六第章 コロナの停滞
二〇二〇年の春、世界を覆った感染症の波はナイロビにも及んだ。最初は「遠い国の話」と誰もが笑っていたが、港湾労働者に感染者が出た途端、政府は即座に港を封鎖し、航空便も次々と止まった。
港に並んだクレーンは腕を折った巨人のように沈黙し、荷役作業員たちは何もすることがなく煙草をふかしていた。出荷待ちの車列は赤土の風に晒され、ボンネットには砂が積もり、ナンバープレートの隙間にまで埃が入り込んだ。港の食堂では「部品が届かない」と怒る客と、肩をすくめる店主が言い争っていた。
工房に戻れば、油の匂いが濃いのに工具の音は消えていた。若者たちは作業台に座り込んだまま、空の弁当箱を重ねている。
「田中さん、昨日は子どもに粥しか食べさせられなかった」
「電気代が払えなくて、真っ暗な中で寝た」
「妹が学校を辞めるかもしれない」
次々に吐き出される言葉は恨みではなく、疲労と諦めに満ちていた。
サミュエルは帳簿を握りしめていた。紙の端は擦り切れ、数字だけが冷たく並んでいる。
「輸送が止まれば金は回らない。来月どころか、今週の給料すら出せない」
彼の声は低く沈んだ。
隆志は銀行に電話を入れたが、返ってきたのは定型句だった。
「世界的な状況ですので……担保がなければ融資は難しい」
通話が切れると、耳に残ったのは港の無音と同じ冷たさだった。
その日、黒田が工房に現れた。派手なマスクをつけ、取り巻きを従えている。
「相変わらず理想に縋っているようだな、田中。輸送が止まった今、誰もお前の車なんて買わない。俺の在庫を流せば資金は繋がる。どうだ?」
契約書の紙を机に滑らせながら、黒田は笑った。
「……事故車だろう」
「走れば十分だ。人は飯を食うために車を買う。命のため? 笑わせるな」
サミュエルも視線を落としたまま口を開いた。
「田中、考えてくれ。従業員の家族が飢えている。黒田に従えば今すぐ金が入る。従わなければ、何も残らない」
仲間たちの目は一斉に隆志に向けられた。責める色はない。ただ、重荷を押しつけたいだけの目。
返答できずに俯いたとき、胸に蘇ったのは日本での会議室の記憶だった。冷房の効いた部屋、合理化名簿、赤い丸印。部下を数字として切り捨てたあの日と、今の飢えに直面する仲間の姿が重なった。数字に追われていたはずが、今は飢えに追われている。
夜、宿に戻ると妻から短いメッセージが届いていた。
〈手術は延期になるかもしれない。……あなた、何をしているの?〉
画面の文字が滲んで見えた。二千万円という額が、再び胸の中に鉛のように沈んだ。
窓を開けると、ナイロビの夜風が赤土を巻き上げて吹き込んだ。遠くからサッカー場の歓声がかすかに響いてきたが、すぐに風にちぎれて消えた。無観客で行われている試合の声だった。勝っても負けても、誰にも届かない。
机の端に置いたみゆきの写真を見つめた。夏祭りで買った金魚模様の小さな風鈴。あの透明な音は、今はここまで届かない。
「どうすればいい……」
呟きは夜の風に飲まれ、答えは返ってこなかった。
港が止まって三週目、夕暮れの街にサイレンが遠く響いた。外出制限で人影の薄い通りを抜けると、丘の上のスタジアムが薄青い光に沈んでいる。観客席は空っぽ、電光掲示板だけが時刻を刻み、芝の上を風だけが移動していた。
「田中さん、来てくれて助かった」
スタンドの通路で待っていたのは、〈ナイロビ・ライオンズ〉の暫定GM、アシャだった。細い手首に巻かれた古いリストバンドは、クラブ創設時の色——赤と黒——で擦り切れている。
「スポンサーの半分が降りました。チケット収入はゼロ。今月で終わりかもしれない」
アシャは苦笑いを浮かべ、鍵束を鳴らしながらピッチへ降りた。ゴールネットは手入れが行き届かず、結び目が何ヶ所か緩んでいる。
「選手は地域の英雄です。でも英雄にも家賃がある。医療も、家族も」
バックスタンドの入口が開き、数人の子どもがコーチに連れられて現れた。マスク越しにボールを蹴り合い、すぐに息が上がる。それでも笑っていた。
「制限が厳しくなる前の最後の練習です。家にボールが一つもない子もいるから、ここで蹴るしかない」
アシャが小声で言う。
「ライオンズが無くなれば、彼らはどこへ行けばいい?」
隆志はスタンドの最上段まで歩き、街を見下ろした。黄土色の風が屋根を渡り、遠くの市場のテントを揺らす。かつて日本で数字の波に飲まれた自分が、いまは風の向きを読むしかない場所に立っている。
「今は俺たちの工房も止まっている。スポンサーになれる余裕はない」
正直に告げると、アシャは頷いた。
「分かっています。……でも、あなたが“品質で勝つ”と言った動画、選手たち全員が見ました。『嘘で勝つより、遅れても正しく勝つ』って。あれ、ロッカールームに貼ってあります」
コーチに呼ばれ、子どもたちがタッチラインへ整列した。最年少の少年が恐る恐る近づき、隆志の作業靴を見上げる。
「あなた、車を直す人? ぼくの家の村、病院が遠いの。車があれば、ママが苦しくなっても……」
言葉はそこで途切れた。少年は慌てて頭を下げ、走って戻っていく。ボールが転がり、フェンスに当たって乾いた音を立てた。
「クラブが生きていれば、救えるものがある」
アシャが静かに言う。
「スタジアムは人を集め、笑い声を作る。笑い声があれば、暴力も嘘も少しは遠ざかる。スポンサーのロゴを付けてくれなんて言わない。練習用のボール十個でもいい。救急車の燃料券でもいい」
隆志は胸ポケットから小さな封筒を取り出した。みゆきの写真の小さな複写が入っている。夏祭りで風鈴を鳴らす笑顔。——風は見えないが、向きは感じられる。
「ボールは、こちらで用意する。十じゃ足りない。五十、いや百。それと、うちの工房で整備したワゴンを一台、地域の搬送用に貸し出そう。契約は後回しでいい。今は運ぶことだ」
アシャの目が大きく見開かれ、すぐに細く笑った。
「本気ですか」
「本気だ。俺は“人を運ぶために車を直す”と言いに来たんだ。勝つためのロゴは、そのあとでいい」
メインスタンドの屋根が風で鳴り、空の座席が薄くきしんだ。子どもたちのシュート音が重なり、しばし世界はその音だけになった。
「クラブ名を変える話が出ています」アシャが言った。「資金を出す代わりに、名前も色も変えろ、と」
隆志は赤と黒のラインが剥げたリストバンドを見た。
「色は、理由があるから選ばれた。奪う色じゃなく、守る色として残せるなら——いずれ、俺の会社の色も混ぜよう。敵の色の塗り潰しじゃなく、重ね塗りでいい」
アシャは深く息をつき、頷いた。
「分かりました。明日、ユースの親たちに伝えます。ボールとワゴンの件も。……ありがとう」
スタジアムを出る時、風がタッチラインの石灰を少しだけ巻き上げた。白い粉が空にほどけ、夕暮れの光に溶けていく。
隆志はその白を目で追いながら思った。——工房が止まっても、風は止まらない。止まらないなら、帆を張ればいい。
ポケットの中の写真の上で、指先が小さく震えた。娘の風鈴の音はここには届かない。だが、子どもたちの笑い声は風に乗って届いた。
そして心のどこかで、遠い未来の光景が一瞬だけ結ばれた。赤と黒の波で埋まるスタンド。そこに、別の赤が重なる。会社の色ではなく、血の通った赤——運ばれる命の色。
サッカークラブのスタジアムを後にして数日後、工房の中はさらに重く沈んでいた。港の封鎖は解かれる気配がなく、仕入れも販売も止まったまま。資金繰りは限界に近づき、若者たちは工具を持ちながらも動きを止めていた。
「田中さん、もうダメかもしれません」
最年少の整備士がぽつりとこぼした。
「昨日、父さんが黒田のところに面接に行きました。俺も行けと言われています」
他の若者も続けた。
「うちの家賃、二か月滞納です。……黒田なら日当を払ってくれるそうだ」
「俺の村では、黒田の車が配られてます。粗悪品でも走れば十分だって……」
沈黙の中、扉が乱暴に開いた。派手なマスクに光沢のあるスーツ。黒田が取り巻きを連れて入ってきた。
「よう、田中。いい噂は聞かないな」
口元の笑みは挑発そのものだった。
「俺のところは順調だ。港が止まっても内需はある。農家や運送屋は安ければ何でもいい。お前が理想を掲げてる間に、俺は現実で稼ぐ。そういうことだ」
黒田は封筒を取り出し、机に投げた。札束の厚みが音を立てた。
「契約書だ。お前の工房の名義で在庫を回せ。名目は“整備済み”。実際は手直しだけで十分だ。サインすれば全員の給料が明日から出る」
若者たちの視線が一斉に隆志に向いた。サミュエルでさえ眉を寄せ、答えを探すように彼を見ていた。
「……事故車だろう」
隆志の声は低く震えていた。
「走ればいいんだよ。客は明日の飯のことしか考えてない。命? そんなものは後回しだ」
黒田の言葉は鋭く突き刺さった。
仲間の一人が口を開いた。
「田中さん、考えてください。俺たちが家族を飢えさせたら、命を奪うのと同じじゃないですか」
別の若者も続いた。
「子どもに泣かれても“理想”で腹は満たせないんです」
サミュエルが静かに言った。
「俺はあんたを信じたい。でも家族を守るためなら、黒田に従うしかない。……どうする?」
胸の奥で、娘の笑顔がよみがえった。夏祭りの屋台で選んだ風鈴。金魚の絵が描かれた小さな硝子玉。透明な音が脳裏に響く。——あの音を守るためにここまで来た。だが、目の前では仲間の家族が飢え、生活が崩れていく。
「田中。これはビジネスじゃない。命の選択だ」
黒田が囁くように言った。
「サインしろ。お前の娘の手術代も、すぐに用意できる」
札束の匂いが工房の油と混ざり合い、息苦しさを増した。隆志は封筒に手を伸ばしかけ、拳を握りしめた。目を閉じれば、会議室で部下の名に朱の丸をつけた記憶が蘇る。数字に従った結果が、今の孤独を生んだのではなかったか。
「……答えはすぐに出さなくていい」
黒田は笑みを深め、封筒を机に置いたまま踵を返した。
「だが腹を空かせた連中は待ってくれない。お前が考えている間に、俺の車はもっと売れる」
扉が閉まった後も、工房の中は沈黙したままだった。札束の影が薄暗い蛍光灯の下で不気味に光っていた。
隆志は深く息を吸った。埃と油と紙幣の匂いが混じる空気。喉の奥が焼けるように痛い。仲間たちの視線が再び突き刺さる。
答えを出さねばならない。だが、どちらを選んでも失うものがある。
みゆきの風鈴の音だけが、遠くでかすかに鳴っている気がした。




