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五百億の風  作者: 一条信輝


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第四章 闇の市場

翌週、サミュエルに案内され、隆志は港湾地区を訪れた。積み上げられたコンテナの間を縫うように歩くと、巨大な駐車スペースが広がり、数百台の中古車が並んでいた。ボディには日本のディーラー名がかすれて残り、ナンバープレートは外されている。だが近づくと、塗装の下に隠された凹みや、仮止めされた部品が目に入った。


「これが今の市場です」

サミュエルの声は重かった。

「見た目だけ直した車を積み出す。中身は壊れたまま」


その言葉を裏付けるように、一人の男が車のボンネットを開けた。エンジンルームは錆びだらけで、冷却ホースに亀裂が走っている。隆志が眉をひそめると、男は肩をすくめた。

「走ればいいんだ。港を出たら、後は買ったやつの責任だ」


そこへ、派手なスーツ姿の黒田が現れた。かつての同僚、今はこの闇市場を仕切る男。

「よお、田中。久しぶりだな」

口元に浮かぶ笑みは、かつて営業成績を競った頃のそれと同じだった。だが目の奥の光は冷たく濁っていた。


「相変わらず品質だの誠実だの言ってるのか? こっちはそんなもの求めちゃいない。安けりゃ売れる。走れば十分。それがここのルールだ」

黒田の背後では、コンテナに積み込まれた車が次々とフォークリフトで運ばれていく。埃と排気の混ざった風が吹きつけ、隆志の顔を打った。


「だが、事故が増える。命を奪うかもしれない」

「命? ハッ、人は死ぬ。だがビジネスは回り続ける。数字を追うお前なら分かるはずだろう」


突きつけられた言葉に、胸が痛んだ。数字のために部下を切った自分。かつての自分と同じ論理を黒田が口にしている。違うはずなのに、否定しきれない。


そこへ黒塗りの車が滑り込んできた。降りてきたのはムワンギ議員だった。数人の側近を従え、悠然と歩いてくる。

「田中氏。黒田から話は聞いている。彼は私の友人であり、信頼できる取引相手だ。君も従えばよい。安さこそ人々のためになる」


「違います」

隆志は強く言った。

「人々が求めているのは、命を預けられる車です。安さのために危険を押しつけるのは裏切りです」


議員は短く笑った。

「理想を語るのは自由だ。しかし、この国で風を決めるのは私だ」


サミュエルが隆志の腕を引いた。「今日はこれ以上は無駄だ」と目で訴える。だが隆志は一歩も引かなかった。


埃っぽい風がまた吹き抜ける。闇市場の喧噪に包まれながら、彼は心の中で呟いた。

——この風の向きを変えなければ、娘を救う未来も、自分を救う意味もない。


数日間、隆志はサミュエルと共に中古車市場を歩いた。ナイロビ郊外の空き地には、赤土を踏み固めただけの敷地に何百台もの車が並んでいる。照りつける太陽で車体は熱を帯び、手をかざすだけで焼けるようだ。焼けたゴムとオイルの匂い、果物の甘い匂い、汗と埃が入り混じり、鼻腔を刺す。


商人たちが大声を張り上げて客を呼び込み、客は声を荒げて値切る。笑い声と怒号が交錯し、子供が果物を売り歩く声すら混じっていた。市場はまるで生き物のようにうねっている。


「見ろ、これが黒田のやり方だ」

サミュエルが指差した車は、艶やかな塗装が施されていた。だがボンネットを開けると、冷却ホースに亀裂が走り、配線はビニールテープで巻かれただけだった。

「外見だけ直して新品同様に見せる。客は安さしか見ない。だから黒田の車が一番売れる」


そばにいた農夫が隆志に声をかけた。

「安いのは助かる。畑の収穫を市場に運ぶには車が要るんだ。壊れても走ればいい。命より明日の食事だ」

その言葉は、強烈な現実として胸に刺さった。


群衆のざわめきが一段と高まった。派手なスーツにサングラス姿の黒田が取り巻きを従えて現れたのだ。商人たちは一斉に頭を下げ、車の鍵を差し出す。まるで王の行進だった。

「どうだ田中、これが現実だ」

黒田は笑みを浮かべた。

「安さこそ正義。命や品質なんて誰も求めちゃいない。飢えをしのげる方が大事なんだ」


「だが、その先に事故が待っている。命を奪う車で未来は築けない」

隆志は声を強めた。だが黒田は鼻で笑う。

「未来? ここで大事なのは今日を生き残ることだ。明日を夢見る余裕なんて誰にもない」


そこへ黒塗りの車が滑り込み、ムワンギ議員が姿を現した。群衆はざわめき、すぐに道を開ける。議員は重々しく言った。

「田中氏、これがこの国の市場だ。民は安さを望み、黒田はそれを供給している。だから私は彼を支持する。君の理想は立派だが、風の向きを決めるのは私だ」


「理想ではありません」

隆志は食い下がった。

「人は安さだけで生きられない。信頼を失えば、この市場もやがて立ち行かなくなる」


議員は薄く笑った。

「信頼より腹を満たすことだ。民は明日のパンを選ぶ。誠実さは空腹を癒やさない」


サミュエルが小声で言った。

「これが現実だ、田中。彼らに逆らえば、港も許可も閉ざされる」


隆志は群衆を見回した。汗に濡れた額、必死に値切る声。誰もが安さに縋らざるを得ない。だが、その代償が命だとしたら——。

彼は心の奥で呟いた。

「この風を変えなければ未来はない」


赤土の風が市場を吹き抜け、砂粒が頬を打った。群衆は誰も気づかなかったが、その風だけが隆志の決意を確かに後押ししていた。


市場で黒田とムワンギ議員に言い負かされた日の夕刻、隆志は工房に戻った。赤土を巻き上げる風がまだ頬に残り、耳の奥では黒田の嘲笑が響いていた。人々の目は、安さを提供する黒田に向いていた。隆志の言葉には、誰一人として頷かなかった。


工房の中はいつになく静まり返っていた。昼間は金属を叩く音やエンジンを試す轟音が絶えないが、今は工具を持ったままの若者たちが黙り込み、視線を床に落としている。油の匂いが濃く漂い、換気の悪さが息苦しさを増していた。


「……どうしたんだ。作業を続けてくれ」

声をかけても、反応は鈍い。やがて一人の青年が重い口を開いた。

「今日、市場で黒田の車が全部売れました。俺たちのは、一台も……」


別の青年が、油に汚れた手を膝で拭きながら言った。

「妹の学費が払えないんです。黒田に雇ってもらえば給料はすぐに出る。ここに残っても保証は……」


さらに年長の整備工がつぶやいた。

「俺の母は薬が必要だ。だが金がない。車が売れなければ……」


その声に工房全体の空気が沈んだ。隆志は胸を突かれた。日本で部下の名に朱の丸を付けたあの日の光景がよみがえる。彼らも家族を抱えていたのに、自分は数字で彼らを切り捨てた。今、その報いを受けているのだ。


「俺を信じていないのか」

問いかけた声は自分でも驚くほど弱々しかった。


サミュエルが腕を組んで黙っていたが、やがて低い声で言った。

「信じていないわけじゃない。ただ、現実を見ろ。黒田には議員の後ろ盾がある。彼に従えば家族を養える。俺にも家族がいる。子供に飯を食わせるためなら、理想だけでは生きられない」


「だが、俺たちが事故車を売り続けたら……誰かが死ぬかもしれない」

「誰かが死んでも、残された者は今日を生き延びる。そういう国なんだ、ここは」


突き刺さる言葉に、隆志は返せなかった。若者たちの目は「あなたに従えば飢える」と言っていた。孤立しているのは明らかだった。


夜、宿に戻っても眠れなかった。裸電球の下でみゆきの写真を取り出す。写真の中の娘は、夏祭りで買った小さな風鈴を揺らして笑っていた。あの音が耳に蘇る。透明な響きは慰めのようであり、同時に罰のようでもあった。


「俺は間違っていない。たとえ一人になっても」

独り言のように呟いた。窓を開けると赤土の風が吹き込み、埃を含んだ空気が部屋を撫でた。まるで遠くから風鈴の音を運んでくるかのように。


翌朝、工房に戻ると、若者たちは沈黙のまま作業をしていた。隆志は彼らを前に立ち、声を張った。

「黒田のやり方に従うつもりはない。俺は命を守る車を作る。それだけだ」


返ってきたのは沈黙だった。誰も答えず、サミュエルでさえ視線を落とした。工房の空気は昨日よりも冷たく、重くのしかかる。


それでも胸の奥には小さな炎が残っていた。娘の風鈴の音が、その火を消さずに燃やし続けていた。


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