第三章 赤土の風
成田を飛び立って十数時間。乗り継ぎを経て、隆志はナイロビの空港に降り立った。機体のタラップを降りた瞬間、熱気と埃が混ざった空気が顔を叩く。鼻に入り込む匂いは、オイルと土、そしてどこか甘い果実の香りが混ざっていた。日本のビル街で嗅ぎ慣れた乾いた冷気とは、まるで別世界の風だった。
空港ロビーは人で溢れていた。家族を迎える群衆、荷物を抱えた旅人、押し寄せるタクシー運転手たち。大声と笑い声が交錯し、混沌が秩序を上回っている。隆志はスーツの上着を握りしめた。汗がすぐに滲み、背中を伝った。
出口付近で名前を書いた紙を掲げている青年がいた。
「タナカ? サミュエルです」
流暢な英語に混ざる独特のイントネーション。彼がこれからのビジネスパートナーだった。握手を交わした手は大きく、硬い。だが、その笑顔には警戒心も混じっていた。
空港を出ると、舗装の継ぎ目が剥がれかけた道路が続いていた。路肩には古びた車が並び、ボンネットを開けて修理する姿があちこちに見える。煙を吐くマイクロバス、荷台に人をぎゅうぎゅうに詰め込んだトラック。どの車も日本製のロゴを付けていた。
「見てください。これ全部、ジャパンの車です」
サミュエルが誇らしげに言う。だが隆志の目には、錆び、凹み、破れたシートがまず映った。
市街地に入ると、信号のない交差点で車が絡み合うように進んでいく。クラクションが一斉に鳴り響き、バイクが人の間を縫うように走り抜ける。隆志は思わず息を呑んだ。日本の道路では考えられない混乱。だが、不思議と事故は起きない。人も車も互いに身をかわし、流れの一部になっていた。
車窓の外には市場が広がっていた。布を広げただけの簡素な屋台に、野菜や果物、衣服が所狭しと並ぶ。人々は声を張り上げ、値段を競り合っている。笑い声、怒声、歌声。隆志は圧倒されながらも、心のどこかで羨ましさを感じていた。ここには数字や効率だけでは割り切れない、生の活気があった。
サミュエルは真剣な顔で言った。
「この国では車が命を運びます。病院まで二十キロ歩く村もある。バスが来なければ人は死にます。でも、悪い車も多い。事故で命を落とす人も少なくない」
その言葉が隆志の胸に重く落ちた。——命を運ぶはずの車が、命を奪っている。日本で数字を追い、部下を切り捨て、自分も切られた。だが、この土地での車の意味は、数字よりもずっと直接的で、残酷だった。
市場を抜けると、遠くの丘に夕陽が沈みかけていた。赤土の大地が光を浴び、空気に熱を孕んで舞い上がる。隆志は窓を開け、土の匂いを含んだ風を吸い込んだ。その瞬間、心の奥で何かが揺れた。見えない風が、再び彼を押していた。
翌朝、サミュエルは隆志を郊外の工房へ案内した。舗装が途切れると赤土の道が続き、埃が舞い上がる。トタン屋根の建物の前に、廃車同然の車が何台も並んでいた。中に入ると、油と鉄と埃の匂いが混じり合い、工具を叩く金属音が響いていた。若者たちが古びたレンチを握り、汗を滴らせながら部品を外しては磨いている。
「ここが私たちの拠点です」
サミュエルの声には誇りが混じっていた。
「小さいですが、この工房から何十台も車を直して市場に出します。ここで働く仲間の家族、十人以上がこの収入で食べている」
隆志は頷きつつも、胸の内で計算していた。工具はどれも錆びつき、照明も暗い。効率は悪く、日本の基準とは程遠い。
「このやり方では限界がある」
思わず口をついた。サミュエルの眉が動いた。
「限界? これが現実です。壊れた車を直し、走るようにする。それだけで人は救われる」
「だが、この整備では事故が増える。命を守るはずの車が、人を殺すかもしれない」
「それでも、人々は走る車を必要としている。錆びていても、座席が破れていても、動けば市場へ行ける。病院へ行ける」
二人の視線がぶつかった。サミュエルの目には怒りと同時に切実さが宿っていた。
工房の隅で作業していた若者が近づき、油まみれの布で手を拭きながら言った。
「昨日、友人が事故で死にました。ブレーキが効かなかった。でも、彼にはその車しかなかったんです」
言葉に詰まる隆志の脳裏に、日本での光景がよみがえった。冷房の効いた会議室、合理化名簿、赤い丸印。部下を数字に変えた自分。その部下にも、家族がいた。彼らもまた、車を必要としていたはずだ。
「だからこそ、正しい整備が必要なんだ」
自分に言い聞かせるように隆志は口にした。だがサミュエルは首を振った。
「あなたは外から来て、正論を語る。でもこの国の人々は明日の飯のために今日を生きている。効率や規格を持ち込んでも、誰も買えなければ意味がない」
「それでも事故は減らせる。品質は命を守る」
「あなたは数字を守ろうとしているだけだ。本当に人を守るなら、まずは彼らの暮らしを理解することだ。ここでは風が時間を決める。あなたの国の時計じゃない」
沈黙が落ちた。外から吹き込む赤土の風が、埃を巻き上げて二人の間を通り抜けた。若者たちのハンマーの音が遠くで響く。
隆志は拳を握り、胸の内で渦巻く思いに耐えていた。数字と効率で部下を切り捨てた自分。だがこの土地で必要とされているのは、数字でも効率でもない。命をつなぐ現実の手段だった。
それでも、譲れない思いもあった。
「俺はもう、数字のために働きたくない。人の命を守るために、本当の整備をしたいんだ」
その声は自分自身への宣言でもあった。
サミュエルはしばらく黙って隆志を見つめ、やがて吐き捨てるように言った。
「なら証明してみろ。ここで、本当に命を守れる車を造れるかどうか」
挑戦状のような言葉だった。
隆志は無言で頷いた。心の奥に、赤土の風が冷たく吹き込んでいた。
数日後、サミュエルに連れられて訪れたのは市街地の中心部、重厚な門構えの屋敷だった。白壁に鉄格子の門、広い庭には黒塗りの高級車がずらりと並んでいる。ここが地元の有力者、ムワンギ議員の邸宅だった。輸出入の許可、港湾の使用枠、地方行政との連携──この国でビジネスを広げるには、彼の影響力を避けて通れない。
待合室でしばらく待たされたあと、厚い扉が開き、中年の男が現れた。背は高く、腹回りは豊か。だが眼差しは鋭く、笑みは口元だけに浮かんでいる。
「日本から来た田中氏だな。ようこそナイロビへ」
低い声が響く。
隆志は深く頭を下げた。名刺を差し出すと、ムワンギはちらりと目を通し、机に置いた。
「聞いているぞ。品質で勝負したいそうだな。だが、この土地では別の理屈が働く」
彼は手を叩いた。奥の扉から、見慣れた顔が現れる。黒田だった。かつて同じ会社で働いた営業仲間。日本を去ったあと、アフリカで事業を拡大していると噂に聞いていた。
「よお、田中。久しぶりだな」
黒田はにやりと笑った。
「ムワンギ議員には俺がずっと世話になってる。安い車を入れれば、市場は動く。細かいことにこだわるお前には、この土地は合わないんじゃないか?」
隆志は拳を握りしめた。黒田の背後には、整備不良のまま港に並べられた中古車の写真があった。外見を取り繕い、エンジンだけ動くようにしたものばかり。
「事故が増える。人が死ぬかもしれない」
「死ぬ? 人は元から死ぬものだ。こっちは金を払えない。安く走ればそれでいい。需要は数字で決まるんだよ」
黒田の声は冷たかった。
ムワンギは椅子に深く腰を下ろし、指先で机を叩いた。
「田中氏。君の言う品質とやらは立派だ。しかし、民は金がない。安さこそ善だ。黒田のやり方で市場は回っている。君にそれを覆せるのか?」
「覆します」
隆志は即答した。
「人の命を危険にさらす商売は続かない。信頼を築けば必ず支持される」
議員はしばらく黙り、やがて薄く笑った。
「強い言葉だ。しかし、この国の風を決めるのは私だ。お前の国の規則ではない」
挑発のような言葉が落ちた。サミュエルが横で息を呑む。隆志は視線を逸らさなかった。
「風の向きを決めるのは人だ。だが、人を押すのは風だけじゃない。誠実さも同じだ」
黒田が鼻で笑った。
「誠実? そんなものは食えない。金と数が世界を動かす。俺はそれを知ってる」
会談は平行線のまま終わった。帰り際、ムワンギが低く告げた。
「君の挑戦は見物だ。だが、この地で長く続くのは、現実を受け入れた者だけだ」
邸宅を出ると、赤土の風が頬を打った。黒田の嘲笑とムワンギの警告が耳に残る。だがその風は、隆志にとって挑戦の合図のようにも感じられた。




