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五百億の風―誠実は、誰を救うのか  作者: 一条信輝


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第十章 五百億の風

翌年の春、会計士が広げた帳簿に視線が集まった。

「……年間売上、五百億円規模に到達です」

その声が響いた瞬間、工房に沈黙が落ちた。


最年少の整備士がぽかんと口を開き、手にしていたレンチを床に落とした。金属音が跳ね、誰かが思わず笑った。

「五百億? 本当に?」

「俺たちの工房が?」

信じられないざわめきが広がり、サミュエルが黒板に大きな数字を書いた。

〈500,000,000,00円〉

ゼロの列に皆が目を凝らし、次の瞬間、拍手と歓声が爆発した。


だが隆志は深く息を吸い、静かに言った。

「東アフリカ全体の中古車市場は数千億円。その一割を握ったにすぎない。けれど、この一割は人を運ぶ風だ」


その言葉に、仲間たちは一斉にうなずいた。


数日後、支部からの報告が届いた。

ウガンダの工房では、整備士が自らの署名入りの記録簿を掲げて写真を送ってきた。

「このサインが、村の妊婦を病院に運んだ証拠だ」と。


タンザニアの新工房では開所式が行われ、村人たちが太鼓を打ち鳴らし、歌で迎えてくれた。現地紙の見出しは〈命を運ぶ工房〉。写真の中で、技術者たちは胸を張り、油で汚れた手を誇らしげに掲げていた。


従業員の家族からも声が届いた。

「祖母が生まれて初めて車で通院できた」

「陣痛の妻を病院へ運べた。母子ともに無事だ」

「学校を辞めかけた弟が、工房からの奨学金で戻れた」


一つひとつの言葉が積み重なり、数字の裏に顔が浮かんだ。


その頃、サクラモータースFCも快進撃を続けていた。

赤と黒のユニフォームに「SAKURA MOTORS」のロゴ。スタンドを埋めた観客が歌を響かせ、子どもたちは胸を張って旗を振る。キャプテンのカリームがゴールを決めると、工房で働く整備士たちも観客席で肩を組み、涙を浮かべながら声を枯らした。


試合後、カリームが隆志に言った。

「俺たちが夢を運び、あなたたちが命を運ぶ。赤と黒の誇りは一つだ」


その光景を見届けたムワンギ議員が、隆志の肩に手を置いた。

「五百億。だが数字に酔うな。民が求めるのは、風の続きだ」

隆志は静かに頷いた。

「分かっています。数字は風。人が帆を張らなければ進まない」


夜、工房に戻ると、壁に貼られた整備記録の紙が風に揺れていた。

〈搬送件数:通算五千件〉

その隅に、最年少が書き足した言葉があった。

〈数字は風。人は帆。俺たちは船〉


隆志は胸ポケットの中の写真に指を触れた。

夏祭りの夜に買った金魚の風鈴。娘のみゆきが鳴らした透明な音が、耳の奥で蘇る。


——五百億は、ただの数字ではない。数え切れない命の声が集まって生まれた風そのものだった。


サクラモータースが年商五百億円を突破した直後、地域にもうひとつの大きな知らせが流れた。——〈ナイロビ・ライオンズ、正式にサクラモータースが買収〉。


調印式の日、スタジアムのロビーは報道陣と地域の代表者で埋まっていた。古い木製のテーブルに契約書が置かれ、隆志とクラブ代表のアシャが並んで座る。記者のフラッシュがひっきりなしに光り、ペンの音が響いた。二人が署名し終えると、会場から大きな拍手が湧き起こった。


「これでクラブは存続できる。いや、未来へ進める」

アシャの声は震えていた。背後にはキャプテンのカリームをはじめ選手たちが並び、赤と黒のユニフォームを掲げて誇らしげに立っていた。


隆志はペンを置き、深く頭を下げた。

「赤と黒はそのまま残す。だが名前は“サクラモータースFC”。命と夢を共に運ぶ誇りとして重ねたい」


観客席から歓声が巻き起こり、子どもたちが旗を振った。スタジアム周辺の商店街には既に新しい横断幕が掲げられ、屋台では「サクラの勝利まんじゅう」と書かれた菓子が売られていた。街全体が再び赤と黒に染まっていく。


その週末、記念試合が行われた。観客席は久々に満員となり、赤と黒の波が揺れた。地元紙の見出しは〈地域の誇りよみがえる〉。試合開始前、カリームがマイクを握った。

「俺たちはただの選手じゃない。命と夢を運ぶ“赤と黒”の一員だ!」

スタンドからは地響きのような拍手と歓声が轟いた。


キックオフ。序盤からライオンズ改めサクラモータースFCは果敢に攻め、前半二十分、カリームが左足で鮮やかなシュートを決めた。観客席が揺れ、子どもが涙を流しながら「サクラ!」と叫んだ。隆志の胸に、夏祭りでみゆきが鳴らした風鈴の音が蘇った。澄んだ音が、この歓声に重なる。


試合後、アシャが隆志に歩み寄った。

「スポンサーじゃなく、仲間だ。あんたは今日、それを証明した」

選手たちも次々と握手を求め、油に染まった整備士たちと抱き合った。


その夜、街の至る所で赤と黒の旗が翻った。屋台では歌が始まり、商人たちは「クラブが戻れば経済も戻る」と語った。子どもたちは「いつかサクラモータースFCの選手になる」と目を輝かせ、工房の若者たちは「俺たちはその選手を乗せる車を整備する」と笑った。


ムワンギ議員が試合を見届け、隆志に声をかけた。

「五百億より、この光景こそ価値だ。民の誇りを取り戻した」

隆志は頷いた。

「数字は風。だが誇りは帆になる。帆がある限り、風は前へと運んでくれる」


スタジアムの外で、子どもが小さな風鈴を鳴らした。赤と黒の旗の波に透き通った音が混じり、夜空に吸い込まれていった。


——クラブ買収は、単なる契約ではなかった。地域の夢を守る誓いであり、数字を超えた誇りの証だった。


港の封鎖が解けた頃、最初の異変は倉庫番の若い整備工が役所に持ち込んだ一本のUSBだった。

中身は、事故歴のある車体番号と「整備済み」スタンプの付いた偽造チェックリスト――押印はいつも同じ時間、同じ端末。書式の誤字まで毎回一致していた。


翌朝、港湾警察と保健局の合同チームが黒田のヤードに踏み込んだ。

並べられた車のボンネットが次々にこじ開けられ、割れたラジエーター、クラックの入ったハウジング、錆びたブレーキホースが露わになる。

誰かが「この状態で“走行可”だと?」と叫び、現場の空気が一気に冷えた。


昼のニュースは一色になった。

〈不良車輸出で摘発/整備記録を組織的に偽造〉

夕方には黒田本人が連行される映像が流れ、サングラスの奥の自信は抜け殻のように見えた。

工房の若者たちは無言でテレビを見つめ、サミュエルが低く言った。

「数字のために嘘を積み上げれば、いつか重みで潰れる」


翌日、押収資料の一部が公開され、偽造に関わった下請けの証言が紙面を埋めた。

「“外見を整えろ、内臓は触るな。利益が逃げる”と言われた」

短い一行が、長い時間の痛みを伝えていた。


その頃、工房には意外な客が現れた。早瀬記者だ。

前に来たときの刺すような目つきはなく、彼女は深く頭を下げた。

「前回の報道で、あなたを傷つけました。今度は手順から真実を追います。整備記録、チェックリスト、搬送の現場――一つずつ、映させてください」


隆志はしばらく黙り、壁一面の記録を見渡した。

「条件がある。映像は“結論”から作らない。段取りから積む。嘘は速いが、誠実は手順で証明する」

「約束します」


取材は三日続いた。

始業の鐘、トルクレンチの音、部品番号を書き込む手元、二人一組でのダブルチェック、テスト走行の制動距離、搬送後の医師のサイン。

早瀬は編集用の“絵”を欲しがらず、ひたすら工程を追い、取りこぼしを恐れて何度も同じ質問を繰り返した。

「なぜここで“もう一度”を見るのか」

「人は疲れる。だから手順が人を守る」


放送は週末のゴールデンに乗った。

派手な煽りはなく、淡々と積み上がる段取りと、搬送の最後に小さく「ありがとう」と言う声。

ナレーションは短かった。

〈誠実は遅い。だが、確かに届く〉


反響は想像以上だった。

「前の報道を見て疑っていた。すまない」「うちの町でも基準を真似したい」

メールと寄付が重なり、NGOからは地方都市での共同工房設立の打診が届いた。

ムワンギ議員は視察に来て、壁の記録を一枚ずつ撫でるように見ていった。

「黒田は風を金に換えようとし、お前は風を人に換えた。違いは“手順”だ。手順は思想だ」


夜、工房の外で赤土の風が強まった。

隆志は胸ポケットの写真に触れた。夏祭り、金魚の風鈴を掲げるみゆき。

耳の奥で、透明な音が小さく鳴る。

「見てるか。嘘は速かった。けれど、俺たちは間に合った」


翌朝、黒田の元下請けの青年が工房を訪ねてきた。

「やり直したい。手順を、一から学びたい」

サミュエルは長い沈黙のあと、工具箱を差し出した。

「レンチは嘘をつかない。手順も、嘘をつかない。ここで覚えろ」


壁の新しい紙に、一行が増えた。

〈手順は、約束〉

その下に、震える字で青年のサイン。

風が入って紙を揺らし、工房の天井で欠けた鐘が澄んだ音を返した。

遅いが、確かな音だった。

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