第一章 冷たい風
換気口から落ちる冷気が、会議室の紙の端をひやりと持ち上げた。
長机の向こうで、課長格たちが無言のまま背筋を伸ばす。ガラスの壁越しに見える本社フロアは、いつも通りの午後だった。電話の着信が遠くで鳴っては止み、コピー機のローラー音が薄く届く。ここだけが静かだった。
「では、確認します」
人事部の若い担当が、配布資料の一枚目を指でそろえた。表紙には〈合理化対象者名簿〉とある。印刷字の黒さが、やけに濃く見える。隆志はボールペンのキャップを外し、机上の丸印の場所を探した。承認欄は三つ。常務、人事部長、営業部長。最後の欄の肩書に、自分の名が括弧書きで並ぶ。
一人ずつ名前が読み上げられ、理由が簡潔に付された。業績不振、適性不一致、配置転換困難。言葉は整っているのに、中身は紙の重さに追いつかない。三つ隣の席で、ベテランの係長が小さく咳をした。それきり、音が消える。
「田所——製販調整グループ、四十三歳。次月末で」
短い沈黙。隆志はうなずいた。ペン先が朱の丸を描く。ほとんど音はしない。
朱肉の匂いが鼻に刺さった。田所は、入社二年目の自分に初めて顧客の癖を教えてくれた男だ。会議のあとの缶コーヒーの甘さまで思い出せるのに、今の欄は、ただ空白を埋める作業のように見える。
「次。古賀——営業推進、三十九歳」
丸。
「佐川——東日本、五十」
丸。
指先が冷える。握りを強くすると、ペンの軸がわずかに軋んだ。
誰も顔を上げない。上げてしまえば、誰かの目とぶつかる。ぶつかれば、何かが崩れる。
「以上で一次リストは確定です。押印を」
人事が差し出すクリップボードを受け取り、隆志は印を押した。紙が一枚、また一枚と裏返る。冷気がそのたびに端を持ち上げ、風が文章をめくるふりをした。
部屋の隅の空調が唸り、薄いブラインドが微かに揺れる。窓の外では、午後の陽がビルの谷間を移動しながら、ガラスに短い影を走らせている。
「対象者には本日中に個別面談を——」
人事の声が遠のいた。隆志は書類を見つめ続けた。印は、予定通りの位置に整然と並んでいる。赤い点が地図の目印のように、誰かの今後を指していた。
会議室のドアが内側に開き、秘書が小声で近づいた。
「田中部長、個別面談の準備が整っています」
「……分かった」
立ち上がると、スーツの袖口に冷気が入り込み、皮膚の上を滑った。廊下に出る。番号札の付いた小部屋がいくつも並び、中では椅子が向かい合わせに置かれている。机の上に、白いティッシュの箱。
最初の面談室に入ると、田所がいた。姿勢よく座り、目はまっすぐこちらを見ている。隆志はドアを閉め、資料を開いた。
定型の前置きから始めるはずだったが、喉が乾いて声が出づらい。田所の視線は揺れない。冷たい風が背中を押した。
「——田所さん。今日は、人員再配置の件でお時間をいただきました」
言葉は予定通りだった。だが、胸の内で別の言葉が何度も形になっては消える。
あなたは、僕に営業の最初を教えた。
僕は、あなたの最後に印を押した。
面談が終わる頃、日がわずかに傾いていた。廊下の空気は朝より乾いて、冷たさだけが残っている。次の部屋に向かう足取りが、少しだけ重くなる。
秘書が新しい封筒を差し出した。封の上に、太い黒字のラベル。
風がまた、紙の端を持ち上げる。
名簿の最後のページが、静かに、めくれかけていた。
面談室を出た瞬間、隆志は壁にもたれ、深く息を吐いた。形式通りに手順を踏み、冷静を装ったはずだ。だが胸の奥には、氷片のような痛みが刺さっていた。田所の「分かりました」という短い返事が、耳の奥で反響して止まない。二十年の付き合いが、朱の丸一つで切り離されたのだ。
次の面談室へ向かおうとした時、秘書が小声で呼び止めた。
「田中部長、少し応接室へ」
怪訝に思いながら歩を進めると、廊下の突き当たりの小部屋に人事部長と総務部長が待っていた。机の上には、白い封筒が一つ。嫌な予感が、冷たい風のように背中を撫でた。
「急で申し訳ない」
人事部長は視線を逸らしたまま言った。
「今回の合理化の対象に、あなたも含まれることになった」
一瞬、音が消えた。窓の外を走る車のクラクションすら聞こえない。ただ、空調が吹き出す冷気だけが耳元でざわめいた。
「……私も、ですか」
掠れた声で問い返すと、人事部長は頷き、封筒を押し出した。
「君の実績は十分だ。だが役職定数を減らさねばならない。管理職の整理も避けられない」
書類の最終ページをめくると、整然と並んだ承認欄の最後に「田中隆志」と印字されていた。つい先ほど、自分が田所や古賀に赤い丸を記したのと同じ形式。違うのは、そこに自分の名前があることだけだった。
ボールペンを握る指が震えた。十数年前、田所と一緒に深夜まで顧客の車庫を回った日を思い出す。汗だくで笑い合い、缶コーヒーを分け合った仲だった。あの時、自分は営業という仕事に誇りを抱いたはずだ。その男を切り捨て、そして今度は自分が切られる。冷たい風は他人を押すだけでなく、自分をも呑み込む。
「退職金と再就職支援については——」
人事部長の声が遠ざかる。
封筒の上で紙がひらりと揺れ、空調の風が端をめくった。そこには、誰かが付けた赤いチェックが滲んでいた。
隆志は無言で封筒を受け取り、深く頭を下げた。形式的な礼だった。心の中では、崩れた堤防から水が溢れるように思いが溢れていた。
——なぜ自分が。なぜ今なのか。
だが声にはならない。
廊下に出ると、窓の外で夕陽が沈みかけていた。灰色の雲がちぎれ、風に流されていく。自分の未来も同じように千切れていくように感じた。
歩き出した足取りは重く、靴底が絨毯を押し潰す感触がやけに鮮明だった。
次の面談室の前で立ち止まり、深く息を吸う。まだ告げなければならない名前が残っている。
だが、これから告げる言葉は、さきほど自分が突きつけられた言葉と同じだ。
冷たい風は止まらない。むしろ強さを増して、背中を押していた。
夜の帰宅時刻は、いつもより二時間も遅かった。鞄には人事部長から渡された封筒が入っている。駅前のアーケードを抜ける時、灯りの下で学生たちが笑いながらスマホを覗き込んでいた。その無邪気さが、まるで別世界の出来事に思えた。
マンションに戻ると、玄関の灯りは点いていたが、食卓には料理が並んでいない。リビングのテレビがぼんやりと光を放ち、妻の智子がソファに腰を下ろしていた。
「遅かったのね」
感情の起伏を抑えた声だった。隆志は上着を椅子に掛け、ためらいながら口を開いた。
「……今日、田所たちに通告した」
智子は視線をテレビから外さない。だがその瞳の奥は冷えていた。
「やっぱり、あなたがやったのね。部下を数字に変えた」
「仕方なかった。会社の指示だ」
「でも、その数字の裏に家族がいることは考えなかったの?」
言葉に詰まった瞬間、寝室から足音が近づいた。娘のみゆきが風鈴を手にして現れる。体調の良い日はこうして起きてこられる。
「パパ、風が鳴ってるよ」
小さな指でガラスの風鈴を揺らすと、澄んだ音が部屋に広がった。その透明さが、むしろ胸を締め付ける。
智子は引き出しから診断書を取り出し、机に叩きつけた。
「海外でしか治せないって。費用は二千万円以上。保険は効かない」
隆志は紙面を睨みつけた。医師の署名が黒々と残っている。
「どうにか……融資を考える」
「融資? 仕事もないのに誰が貸してくれるの。今日だって遅かった、また会社にしがみついてきたんでしょう」
「違う。俺は……」
言葉が出ない。封筒の存在を告げる勇気がなかった。智子は続ける。
「あなたは人を数字にした。その報いを、今は自分が受けているの」
みゆきが風鈴をもう一度揺らした。澄んだ音は慰めのようでもあり、罰のようでもあった。隆志はその音に救いを求めたが、逆に胸に冷たい穴を広げた。
「私はね、隆志。あなたが会社にいる間、家族はずっと後回しにされてきた気がするの」
「そんなことは……」
「じゃあ、どうして大事な時にここにいなかったの。数字より大切なものがあるって、まだ分からないの?」
智子の声は怒鳴り声ではなく、凍りつくような静けさを帯びていた。その静けさが、隆志にとっては叫び声より重かった。
返す言葉はなかった。封筒の重みが鞄の中で鉛のように沈んでいる。
窓の外から夜風が入り込み、風鈴を揺らした。透明な音がまた部屋に満ちる。
隆志は目を閉じた。冷たい風が心の中まで吹き抜け、すべてを揺らしていた。




