第二章 見えない未来
翌朝、隆志は早めに家を出た。智子と目を合わせることはできなかった。食卓には、彼女が置いた湯気の立たない味噌汁と、みゆきが残した風鈴だけがあった。昨夜の会話の余韻はまだ重く胸に残り、背広の肩に乗った埃のように取れなかった。
駅の階段を下り、改札に向かう途中、就活生の集団が視界を横切った。黒いスーツに身を包み、手には同じ色の鞄。誰もが疲労を隠しながら、それでも目に小さな炎を宿している。隆志は思わず自分の姿と重ね合わせた。三十五歳。かつては部長職。だが今は、彼らと同じ椅子を求める立場にある。
就職情報誌の求人ページに赤いチェックが並んでいる。百を超える応募先の名前が鉛筆で塗り潰され、その横に「不採用」と殴り書きがされている。最初は封書、次第にメールでの定型文。どれも「ご希望に沿えませんでした」で終わる。同じ言葉が百通も重なると、もはや文章ではなく、壁の落書きのように目に映った。
「年齢がネックです」
ある面接官はそう言った。
「前職の肩書きが重すぎる」
別の人事担当は苦笑した。
「即戦力を求めているのですが……」
形ばかりの説明が続く。
面接の帰り、喫茶店の窓際に座り、隆志はコーヒーの苦味を噛みしめた。二十代の頃、顧客に頭を下げ続けた自分を思い出す。数字を追い、成果を重ね、肩書きを得た。だがその肩書きが、今は就職の障壁となっていた。
鞄の底には、まだ開封していない応募書類の控えが数枚残っている。だがペンを持つ手は進まない。履歴書の「志望動機」の欄に何を書いても、すぐに嘘くさく見えてしまう。心からの言葉を紡ぐ余裕など、もう残っていなかった。
帰宅の電車で、窓の外を流れる景色を見つめながら、隆志は計算した。仮に日雇いのアルバイトを続けても、娘の手術費には到底届かない。貯金は減る一方で、家賃と生活費が残高を食い尽くすのも時間の問題だった。
「このままでは、みゆきを救えない」
その事実だけが、繰り返し頭に響いた。
駅に着くと、求人広告の掲示板の前に人だかりができていた。若者も中年も、紙に顔を近づけてはため息をつく。誰もが同じ風に吹かれている。だが彼らの背中はまだしなやかに見え、自分の背だけが鉛のように重かった。
夜、家に戻ると、智子は言葉を交わさなかった。リビングの隅には、みゆきが折り紙で作った小さな鶴が並んでいた。その横で、風鈴が静かに揺れていた。窓の隙間から入る風が音を立てるたび、胸が痛む。
百社の不採用通知を抱えて、隆志はベッドに倒れ込んだ。数字に追われてきた人生が、今度は自分を数字の外へ押し出そうとしていた。
翌朝、まだ薄暗い時間に目を覚ました。眠りは浅く、夢の中でも不採用通知の文面が繰り返されていた。布団を抜け出してリビングに行くと、窓際に置かれた小さな風鈴が目に入った。昨夜、みゆきが「ここなら風が通るから」と言って吊るしたものだ。透明なガラスに金魚の絵が描かれていて、夏祭りで買ったときの笑顔がよみがえる。
その風鈴が、窓の隙間から入る冷たい朝風に揺れ、かすかな音を響かせた。澄み切った音は、静まり返った部屋に浮かび上がるようだった。隆志は立ち止まり、その響きに耳を澄ませた。なぜか胸の奥に沁みて、苦しいはずなのに涙が出そうになった。
「パパ」
背後から小さな声がして振り返ると、みゆきが眠たげな目をこすりながら立っていた。病気で顔色は薄いが、口元にはいつもの笑みがあった。
「パパ、風が鳴ってるよ」
そう言って、彼女は指先で風鈴をちょんと突いた。からん、と澄んだ音がもう一度鳴った。
隆志は膝を折り、娘の視線と同じ高さに顔を合わせた。
「そうだな。風が鳴ってる」
言葉を返しながら、胸の奥で別の声が響いていた。——この子の命を救わなければならない。どんな手を使っても。
みゆきは椅子に腰かけ、折り紙を広げ始めた。手先は器用で、小さな鶴や花を次々に作っていく。その集中した顔を見ていると、病を抱えていることを一瞬忘れてしまうほどだった。だがその横顔が弱々しい光に照らされるたび、現実が突きつけられる。
智子が寝室から出てきて、冷たい声で言った。
「今日も面接? ……結果は分かってるでしょうけど」
その棘のある口調に、返す言葉を失った。彼女も不安と苛立ちに押しつぶされている。だが隆志の心を最も突き動かしたのは、彼女の言葉ではなく、風鈴の音だった。
——見えない風が鳴らす音。それは未来の合図か、それとも警鐘か。
答えは分からない。ただ、音色が胸を突き刺し、逃げ場をなくしていた。
面接用の鞄を肩にかけると、みゆきが呼び止めた。
「パパ、これ持っていって」
差し出されたのは、小さな折り鶴だった。赤い色紙を丁寧に折ったもので、羽には幼い字で「げんき」と書かれている。
「ありがとう」
鶴を受け取りながら、風鈴の音をもう一度聞いた。
その透明な響きは、仕事を失い、希望を失いつつある自分にとって唯一の救いだった。風鈴の音がある限り、まだ立ち止まるわけにはいかない。
隆志は娘の頭を撫で、玄関へ向かった。ドアを開けると、冷たい朝風が吹き込み、風鈴が強く鳴った。からん、からんと重なり合う音は、まるで背中を押すかのように響いた。
彼は鞄の中に折り鶴をしまい、足を踏み出した。見えない風が吹く先に、まだ見ぬ未来が広がっていることを信じたかった。
午後の面接は、またも不採用に終わった。応接室で形式的に頭を下げる人事担当の口元は、もう見飽きるほど同じだった。建前と本音の間で揺れる薄い笑み。その裏にある「三十五歳」という数字の重みを、隆志は嫌というほど理解していた。
駅前のベンチに腰を下ろし、鞄から書類を取り出した。赤いバツ印が並ぶ応募先リスト。ページの隅には「再挑戦不可」と自分で書いた文字が残っている。ペンを握った手は鉛のように重く、次の一行を書く気力すら湧かなかった。
そのとき、横から日本語混じりの英語が聞こえてきた。
「Excuse me, すみません。ここ、座っていいですか?」
振り向くと、背の高い黒人青年が立っていた。二十代半ばほど。人懐っこい笑みを浮かべている。ぎこちない発音ながら、はっきりした意思を込めた声だった。
「どうぞ」
隆志が答えると、青年は深々と礼をして腰を下ろした。手には古びた日本語の教科書が抱えられている。表紙には「基礎からのビジネス日本語」とあった。
「日本語、勉強しているんですか?」
問いかけると、青年は頷いた。
「はい。私はジョセフ。ケニアから留学で来ました。工学を勉強しています。でも……アルバイトもしないと生活が大変」
流暢さに欠けながらも、必死に伝えようとする姿勢に誠実さを感じた。隆志は無意識に心を開いていく。
「私は——いや、元自動車会社の営業部長だった」
口に出した途端、胸の奥に痛みが走った。ジョセフは驚いた顔を見せたが、すぐににこりと笑った。
「それはすごいですね。ケニアでは日本の車がとても人気です。トヨタ、ホンダ、ニッサン……どれも憧れです」
「中古車でも、か?」
「もちろんです。むしろ中古車が命を運んでいます。病院に行くとき、農作物を市場に運ぶとき……車がなければ暮らしは止まってしまう」
その言葉が、隆志の胸に突き刺さった。会社で数字に追われ、部下を切り、自分も切られた。だが、車の本当の役割を、彼は忘れていたのではないか。数字ではなく、命を運ぶもの。
ジョセフは続けた。
「でも、問題もあります。日本から来る中古車の中には、状態が悪いものも多い。事故車や修理されていない車。それでも人は買います。安いから。でも、危ない」
隆志は思わず息をのんだ。まるで黒田のやり方を示すような言葉だった。
「もし、本当にいい品質で車を届けられたら?」
問いかけると、ジョセフは力強く頷いた。
「信頼を得られます。ケニアの人は、お金よりも誠実さを見ます。誠実さがあれば、少し高くても買います」
風が吹き抜け、ベンチ横の街路樹がざわめいた。隆志はその音を風鈴の響きに重ねて聞いた。——見えない風が、また自分を押している。
「ジョセフ。君の国で、本当に車が人を救うなら……」
言いかけて言葉を切った。胸の奥で眠っていた何かが目を覚ます感覚。
「私は、そこへ行くべきかもしれない」
ジョセフは目を輝かせた。
「来てください。日本の技術と誠実さを、ケニアは必要としています」
その瞬間、隆志の中でかすかな光が灯った。百社の不採用で塗り潰された心に、ひと筋の風が吹き込んだのだ。




