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五百億の風―誠実は、誰を救うのか  作者: 一条信輝


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第九章 数十億の兆し

保健局からの委託を受けて一か月。搬送件数は五十件を超え、工房の壁には依頼票と整備記録が重なり合うように貼られていた。紙の厚みは、そのまま信頼の重みだった。


ある朝、ムワンギ議員が再び姿を現した。秘書が分厚い書類の束を抱えている。

「田中、国の補助金枠にお前たちを組み込むことにした。条件はひとつ、搬送台数と整備記録を毎週提出することだ」

議員は短く言った。

隆志は紙束を受け取り、深く頭を下げた。サミュエルが隣で小さく息を吐いた。

「これで正式に認められた。もう後ろ指は刺されない」


午後、工房に日本からのビデオ通話が入った。商社の担当者が画面越しに頭を下げる。

「東アフリカの需要は拡大しています。御社の品質管理を導入させてほしい」

隆志は驚きながらも答えた。

「条件がある。整備基準を守ること。それができないなら契約はしない」

担当者は一瞬ためらい、そしてうなずいた。


数週間後、初めての大口契約が成立した。中古車百台の供給と整備、搬送支援をセットにした提案は、予想以上の反響を呼んだ。新聞には〈日本式品質が命を守る〉という見出しが踊り、早瀬記者の記事も肯定的に変わっていた。


工房の若者たちは給料を受け取り、家族に米や薬を持ち帰った。最年少の整備士は小さなノートを見せ、妹が学校に戻れたと嬉しそうに語った。

「俺の名前が新聞に出たんだ。“整備者”って欄に」

彼の誇らしげな笑顔に、隆志は胸が熱くなった。


同じ頃、ナイロビ・ライオンズにも変化が訪れた。スポンサーが去った空席に、地域の商人やNGOが次々に協力を申し出たのだ。赤と黒のユニフォームに貼られた「SAKURA MOTORS」のロゴは、街の子どもたちの憧れとなり、工房の前でユニフォーム姿の少年たちがボールを蹴る姿が見られるようになった。


数か月後、帳簿の数字はついに跳ね上がった。年商換算で三十億円規模。数字を確認した瞬間、工房にいた全員が息を呑んだ。

「……三十億。俺たちが?」

サミュエルの声が震えた。

「そうだ。数字は風だ。だが、この風は人を運んでいる」

隆志は静かに言った。


夜、宿の部屋でスマホが震えた。妻からのメッセージだった。

〈手術の準備が整いました。ありがとう〉

短い一文に、胸が熱くなる。遠く離れていても、風鈴の透明な音が耳に届くような気がした。


数字がすべてではない。だが、数字が信頼を呼び、命を運ぶ力に変わることを、隆志は初めて実感した。

三十億という兆しは、ただの金額ではなく、未来へ吹く新しい追い風だった。


三十億という数字は、帳簿の欄外で静かに光っていた。だが隆志にとって、それはただ一つの扉の鍵にすぎない。——みゆきの手術費。日本からの通話で、智子が淡々と告げた。

「来月の第二金曜、午前九時。主治医は変わらない。前日から絶食」

言葉は事務的だったが、語尾のわずかな震えが、長かった月日を物語っていた。


手術前夜、智子は病院のロビーからメッセージを送ってきた。

〈待合室は静か。自販機の音だけが大きい。あの子、さっき“パパ来られないの?”って〉

隆志はすぐ打ち返す。

〈画面の向こうで、ずっと見ている。風鈴、持っていってくれ〉

〈枕元に吊るした。小さく鳴ったよ〉


手術当日、ナイロビはまだ薄暗く、工房の天井灯が白く滲んでいた。壁の「搬送依頼」用紙の余白に、サミュエルがチョークで大きく時間を書いた。〈JST 9:00〉。

「ここを“祈りの時計”にしよう」

若者たちがうなずく。誰も宗派を問わなかった。問う必要もなかった。


九時。日本からのビデオ通話に繋がった画面越しに、青いキャップを被ったみゆきが小さく手を振る。

「パパ、風が鳴ったよ」

細い声。そばで智子がカメラを押さえ、深く頭を下げた。

「……行ってくる」

画面が白衣の背中でふさがり、扉が閉まる音がスピーカーの内側に消えた。


時間は、待つ者の前でかたくなになる。

十分が一時間に、時計の針は砂に沈むように動かない。

誰かが工具の引き出しをそっと閉じ、誰かが湯を沸かし、誰かが「大丈夫だ」と言った。言葉は正しく、効果は少しだけだった。

外から、子どもがボールを蹴る音が聞こえる。乾いた音が規則正しく響き、時々フェンスに当たって高く跳ねた。隆志は耳を澄ませ、息を整え、胸の中でひたすら同じ言葉を繰り返した。——届け。届いてくれ。


二時間を過ぎた頃、サミュエルが紙コップの粥を置いた。

「食べろ。祈りにも燃料が要る」

味は薄かった。だが喉を通った瞬間、身体がゆっくりと温度を取り戻した。


三時間。画面が震え、通知が走る。

〈手術、終わりました〉

智子からの一文に、工房の空気が一瞬無音になり、次の瞬間、拍手と歓声が爆ぜた。油の匂いの中で誰かが泣き、誰かが肩を叩き、誰かが祈るように天井を見上げた。

続けてメッセージ。

〈合併症なし。麻酔からゆっくり覚ましている。先生が“よく頑張りました”って〉


ビデオ通話が再び繋がり、回復室の白い光の下で、みゆきが薄く目を開けた。

「……パパ」

「ここにいる」

「風鈴、鳴ったよ。お医者さんが、きれいだねって」

ガラスの小さな鈴がカメラの端で揺れ、ちり、と透明な音が拾われた。画面越しでも、十分にきれいだった。


通話を終え、椅子に腰を落とした隆志は、顔を両手で覆った。涙は、考えるより先に落ちていた。サミュエルが無言でそばに座る。

「おめでとう」

「……ああ」

「数字は風だと言ったな。今のは、風だ」

隆志は笑った。喉の奥で、擦れた音になった。


その夜、日本から電話。回線の向こうで、智子がゆっくりと語った。

「……ありがとう。疑って、ごめんなさい。あなたが選んだやり方、あの子の命に届いた」

「俺も変わる。数字のためじゃない。人のために数字を使う」

短い沈黙の後、智子は言った。

「退院したら、二人で行く。ナイロビの風、みゆきにも触らせたい」


数日後、医師の正式な報告書がメールで届く。経過良好、制限付きで日常生活に復帰可。

工房の黒板の隅に、最年少の整備士がチョークで書いた。〈Haru’s daughter — OK〉

誰が読んでも分かる、素朴でまっすぐな字だった。


給料日の午後、若者たちが少しずつ封筒を持ち帰る。米袋、粉ミルク、薬。

「田中さんの娘さんが助かったなら、俺たちの手で助かった命だ」

誰かが照れくさそうに言い、皆がうなずいた。数字は帳簿に残るが、実感は胸に残った。


夜、風が強まった。トタン屋根が低く鳴り、街灯の影が道路に揺れた。

隆志は工房の外に立ち、目を閉じる。赤土の匂い、遠くの歓声、近くの笑い声。耳の奥で、風鈴の音が確かに重なった。

——見えない風は、国境も海も越える。

そして今、その風は家族を一つに戻し、次の朝へと背中を押していた。


娘の手術成功から二週間後、隆志はスタジアムのロビーに立っていた。観客席は閉鎖され、照明だけが青白く芝を照らしている。〈ナイロビ・ライオンズ〉のキャプテン、カリームが迎えに出てきた。

「田中さん、本当にスポンサーになってくれるのか?」

ユニフォームの胸には色褪せた広告ロゴが剥がれかけている。かつて満員の観客を熱狂させた赤と黒のユニフォームは、今や誰の目にも痛々しかった。


「契約金は大きくない。ただ、継続する。整備工房の名も入れる。赤と黒は残したい」

隆志の言葉に、カリームの目が大きく開いた。

「色を変えろと言うスポンサーばかりだった。だが、俺たちは赤と黒で戦ってきた」


その場にいた選手たちが次々に集まり、ユニフォームを誇らしげに掲げた。彼らの視線の奥に、燃えるような闘志と、かすかな安堵が同居していた。


契約締結の翌日、新しい練習用ユニフォームが配られた。胸には「SAKURA MOTORS」の文字。背番号の下にも小さくロゴが入っている。工房の若者たちは選手と肩を並べ、写真を撮った。

「俺たちもチームの一員だな」

最年少が笑うと、キャプテンが肩を叩いた。

「違いない。命を運ぶチームと、ゴールを運ぶチーム。赤と黒でつながってる」


週末、工房の前で公開練習が開かれた。観客は数百人。子どもたちが手作りの旗を振り、赤と黒の色が風に揺れる。

「タナカ! サクラ!」

声援が上がり、隆志は胸の奥が熱くなるのを感じた。


練習後、アシャが隆志に近づいた。

「スポンサー契約だけじゃない。地域の雇用と結びつけるべきだ。ライオンズの運営に、工房の若者を入れたい」

「整備士がクラブを?」

「彼らは信頼を得た。地域を動かす力を持っている」

隆志はしばらく考え、うなずいた。


その夜、工房の黒板の隅に新しい欄が増えた。〈クラブ支援〉。輸送、救急、資金、広報。整備士たちが笑いながら役割分担を決めていく。


数日後、新聞の見出しに載った。

〈命を運ぶ工房、地域クラブを支援〉

記事の写真には、ユニフォーム姿の選手と、油にまみれた整備士が並んでいた。


ムワンギ議員が視察に来て、赤と黒の練習着を手に取り、笑みを浮かべた。

「田中、お前は風を読んだな。数字だけでなく、人の心をつかんだ」

「色は奪うものじゃない。重ねるものだ」

隆志の言葉に、議員はうなずいた。


夕暮れ、スタジアムの照明がともる。観客席はまだ半分しか埋まっていない。だが、子どもたちが声を揃えて歌う応援歌は、かつての喧騒に負けていなかった。

隆志は胸ポケットの中の写真を握り、空を見上げた。赤土の風が吹き抜け、耳の奥で風鈴の音が重なる。


——数字は確かに追い風になった。だが、人の誇りを守る色がある限り、この風は止まらない。

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