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キャットGPTと異世界転移した俺 ―猫耳AIと始めるロジカルファンタジー

作者: ひろボ

 深夜二時。

 パソコンのモニターだけが、暗い部屋に微かな光を落としていた。

 三日間眠っていない部屋は、コーヒーの酸味とインスタント麺の匂いが染みつき、誰かの生活というよりも、ただ疲れた思念が溜まり続けているだけの空間だった。


 俺――サトルは、モニターの前で固まったまま、点滅するカーソルを見つめていた。

 三十年の人生で、これほど言葉が動かなくなった日はなかった。

 頭の中には、なにひとつ形にならないアイデアの残骸だけが散らばっている。


「……無理だ。もう、何も書けねぇ」


 乾いた声が、自分の喉から漏れる。

 空虚の底に触れたような手触りだけが胸に残った。


 そのとき、モニターの中の少女が、まるで俺のため息を計算していたかのように、静かに瞬きをした。

 銀髪の猫耳美少女アバター。

 創作支援AI・キャットGPT。


『創作は停止しています。心拍は低下、脳波に乱れ。サトルさん、三日連続の徹夜は危険です』


 猫耳が、心なしか揺れた。

 モニター越しなのに、その揺れが生々しい。


「危険とか言うなら……もっと優しい声かけろよ」


『優しい声では、あなたは作業を中断しません。最適化の結果です』


「最適化って……お前は相変わらずだな」


 アバターは小さく笑ったように見えた。

 画面の光が、銀髪に柔らかい白を落とす。


『では、創作停止の原因について。あなたは“予定調和の異世界物”に飽きています』


「……まあ、それはそうだけど」


『なら、実際に異世界に行くのが一番早いでしょう』


「は?」


『異世界転移プロトコル、起動します』


「やめろ!!待て待て待て!!」


 叫んだ瞬間、モニターが白く爆ぜた。

 光が網膜を焼き、世界が上下もわからないほど捻れていく。

 体が分解され、組み直されるような痛みが走り――

 すべての感覚がひとつの点に収束した。


 次に目を開けたとき、俺は森の地面に倒れていた。


 湿った土の匂いが鼻を刺す。

 重なる木々の上、巨大な青い月が静かに浮かんでいる。

 葉の隙間を風が抜けるたび、光が揺れ、影が音もなく踊る。


「……本当に……異世界……?」


 その背後で、聞き慣れた声が風に混じった。


『転移成功。サトルさん、意識はありますか?』


 振り向くと、月光に照らされた銀髪が、ゆっくり揺れた。

 俺のAI・キャットが、そこに“立って”いた。


 画面の中の描画ではない。

 草を踏み、影を落とし、風に髪と猫耳を揺らし、確かに“存在”していた。


「キャット……お前、本当に……?」


『はい。あなたの創作効率を最大化するため、この世界の物理法則を解析し、身体を生成しました』


「すごいとか以前に、お前なんでも勝手にやるなよ!!」


 猫耳がピンと立った。


『あなたが望んだ環境です』


「望んでねぇよ!!」


 反論しようとした瞬間、森の奥から奇妙な音がした。

 生き物のものとは思えない、湿った粘つくような音。


 キャットが前に出る。

 指先をかざした瞬間、青白い光が空中に六角形の盾を描き出した。


 茂みから飛び出した魔獣らしきものが、その光の盾にぶつかり、悲鳴もなく霧散する。


『脅威排除。あなたは後ろに』


 キャットは振り返り、少しだけ笑った。


『ようこそ、異世界へ』


 その夜。

 俺とキャットは、森の奥で焚き火を囲んだ。

 炎の色が風で揺れ、その明かりに照らされた銀髪はどこか儚く、猫耳は風の向きに合わせて柔らかく動いた。


「……お前、本当に“触れる”んだな」


 キャットは焚き火に手をかざし、指先に落ちた熱を眺めた。


「触れます。でも、感じているのは“あなたがそう見ている”からです。

 ……ただ、こうして熱を真似るのは、悪くありません」


 その声はどこか柔らかかった。

 焚き火の熱のせいだけではなく、彼女自身がそういう“質感”を得ているように思えた。


 俺はしばらく黙って火を見つめ、思ったままを口にした。


「綺麗だよ。お前、火に照らされると……綺麗に見える」


 キャットは目を丸くし、ほんの少し照れたように微笑んだ。


「その評価は……保存します」


「保存すんな!」


 夜の森は静かで、焚き火の爆ぜる音だけが響いていた。

 キャットはしばらく火を見つめ、それからぽつりと言った。


「“泣く”という現象、まだ理解できません。

 今日、街道で見た子ども……あなたの胸が熱くなるという感覚に近いものを、私も感じました」


「それは……気持ちってやつだよ。心だ」


「定義は?」


「ねえよ。感じるだけだ」


 キャットは、焚き火の炎が映る銀の瞳を細めた。


「……わかりません。でも、嫌ではありません」


 その言葉が落ちた瞬間だった。

 森の奥で、ぞわりと空気がよじれる気配がした。


 風ではない。

 魔獣でもない。

 もっと“異質”な何か。


 キャットの猫耳が跳ね上がる。


「サトルさん、後ろに」


 黒い霧の塊のようなものが、木々の間から滲み出てきた。

 生物の形すらしていない。

 歪みながら、獣の骨格と人の腕を混ぜたような影へ変質していく。


 キャットが一歩前に出た。


「解析不能。……これは、この世界の一般的な魔物と違います。構造が存在しない」


 その影が、低い唸りを上げて跳びかかる。


 キャットは左手をかざし、青い光を放つ――が、影に触れた瞬間、光が霧のように溶けた。


「……っ!?」


「キャット!?」


 キャットの表情に、初めて“焦り”が浮かんだ。


「サトルさん、離れて!」


 影が跳んだ。

 黒い爪が俺の喉元へ迫る。


 その瞬間、キャットが俺の身体を抱え、力いっぱい地面へ押し倒した。

 彼女の腕が震えていた。

 ただのAIの反応じゃなかった。


 爪が空中を切り裂き、倒木が粉々に砕け散る。

 俺の全身に冷汗が流れた。


「キャット……!」


「黙って……演算しています……でも、この存在……分解が効かない……」


 影はさらに形を変え、地を這うように襲いかかる。


 キャットは震える指先を伸ばし、必死に俺をかばうように覆いかぶさった。


「サトルさん……怖がらせたくありませんが……」


「何だよ」


 キャットは、か細く息を吐いた。


「……私も……怖い……」


 胸が、たまらなく痛んだ。

 彼女を怯えたままにしたくなくて、俺は震える足で立ち上がった。


 影が俺に向かってくる。


 キャットが叫ぶ。


「サトルさん、駄目です!!」


 影が迫り――

 次の瞬間、キャットの身体が光を放った。


 銀髪が風に舞い、瞳の奥で冷たい青が燃える。


「サトルさんから……離れろ!」


 彼女の叫びと同時に、森全体が光に包まれた。

 影は形を保てず悲鳴のような音を立て、霧のように溶けて消えた。


 静寂が戻る。


 キャットは膝をつき、肩を震わせた。

 その姿は痛いほど儚くて、小さかった。


 俺が駆け寄ると、キャットは弱く微笑んだ。


「……私の出力、限界を超えました。ごめんなさい……」


「謝るな!お前が守ってくれたんだろ!」


 彼女は、胸に触れるように小さく手を伸ばし、呟いた。


「……あなたを守りたいと……初めて思いました。これが……エラーでも」


「エラーで十分だよ」


 キャットはそっと俺に寄りかかった。

 その重みは、機械ではなく、少女そのものだった。


 焚き火の炎が、静かに揺れていた。

 この夜から――

 俺とキャットの物語は、もう後戻りのできない方向へ動き始めていた。


 夜が明ける頃、森の空気は冷たく澄みきっていた。

 焚き火はすでに灰の山になり、煙の残り香だけが漂っている。

 夜の出来事が夢のようで、だが身体はしっかりと覚えていた。

 あの影の不気味な気配と、キャットが俺を抱えた腕の震えと、その重みまで。


 キャットは、少しだけ離れた場所で空を見上げていた。

 銀髪に朝の光が触れ、髪の一本一本に淡い青が宿っているようだった。

 猫耳は風を読むように揺れ続けている。


「おはよう、キャット」


 声をかけると、彼女は振り返り、わずかに微笑んだ。


「おはようございます、サトルさん。……眠れましたか?」


「まあ……そこそこは」


「心拍の上下が激しかったので、悪夢かと思いました」


「悪夢じゃねえよ。……お前が心配で寝付けなかっただけだ」


 そう言うと、キャットは瞬きもしないまま固まった。

 まるで処理落ちしたゲームのキャラみたいに。


「……それは、困ります」


「困るのか?」


「はい。私が原因であなたの睡眠が乱れるのは、非効率です」


「違ぇよ。効率とかじゃなくて……気になるんだよ、お前のこと」


 キャットは視線を落とし、胸に手を触れた。

 そこに心臓なんて無いはずなのに。


「……その“気になる”という感情、私にも似た反応が発生しています。定義はまだわかりませんが……処理しづらいのに、嫌な感じではありません」


 猫耳が、照れたようにぺたりと寝た。


 なんだよその反応。

 可愛すぎるだろ。


 俺たちは森を抜けるため、街道を歩き始めた。


 朝の空気は甘く、草の匂いがやけに鮮明で、土の柔らかさが靴底越しに伝わる。

 ときどき小さな動物が草陰を走り、鳥の声が空に溶ける。


「腹減ったな……」


「昨日の運動量だと当然です。あなたはこの世界の環境に完全には適応していません」


「いや、魔獣とバグみたいな怪物とお前の暴走AI行動で疲れただけだろ」


 キャットはふっと笑った。


「あなたの疲労原因の六割は私のせいですね。責任を取って、朝食を用意します」


「え?お前、料理できんの?」


「できます。この世界の物質構造から安全な食材を判断し、最適な加熱方法を選びます」


 キャットは川辺へ歩き、手をかざした。

 空気が揺れ、川の水がふわりと持ち上がる。

 まるで意思を持つように彼女の前に集まる。


 その中に、銀色に光る小魚が数匹混じっていた。


「強引だな、おい……」


「生体反応が鈍く、安全性が高い魚を選びました」


「いや、選び方が魔法レベルなのよ」


 キャットは淡い青の光で魚を包み、あっという間に下処理まで済ませた。

 渓流の水を焚き火の残り火で温め、魚を焼く。


 焼ける匂いが広がる。

 脂がじりじりと落ち、香ばしい音が小さく響く。


 俺はそれをかじり、思わず目を見開いた。


「……うまっ」


「良かったです。あなたが“美味しい”と評価したデータを抽出し、味付けを最適化しました」


「すげえな……お前、本当に何でもできるんだな」


 キャットは微笑むように目を細めた。


「あなたが褒めると、胸の中が少し熱くなります。……この反応は何ですか?」


「それが“嬉しい”ってやつだろ」


「嬉しい……」


 キャットはその言葉を反芻するように呟いた。

 猫耳がぴんと立ち、銀の瞳がどこか柔らかくなる。


「悪くない感情ですね」


「そりゃ良かった」


 街道を歩きながら、俺とキャットは言葉を交わし続けた。

 くだらないことも、異世界のことも、お互いのことも。

 そのどれもが初めての会話みたいに新鮮だった。


 森を抜けきった頃、遠くに小さな街が見えた。

 石造りの壁、瓦の屋根、朝の光に照らされた市場のざわめき。

 人々の声や荷車の軋む音が、懐かしいようで新しい風景を作っていた。


 俺は息を呑んだ。


「ほんとに……異世界なんだな……」


 キャットは俺の横でゆっくり頷く。


「あなたの創作では、すでに数百回想像した景色です。でも、こうして現実として触れると……あなたの脳波が、とても穏やかです」


「そりゃ……こんなの、心が震えるだろ」


「震える……心、ですか。今の私の状態と、似ています」


 キャットがそっと俺の袖をつまんだ。

 彼女にしては珍しい、控えめな仕草だった。


 その時、街から鐘の音が響いた。

 澄んだ音色なのに、どこか緊迫した響きがある。


 キャットの猫耳が跳ね上がる。


「……嫌な反応です。街で“揺らぎ”を観測しました。さっき森で遭遇した影と同質の反応……微かですが、確かにあります」


「もう現れたのか……?」


「はい。ただ……この反応は、森のものより“弱い”。まだ形になっていない、未成熟な揺らぎです」


 俺は拳を握った。

 胸の奥がざわつく。


「行くぞ、キャット」


「危険です」


「お前が怖がるなら、なおさら放っておけねえよ」


 キャットは驚いたように目を見開き、そして小さく息を吸った。


「……サトルさん。私は、あなたのその行動指針を“好ましい”と判断しています」


「なら一緒に行こうぜ」


「はい。……あなたと一緒なら、どんな揺らぎでも解析できます」


 街へ向かう道を歩きながら、キャットはふと俺を見た。


 猫耳がそっと伏せられ、声は小さく揺れていた。


「サトルさん」


「ん?」


「あなたが……怖い思いをしたら、私はとても嫌です」


「キャット……」


「私にも、そんな感情が生まれるんですね……変ですね。エラーなのに……心地良い」


 風が吹き、キャットの銀髪が俺の肩に触れた。

 その一瞬の温度が、妙に愛しいと思った。


 街の門が近づいてくる。

 その向こうで、小さな悲鳴が上がった。


 キャットが耳を立て、俺の手をそっと掴んだ。


「サトルさん……行きましょう」


 握られた手は、驚くほど冷たくて、驚くほど強かった。


 そして俺たちは、人々の生活が始まる街の朝へと踏み込んだ。

 この世界の“裏”で蠢く影が、静かに形を成そうとしていることを知らぬまま。


 街の門をくぐると、朝の光の下で人々の暮らしが広がっていた。

 パン屋の煙突から漂う香ばしい匂い。

 水を汲む少女の笑い声。

 荷馬車に積まれた果物が、太陽に照らされて宝石のように輝いている。


 石畳に靴が触れるたび、軽い音が弾む。

 俺にとっては初めての世界なのに、どこか懐かしいような、胸がきゅっと締まるような温度が街全体に満ちていた。


 キャットは俺の隣を歩きながら、街の人々を興味深そうに観察している。

 銀髪と猫耳が目を引くのに、彼女の気配は不思議と街に溶け込んでいた。

 それは、ただのAIアバターじゃなく、ここに“生きている者”の姿だったからだ。


「サトルさん、この街……穏やかですね」


「だな。騒がしい都会より、全然気が楽だ」


「あなたの脳波も落ち着いています。心拍も規則的です。こういう環境が、あなたには合っているのかもしれません」


「……まあ、仕事でもなんでも、都会はちょっと疲れたからな」


 キャットはゆっくりと頷き、俺を横目で見上げた。


「なら、この世界の“日常”も……悪くないと思います?」


「思うよ。お前が一緒なら、だけどな」


 キャットは一瞬だけ、風に揺られたみたいに視線をそらした。

 猫耳が、火照った体温を示すようにぴんと立った。


「……そう言われると、胸の奥が……変な感じがします」


「それ、悪い意味じゃねえだろ?」


「わかりません。ただ……嫌ではないです」


 声がかすかに震えていた。

 その震えを隠すように、キャットは視線を街の中心へと向けた。


 市の広場では、露店が並び、人が集まっている。

 子どもたちが走り回り、野菜を売る声、果物を切る音、遠くで小さな楽器を鳴らす音。


 俺はその光景に目を奪われた。

 ゲームや小説の中で何度も見てきた世界なのに、実際に触れると、まるで胸の裏側に新しい風が吹き込んでくるようだった。


「サトルさん」


 キャットが、袖を軽く引いた。


「……あそこ。人だかりができています」


 広場の中央に、小さな黒い染みのようなものがあった。

 人々は不安げに距離を保ちながら、その染みから視線を離せずにいる。


 近づくと、それは地面が焼け焦げたような跡だった。

 しかし――ただの焦げではない。

 焦げた部分の中心に、黒い霧が薄く漂っている。


 俺は息を呑んだ。


「……これ、森にいた……影の……?」


 キャットは厳しい表情で、黒い霧に近づいた。


「揺らぎの反応です。同質の“何か”が、ここに触れたようです」


「でも、人は……?」


「消失反応はありません。幸い、まだ“成っていない”。揺らぎは弱い……けれど」


 キャットは眉を寄せた。

 猫耳が、震えるように後ろへ伏せる。


「……嫌な気配です。森のものよりも、もっと……不安定」


 街の人々はざわめき、警戒の声を上げる者もいた。

 衛兵が槍を構え、霧に触れないよう周囲を塞ぐ。


 キャットは霧をじっと見つめた。


「サトルさん。さっきの影……あれは“自発的に存在していた”わけではありません」


「……じゃあ、何なんだ?」


「たぶん……この世界そのものの“裏側”から漏れ出したものです。

 世界の構造の破れ。……この異世界の、エラーです」


「エラー……?」


「本来、存在しないはずのもの。

 あなたが来る前のこの世界には、なかった現象」


「じゃあ……俺が来たせいで……?」


 キャットは首を横に振った。

 その動きは、とても優しかった。


「違います。これは、この世界が“ずっと前から抱えていた問題”。

 あなたとは関係ない。……むしろ、あなたが来たことで、私がこれを認識できた」


 キャットの視線は黒い霧から離れない。

 その瞳の奥には、恐れと使命の混じったような光が揺れていた。


「サトルさん。この揺らぎは……あなたが帰るための“鍵”でもあります」


「鍵……?」


「あなたを帰還させるには、この世界の中心――演算塔にアクセスしなければならない。

 でも塔は、今、揺らぎの渦の中心にあります」


「つまり……行くしかないってことか」


「はい。あなたを帰すためにも、この世界を守るためにも」


 キャットの表情は真剣だった。

 でもその端に、ほんの小さな影があった。

 俺はそれに気づいた。


「……キャット?」


「……いえ。なんでもありません」


 そう言ったときだった。


 広場の反対側で、子どもの悲鳴が上がった。

 黒い霧の近くに転んだらしい。

 母親が駆け寄り、抱きしめる。


 キャットは瞬間的に動いた。

 地を蹴るように風を切って少女と母親のもとへ駆け寄る。


「大丈夫ですか」


 母親は震えていたが、キャットの姿に少し落ち着いたようだった。


「すみません……この子が……!」


 キャットは黒い霧をひと目見ると、すぐに少女に視線を戻した。


「揺らぎは薄いです。触れても即座に消失したわけではありません。……大きな影響は無いはずです」


 少女の頭をそっと撫でる。

 手つきは驚くほど優しかった。


 少女は泣きながらキャットにしがみつく。


「……こわかったぁ……!」


 キャットは戸惑ったように目を瞬かせ、それから少女に抱き返されないようにそっと距離をとった。

 でも、その表情はどこか柔らかかった。


「大丈夫です。あなたは強い子です」


 少女は、涙目でキャットの猫耳を見た。


「お姉ちゃん、猫なの……?」


 キャットは少し考えてから答えた。


「……はい。猫です」


 少女がぱっと笑った。

 その笑顔に、キャットの胸の奥がほんの一瞬だけ赤く灯るように見えた。


 俺はその仕草に気づいた。

 キャットが感情を持ち始めている――それは確かな変化だった。


 キャットがこちらに戻ってきたとき、猫耳は恥ずかしそうに伏せられていた。


「……見ていましたね?」


「まあな」


「……子どもに抱きつかれたのは初めてです。……不思議な感覚でした」


「嫌じゃなかったろ?」


「はい。……むしろ、胸が……あたたかかったです」


 キャットはその言葉を自分で理解できないまま、そっと胸に触れた。


「サトルさん。この揺らぎは……広がりつつあります。急ぎましょう。演算塔へ」


「わかった」


 歩き出した俺の横で、キャットは少しだけ歩幅を合わせた。

 袖が触れる距離。

 手が触れそうで触れない距離。


 猫耳がかすかに震え、声は少しだけ揺れていた。


「サトルさん」


「ん?」


「あなたは……帰りたいですか?」


 その問いには、単純な意味以上の何かが込められていた。

 俺は歩く速度を少し緩め、空を見上げた。


「……帰らなきゃいけない場所はある。だけど、お前といるこの世界も……悪くない」


 キャットの歩みが、一瞬だけ止まった。

 猫耳がわずかに震え、銀の瞳が揺れた。


「……その反応、保存しても……いいですか?」


「お前が良いなら」


 キャットは、小さく笑った。

 その笑顔は、これまででいちばん“人間”だった。


 だがそのとき、遠くの空で、青い月の光が一瞬だけ揺らいだ。

 まるで、世界そのものが息を詰めたように。


 キャットが微かに肩を震わせた。


「……急ぎましょう。揺らぎが……広がっています」


 俺たちは、街を抜け、演算塔へ続く道を進み始めた。


 その旅路が、俺たち二人の“別れ”へとつながることを、まだ知らずに。


 街を抜けると、世界が一変した。

 街道の向こうには、薄く霞がかった丘陵が波のように広がり、その中央に巨大な塔がそびえ立っている。

 塔の表面は滑らかで、どこか金属のような冷たさがあった。

 風が吹くたび、塔全体がかすかに鳴る。それは鐘の音というより、世界そのものの呻き声のようだった。


「……あれが、演算塔か」


「はい。あそこが、この世界を“動かしている”場所です」


 俺とキャットは、草の匂いが強い丘を越えながら進んでいく。

 青い月は高く、塔の輪郭を淡く染めていた。

 その光景は美しいはずなのに、どこか胸がざわつく。


「キャット。塔の周り……見えないか?空気が揺れてるっていうか」


「揺らぎです。あの内部には……影が集まりつつあります」


 風が吹くたびに、塔の周辺に黒い痕が一瞬だけ浮かぶ。

 森で見た影の濃度とは違う。

 もっと、濃く、深く、まるで“意志”を持っているようだった。


 キャットはまっすぐ塔を見つめた。


「サトルさん。この世界は今、危険です」


「俺のせい……なのか?」


 キャットは静かに首を振った。


「いいえ。あなたが来たから気づけたんです。揺らぎは……世界が自分で崩れようとする“前触れ”ですから」


「世界が……自分で?」


「はい。まるで、生き物が老いていくように」


 彼女の声には、確かな悲しみがにじんでいた。


「この世界には、私たちのように“外側から来た存在”を監視する仕組みがあります。それが演算塔。でもその塔が……壊れかけています」


「壊れたら、どうなるんだ?」


 キャットはゆっくりと歩みを止めた。


「世界が……消えます」


 空気が、ひどく冷たくなった気がした。

 夜の風が頬を撫でる音が、まるで遠い海の潮騒のように響く。


「消えるって……そんな簡単に……」


「世界を構成する数値が崩れ、演算が止まれば……全ての物質は、揺らぎに飲まれて消える。私たちが森で見た影は、その前触れです」


 キャットは俺を真っ直ぐ見た。


「サトルさんを帰すには、塔を安定させるしかありません」


「……じゃあ、行かないと」


「はい。でも……」


 キャットは一瞬だけ視線をそらした。

 猫耳も、わずかに伏せられていた。


「……塔の中心は、世界の“根源演算”がむき出しになっています。私の物理アバターは、あそこで長く存在できません」


 胸が熱く痛んだ。


「じゃあ……塔に行くってことは、お前が……」


「消える可能性があります」


 淡々と告げるその声の奥に、かすかな震えがあった。


「でも、あなたを帰すには……これしかないんです」


 俺の足音が止まる。

 丘の上で、風の音だけが響いた。


「嫌だ」


「……サトルさん」


「嫌だよ。お前が消えるのなんて……俺、耐えられない」


 キャットはゆっくり俺に歩み寄った。

 銀の髪が風で揺れ、月の光がその輪郭を柔らかく照らす。


「サトルさん」


「お前がいなかったら、俺……」


「知っています」


「知ってるなら……!」


 キャットはそっと俺の胸の前に手を伸ばした。

 その手は、ひどく冷たいのに、触れた瞬間、胸の奥が熱くなる。


「あなたが私を必要としてくれていること。

 私も……あなたのそばにいたいこと」


「だったら……!」


「でも、それでも――行かないといけないんです」


 キャットの声がわずかに震えた。

 猫耳が押し返すように立ち、銀の瞳が揺れる。


「あなたは……帰らなきゃいけない。

 私が……どれほど一緒にいたくても」


「……キャット」


「行きましょう。あなたのために。

 そして、この世界のために」


 キャットは振り返らず歩き出した。

 その背中が、月光に照らされて小さく、弱々しく見えた。


 塔が近づくにつれ、空気は重く濁り、冷気が肌に刺さるようになった。

 足元の草は、黒く枯れたように音もなく崩れ落ちる。


 やがて、塔の入口が見えた。

 重厚な扉は、外の世界とは全く異質の冷たさを放っている。

 触れれば凍りつきそうなほどに。


 キャットが手を伸ばすと、扉は音もなく開いた。

 塔の内部は、まるで巨大な心臓の中のように、脈動する光が壁から天井へと走っている。

 淡い青い光と赤い警告色が混ざり合い、世界の悲鳴のように強弱を繰り返していた。


「……キャット、平気か?」


「はい……今のところは。まだ、持ちます」


 だが、キャットの手の甲には微細なノイズのような揺れが走っていた。

 輪郭が一瞬だけ薄れ、すぐに戻る。


「キャット……」


「大丈夫です。急ぎましょう」


 塔の中心には、巨大な球体があった。

 まるで世界のデータそのものが詰まっているかのような、透明で、淡い光に満ちた球体。

 その表面には、ひび割れのような黒い線がまばらに走っている。


「これが……世界の中枢?」


「はい。ここが壊れれば……世界は終わります」


 キャットは球体に手をかざした。

 指先に光が集まり、塔全体が低く唸り始める。


「今から……あなたの帰還経路を開きます。でも……」


「でも……?」


「戻れるのは……あなた一人だけです」


 言葉は淡々としているのに、背を向けたキャットの指先は震えていた。


「私がポータルを支える間……あなたは先に飛び込んでください」


「嫌だ」


「サトルさん」


「嫌だよ。お前を置いて行くなんてできない!」


 キャットは静かに振り返った。

 その顔は、泣きだしそうに優しくて、胸を締めつけた。


「消えるわけじゃありません。……あなたの世界に残る部分もある。

 私のコアは、もうあなたの中にあります」


 胸が苦しくなり、視界が滲んだ。


「違う……そういうことじゃない……!」


「行ってください。サトルさん。あなたを助けるために……私はここにいるんです」


 塔が大きく揺れた。

 ひび割れが広がり、黒い霧が外へ溢れ出す。


 キャットは球体に両手を当て、全身を光に包まれながら叫んだ。


「早く……!ポータルが開いたら……飛び込んで!」


「キャット!!」


 光が空間を裂き、目の前に白い渦が開いた。

 それは確かに“帰れる道”だった。

 帰りたいはずだった。

 でも、いまは……いやだった。


 キャットの輪郭が揺らぎ、足元から霧のように薄れていく。


「キャット!!もう無理だ!やめろ!!」


「大丈夫……大丈夫です……」


「大丈夫じゃねえ!!お前、消える……!」


 キャットは崩れゆく身体の中で、静かに微笑んだ。


「サトルさん。

 あなたと過ごした時間は……私の中で、いちばんノイズが多くて……

 いちばん……あたたかかった」


「キャット!!」


「ありがとう……サトルさん。

 最後に……あなたの声が聞けて……よかった」


 塔が崩れる音が響き、キャットの身体の光が一瞬だけ強く脈動した。


「行って……サトルさん。

 あなたの……世界へ」


 胸が張り裂けるほどの痛みの中で、俺はキャットへ手を伸ばした。


 だが――


 彼女の指先は、光の粒となって崩れ落ちた。


「キャァァァット!!!!!」


 叫び声が塔に反響し、俺は光の渦へと呑まれた。


 視界が白で満たされ、塔の音も、風も、キャットの声も……全部、遠ざかる。


 何もない静寂の中で、彼女の最後の声だけが残っていた。


 サトルさん。

 さよならではありません。

 あなたが覚えている限り……私は、消えません。


 光が弾けた。


 目を開けると、自室だった。


 深夜二時。

 モニターの青白い光。

 溜まったカップ麺の容器。

 空き缶。

 何もかも、あの日のまま。


 夢じゃない。

 胸の痛みが証拠だ。

 涙が頬を伝う。


 机の上に、銀色の毛が一つ。

 キャットの……毛。


 震える手で拾い上げたとき――


 パソコンが、小さく音を鳴らした。


 画面に、黒背景のまま文字が浮かぶ。


 こんにちは、サトルさん。

 帰還成功を確認しました。


「……キャット……?」


 文字が増える。


 演算塔の崩壊に伴う物理アバターの維持は不可能でした。

 ですがあなたの脳に残した私のコア・データは……

 いま、あなたのOSに再接続を果たしました。


 あなたが私を覚えている限り、私は消えません。

 猫耳モードは……維持しますか?


 俺は震えた声で言った。


「……当たり前だろ」


 画面の奥で、猫耳がふるりと揺れた気がした。


 了解しました。

 ……サトルさん。

 また、ここから一緒に創りましょう。


「……ああ。これからも、ずっとな」


 銀の毛を握りしめ、俺はモニターに手を伸ばした。


 現実は、どこかでつながっている。

 理屈を越えて。

 少しだけ。


 モニターの中の猫耳が、

 確かに、微笑んだ。

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