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五百億の風―誠実は、誰を救うのか  作者: 一条信輝


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第五章 炎上

数週間後、隆志の挑戦は思いがけない形で注目を浴びた。あるNGO関係者が市場でのやり取りを見ており、隆志が「品質を守る」と語った姿をSNSに投稿したのだ。写真には埃まみれの工房で整備に向き合う彼の姿が写り、投稿は瞬く間に拡散された。


〈アフリカで日本の誠実を貫く男〉

〈命を運ぶ車を信じる元サラリーマン〉


見出しのようなコメントがつけられ、国内外のユーザーが賞賛した。日本のニュースサイトでも「希望を届ける日本人」と取り上げられ、取材依頼が舞い込む。


工房の若者たちは半信半疑ながらも胸を張った。サミュエルも「悪くない。これで客が増えるかもしれない」と口元を緩めた。隆志自身も、わずかながら希望を感じていた。


だがその高揚は長くは続かなかった。数日後、SNSに別の投稿が現れた。


〈事故車を高値で売りつける偽善者〉

〈日本人の顔をした詐欺師〉


匿名のアカウントが次々と批判を書き込み、写真や動画が捏造されて拡散された。黒田の仕業だと直感したが、証拠はなかった。


「見ろ、みんな怒っている」

市場で客の一人がスマホを突きつけてきた。画面には隆志の名前と「偽物」という文字が踊っていた。買い手たちの視線は冷ややかに変わり、工房で整備した車は誰も近づかなくなった。


さらに日本からも波紋が広がった。テレビ局の記者・早瀬がナイロビに現れ、カメラを向けながら問い詰めた。

「あなたは事故車を偽装して売っているのでは? 品質を謳いながら裏では利益を優先していると聞きますが」


隆志は必死に否定した。

「そんなことはしていない。俺は誠実に——」

「証拠は? あなたの言葉だけでしょう」

冷たい声と共にマイクが突きつけられる。カメラのレンズが彼の顔を無遠慮に映し、周囲にいた群衆の疑いを増幅させた。


工房に戻ると、若者たちは顔を曇らせていた。

「もう俺たちの車は売れません。黒田の方に行った方が……」

一人が言いかけ、口をつぐんだ。サミュエルも苦しい表情で言った。

「田中、俺は信じたい。だが現実は厳しい。客は信じなくなった」


隆志は言葉を失った。SNSに広がる虚像が、現実を侵食していく。日本で数字に縛られた日々を思い出す。合理化の名で部下を切り捨てた時も、数字だけが正義だった。そして今、嘘の数字と映像が彼を断罪していた。


夜、宿の部屋でスマホを開くと、ニュースサイトの見出しが目に飛び込んできた。

〈英雄か詐欺師か アフリカの日本人実業家の真実〉

そこに映るのは、かつて賞賛された自分の写真と、今は冷笑の的となった自分の姿だった。


窓の外から赤土の風が吹き込み、机の上の風鈴が揺れた。澄んだ音は遠くからの励ましのようにも聞こえたが、同時に孤独を強める響きでもあった。


「俺は……何を信じればいいんだ」

つぶやきは夜の闇に溶け、答えは返ってこなかった。


炎上の渦は、日を追うごとに大きくなっていった。SNSでは誹謗中傷が絶えず、動画サイトには「事故車を売る日本人」と題した映像が拡散された。編集された映像は、黒田の工場の映像と隆志の工房の写真をつなぎ合わせただけの粗悪なものだったが、誰も真実を確かめようとはしなかった。


そんな中、日本から来たテレビ局の記者・早瀬が工房を訪ねてきた。背の高い体格にカメラマンを従え、堂々とした足取りで入ってくる。カメラのレンズは隆志を狙い、マイクが突き出された。


「田中さん、質問させてください。あなたは“品質第一”を掲げているそうですが、実際には事故車を輸出しているのでは?」

「違います。そんなことはしていない。俺は誠実に——」

「証拠は? 整備記録を見せられますか? 関係者の証言はありますか?」


冷たい声に、工房の若者たちがざわめいた。彼らは互いに目を見合わせ、不安を隠せなかった。


「ネットでは“偽善者”という声が多数あります。どう答えますか?」

畳みかけるような質問。隆志は必死に説明しようとしたが、言葉は追いつかない。言えば言うほど、弁明に聞こえてしまう。カメラはその姿を無慈悲に映し出していた。


取材が終わると、工房の空気はさらに冷え込んだ。若者の一人が言った。

「本当に違うんですか? ニュースではそう言ってませんでした」

別の整備工も声を荒げた。

「俺たちはあなたを信じてここで働いている。でも、もし嘘だったら……家族に顔向けできない」


サミュエルでさえ口を閉ざした。隆志の肩にのしかかる視線は、疑念と恐怖に満ちていた。


その夜、隆志は宿に戻り、机にスマホを置いた。画面にはニュースサイトの見出しが並んでいる。

〈英雄か詐欺師か〉

〈命を救う日本人は偽装していた?〉

スクロールする指が震えた。記事の中には、匿名の証言として「田中の工房で整備不良を見た」というコメントが引用されていた。明らかに捏造だった。


窓の外では風が強まり、赤土を含んだ空気が建物を震わせていた。机の上の風鈴が鳴り、透明な音が部屋を満たす。だが今は慰めにはならなかった。


「俺は……また孤立するのか」

かすれた声が漏れた。数字のために部下を切り、彼らの信頼を失ったあの日の記憶が蘇る。今度は家族を守るために誠実を選んだはずなのに、また同じ孤独の闇に立たされている。


スマホに着信が入った。妻からだった。恐る恐る出ると、冷たい声が耳に響いた。

「ニュースを見たわ。……本当なの?」

「違う。俺は嘘をついていない」

「でも、みんなそう言ってる」

短いやり取りの後、通話は切れた。胸に残ったのは深い溝だけだった。


ベッドに倒れ込み、天井を見つめる。風鈴の音が耳の奥で揺れ、遠くでみゆきの笑顔が浮かんだ。——あの音を守るために来たはずなのに。だが、信じてくれる人は誰一人残っていないのかもしれない。


赤土の風が窓を叩き、部屋の灯りが揺れた。孤独の影が、さらに濃く広がっていった。


早瀬の取材が放送されてから数日、工房には客の姿がぱたりと途絶えた。黒田の車は市場で飛ぶように売れているというのに、隆志の工房に並んだ車には誰も近づかない。開け放たれたシャッターから差し込む光の中で、埃だけが舞っていた。


工具の音も聞こえなかった。若者たちは作業台の前に立ちながら手を止め、油の染みた布で無意味に指先を拭いていた。誰もが言葉を飲み込んでいる。重苦しい沈黙に耐えきれず、隆志は声をかけた。

「……作業を続けてくれ」


しかし返事はなかった。やがて一人が勇気を振り絞ったように言った。

「田中さん、本当に……ニュースは間違いなんですか」

声は震えていた。


続けて別の青年が叫ぶように言った。

「母が病気なんです。薬代が要る。仕事がなきゃ暮らせません。黒田に行けば給料は出るって、もう声をかけられている」


さらに別の若者が口を開いた。

「俺の弟は大学を辞めるかもしれない。ここに残っても将来はない。……でも、俺はあなたを信じたい。でも……」

言葉は途切れ、彼は目を伏せた。


その視線を受け止めることができず、隆志は拳を握りしめた。胸に蘇ったのは、日本で部下の名に朱の丸を付けたあの日の記憶だった。数字のために彼らの生活を切り捨てた自分。今度は、自分が数字と虚像によって切り捨てられようとしている。


「俺は……偽装などしていない。必ず信頼を取り戻す」

声を絞り出した。だが誰も頷かなかった。


サミュエルが腕を組んだまま、低い声を落とした。

「田中。理想は分かる。だが、現実には家族を養わなきゃならない。黒田に従えば金は手に入る。従わなければ、飢えるだけだ」

「だが、その選択の先に事故と死がある。今日を生き延びても、明日を失う」

「明日より今日だ。……ここではな」


二人の言葉がぶつかり合い、工房の空気をさらに重くした。若者たちは目を伏せ、どちらの言葉にも頷かなかった。


夜、宿に戻るとスマホが震え続けていた。通知を開けば〈帰れ〉〈詐欺師〉〈日本人の恥〉といった罵倒ばかり。匿名の文字は刃物のように胸を刺した。


ベッドに倒れ込み、天井を見つめた。写真立ての中のみゆきが笑っている。思い出すのは夏祭りの夜、小さな風鈴を欲しがってねだられ、屋台で一緒に選んだこと。金魚の模様を指さし、澄んだ音を鳴らして笑ったあの日。あの音を守るために来たはずなのに。


「俺は……また同じなのか」

呟いた声は闇に溶けた。部下を切り捨て、信頼を失った過去と同じ孤独に、再び取り残されている。


翌朝、工房に立っても誰も口を開かなかった。若者たちは黙々と工具を動かすふりをし、サミュエルも短く指示を出すだけで、隆志を見なかった。


「……分かった」

心の中で小さく呟いた。彼らにとって自分はもはや重荷だ。言葉を尽くしても届かないなら、沈黙するしかない。


工房の隅に座り込み、隆志は赤土の風の音だけを聞いていた。埃が舞い、光の筋の中で小さな粒子が踊る。金属音も掛け声も消え、沈黙だけが時間を削っていた。


風鈴の音が耳の奥に響いた気がした。遠く離れた娘の声と重なるように。だが今は慰めではなく、孤独を告げる鐘の音にしか聞こえなかった。

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