではこれが正しい順番だ」
隆志は頷く。段取りは違っても、守りたいものは同じだ。
明け方前、一本目のテスト走行。工房の前の舗装の切れ目を越え、空の道路へ。ハンドルは軽い、ペダルは深すぎない。踏み直す。制動は真っ直ぐだ。風がフロントガラスを叩き、夜の色を薄めていく。
戻ると、若者たちが手を止めてこちらを見た。隆志は親指を立て、短く言った。
「行ける」
鍋の湯気が上がり、誰かが笑った。眠気で赤い目が、少しだけ明るくなる。記録用紙の「整備者」欄に、彼らは自分の名前を書いた。嘘のない字で。サミュエルが壁に紙を貼る。
〈搬送協力スケジュール〉
午前は近隣の診療所。午後は老人への食料配達。空いた時間に整備、夜はテスト。車は売れない。だが走らせる。運ぶ。証明する。
夜が白み始める。トタン屋根の音が止み、鳥の声が混じった。隆志は工具を拭き、額の汗を指で弾いた。疲労が骨に入っている。それでも胸は軽かった。不可逆の線を、いま越えたのだ。
「サミュエル」
「なんだ」
「もし誰かが、また嘘だと言ったら」
「走らせて見せろ。人を運んで見せろ。嘘は、走れない」
工房の奥で、最年少の整備士が古いベルを鳴らした。始業の合図代わりに拾ってきた、欠けた鐘。甲高い音が、風に攫われて外へ飛んでいく。耳の奥で、風鈴の透明な音が重なった。見えない風は止まらない。ならば、帆を張るだけだ。
夜の工房に、ライトの白が落ちた。
ジャッキが上がり、タイヤが外れ、軸受のざらついた手触りが指先に移る。
隆志は工程表を壁に貼り、順番を太いマーカーで塗った。
〈点火/燃料/冷却/制動/灯火/記録〉
「最初の三台は救急搬送に回す。優先で仕上げる」
サミュエルの声が短く響く。
「了解」
若者たちの返事は低いが、揃っていた。
イグニッションコイルの抵抗を計り、配線の被覆を剥がす。
テスターの数字が安定しない。腐食だ。
接点を磨き、端子を圧着し直すと、針がぴたりと止まった。
「次」
燃料ラインへ移る。フィルターを切り開くと、赤土が泥のように詰まっていた。
「これで“走る”と言っていたのか」
最年少が顔をしかめる。
「“運ぶ”に変えるんだ」
隆志は短く返し、透明なガソリンが通るのを目で追った。
冷却系はホースの亀裂が深い。
部品棚は心許ない。互換の利く径で代替し、クランプを二重にかける。
ラジエーターは外して洗浄、フィンを起こし、リークを点検。
水が銀糸のように滲んだ箇所に、若者が指を当ててうなずく。
「交換が理想だが、在庫がない。圧を下げて運用、搬送ルートは坂を避ける」
サミュエルが地図を広げ、鉛筆で線を引いた。
ブレーキに取りかかる。
パッドの残量は限界、ローターは段付き。
全部は替えられない。最も危険な二台を優先し、他は研磨と当たり付けでしのぐ。
「命が乗る順から直す。順番を間違えるな」
サミュエルの言葉に、誰も反論しない。
灯火。
ヘッドライトは片目、テールは点滅。
ハーネスの断線を探り、アースを新設し、夜の道路で見える光を作る。
「これが“見える命綱”だ」
隆志はスイッチを入れ、壁に白い四角を二つ並べた。
記録。
作業の手が空いた者が用紙に書き込む。部品番号、作業者、時刻、テスト結果。
いつか誰かに見せるためではない。
明日の自分に嘘をつかないために、文字を残す。
深夜三時、一本目のテスト。
工房前の道は、舗装の切れ目が波のように続く。
隆志が運転席、サミュエルが助手。
三速で引っ張り、ブレーキを踏み込む。
車体は真っ直ぐ沈み、鼻先がわずかに下を向いた。
「良し」
短い言葉が、夜の空気に吸い込まれる。
戻ると、鍋の湯気が上がっていた。
誰かが持ち寄ったとうもろこし粥に、塩をひとつまみ。
最年少がレンチを置き、両手で器を受け取る。
「うまい」
誰かが笑った。
笑い声は小さかったが、確かにあった。
夜明け前、二台目を出す。
今度は荷室に担架を固定した。
ゴムベルトを交差させ、金具を二重にかける。
「救急隊は来られない。俺たちが行く」
隆志の言葉に、若者がうなずく。
東の空が灰色にほどけたころ、工房の壁に貼った紙がもう一枚増えた。
〈地域搬送 要請先〉
診療所の電話番号、妊婦の名、喘息持ちの老人の住所。
紙の端には、子どもの筆跡で小さく “Thank you” と書き足されていた。
昨夜スタジアムで渡したボールのひとつに、メモが入っていたのだ。
午前、一本目の搬送。
未明から呼吸が荒いという老人を乗せ、坂を避けたルートで診療所へ。
窓の外で、赤土の風が低く鳴る。
ハンドルは軽く、メーターの針は穏やかに上下する。
テールに視線を落とすと、赤が二つ、確かに生きていた。
帰り道、携帯が震えた。
アシャからだった。
〈ボール届きました。朝から子どもが並んでいます。ワゴンの件、親たちが泣いて喜んでいました〉
短い文が、疲労の奥に暖かく滲んだ。
昼、工房に戻ると、黒田の取り巻きが遠巻きにこちらを見ていた。
札束の代わりに、整備記録の束を高く掲げて見せる。
彼らの表情は読めない。
だが、こちらに必要なのは、彼らの表情ではなかった。
午後、二本目の搬送。
妊婦の腹は大きく、呼吸は浅い。
段差の前で速度を落とし、助手席のサミュエルが手で合図を送る。
「今のままで行ける」
「行ける」
短い言葉が行き交い、車はゆっくりと前へ進んだ。
夕方、戻った工房で最年少が壁の紙を指した。
〈整備完了/搬送完了〉の欄に、チェックが増えている。
「俺の名前、初めて“整備者”に書いた」
彼は照れくさそうに笑った。
その字は、嘘のない細い線で、確かにそこにあった。
夜、風が強まる。
トタン屋根が鳴り、遠くで犬が吠える。
隆志は工具を拭き、ライトを落とし、壁の紙を眺めた。
まだ足りない。まだ救えない。
だが、風の向きは、わずかに変わっている。
耳の奥で、風鈴の透明な音が重なった。
見えない風は止まらない。
だから、走らせる。
人を、運ぶために。
徹夜の整備を終え、朝の光が差し込む頃、隆志は宿に戻った。体は鉛のように重く、手の指先は油で黒ずんだままだった。机の上のスマホが震えている。画面に映る妻・智子の名前に、胸がざわついた。
「……もしもし」
声は掠れていた。
「手術、延期になるって。病院から連絡があったわ」
智子の声は冷たく硬い。
「資金が準備できていない。どうするつもり?」
「待ってくれ。こっちは必死に動いている」
「必死? ニュースでは“偽善者”だって。黒田に従えば金は入るのに、なぜ背を向けるの? 娘の命より大事なものがあるの?」
「俺は……事故車は出さない。人を守る車を作る。それしかない」
「その間に娘が死んだら? 理想のために命を賭けるの? 私はそんな賭けに耐えられない」
沈黙。受話口から智子の荒い吐息が聞こえた。
「……もう、あなたを信じられない」
通話はそこで途切れた。
スマホを握る手が震え、額から冷や汗が流れた。壁に背を預け、そのまま床に崩れ落ちる。頭の中に、みゆきの笑顔が浮かんだ。夏祭りの夜、屋台で「金魚の絵の風鈴がいい」とねだった娘。露店の明かりに照らされ、鈴を揺らして笑ったあの時。澄んだ音が耳に甦り、胸を締めつけた。
「必ず……間に合わせる」
呟きは誓いのようであり、懇願のようでもあった。
夜、工房に戻るとサミュエルが待っていた。
「家族から連絡があったんだろう」
隆志はうなずいた。
「離れていても分かる。声で。……信じてもらえなかった」
サミュエルも静かに言った。
「俺の妻も言う。“黒田に従え。理想じゃ飯は食えない”と。……でも、俺は見た。昨日、あの車で老人を病院に運んだときの顔を。あれが答えだ」
「それでも家族は……理解してくれない」
「だから試されている。理想と家族の間で、どちらを選ぶか」
隆志は言葉を失った。数字のために部下を切った過去が蘇る。あの時も、家族を守るつもりだったはずだ。だが結果は、信頼を失い孤立した。今も同じ岐路に立っている。
赤土の風が工房の壁を揺らし、トタン屋根が軋んだ。隆志は深く息を吸い、埃の匂いを肺に収めた。
「理想だと言われてもいい。娘の命を守るために、俺は嘘に手を伸ばさない」
サミュエルは短く笑った。
「その言葉、俺は信じる」
その夜、工房の壁に貼られた紙の隅に、小さな文字が加えられた。
〈負けても折れない。嘘より人〉
誰が書いたか分からない。だが、疲れ切った隆志の目にその字は眩しく映った。
孤立は続き、家族との断絶も深まった。
それでも耳の奥には透明な音が残っていた。
風鈴の音。——見えない風がまだ止んでいないことを、確かに告げていた。




