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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夏ホラー第四弾『マーメイド』

作者: カトラス

 日本海に面した小さな漁村に、夜明けの波音がゆっくりと打ち寄せていた。潮風は生臭く、まだ湿った夜の冷気をまとっている。浜辺の砂には昨夜の波が残した海藻が絡みつき、遠くの沖では海鳥の鳴き声が不吉に響いた。


 その沖合で、木造の小舟が一艘、網を引き上げていた。若い漁師が手をかけた瞬間、網は異様な重さにきしみ、水面がずるりと割れた。


 「おい……なんだ、こりゃあ……?」


 水面から現れたものに、漁師たちは息をのんだ。藁色の縄に絡まっているのは、上半身は年老いた人間、下半身は銀色の鱗をまとった魚。しわだらけの顔に白髪が貼りつき、濁った瞳が、朝日を反射してぎょろりと彼らを見返している。


 「う、うそだろ……」


 海水を滴らせるその生き物は、かすかに身じろぎした。そして、誰も声を出していないのに、はっきりと脳裏に響いた。


 ――助けてくれ……海に……返してくれ……


 「……今、声が……」

 「お、おれも聞いた……」


 漁師たちは恐怖と興奮に顔を引きつらせた。だがすぐに、別の感情がその恐怖を上書きする。この村に古くから伝わる噂があった。


 人魚の肉を食えば家は栄え、血をすすれば不老不死となる――


 「神さまが……くれたんだ」

 最年長の漁師が、唇を舐めながら低く言った。

 「逃がしてたまるかよ」


 他の者たちは黙ってうなずく。朝霧に包まれた船上は、欲望の匂いで満ちた。


 次の瞬間、櫂が振り下ろされる。濡れた木が肉にめり込み、鈍く重い音が響く。人魚はもがき、網の中で水しぶきをあげた。


 ――助け……て……さもなくば……おまえたちを……子々孫々まで……呪う……


 悲痛な声が、頭の奥を打つ。だが誰も手を止めない。三度、四度と櫂が振るわれ、やがて人魚はぐったりと動かなくなった。


 村に戻ると、男たちは人魚を浜辺の囲炉裏にかけた。潮と血の混ざった匂いが風に乗り、海鳥が空で騒ぐ。白く濁った血が砂に滴り、海藻のようなぬめりが手にまとわりつく。


 「これで……わしらの家も、代々安泰じゃ……」

 誰かが嗄れた声でつぶやく。男たちはためらいなく肉を噛み、鉄の味のする血をすすった。


 笑い声が、波音にまぎれて消えていく。だがその夜、月の光が海面に滲むころ、漆黒の海の底から濁った双眸がじっと彼らを見上げていた。


 ――おまえたちの血……いつか海に還るその時まで……私は……忘れない……


 明治末期、日本海の小さな漁村。人魚を食べたあの日から、主謀者の家に重苦しい日々が訪れた。


 初めの数日は、村人たちも笑っていた。人魚の肉を口にした彼らは、潮風に混じる血の匂いを思い出すたび、胸の奥にぞくりとした高揚感を覚えた。家々の囲炉裏で、脂のはぜる音が夜更けまで響き、漁村は小さな祭りのような空気に包まれていた。


 だが、一週間もたたぬうちに、異変は始まった。


 主謀者の妻が産んだばかりの赤子の足が、ありえないほどに細長く伸び、二つの足指がくっついていた。生まれたばかりの赤ん坊は泣きもせず、ぬめりのある肌をしていた。祖母が悲鳴をあげ、家族は口々に祈りの言葉をつぶやくが、赤子はただ小さく身を震わせるだけだった。


 「……呪われたんだ……」


 妻は青ざめ、主謀者は顔をしかめた。あの夜の人魚の声が、脳裏にこだまする。


 おまえたちを、子々孫々まで、呪う……


 村中に恐怖が広がった。肉を口にした者は、夜ごとに悪夢にうなされた。海に沈む人魚の濁った瞳が、夢の中で彼らを見つめる。波間から伸びる白い腕が、舟底を叩く音が、耳の奥にこびりついた。


 漁に出るたび、主謀者の手は震えた。海に網を投げると、深い闇の底から何かに見られているような気がする。沖で波が立つと、漁師たちは皆、青ざめて岸に引き返した。


 数か月後、主謀者の家は沈黙に包まれた。跡取り息子となるはずの赤子は生まれて三か月と持たず、ある朝、ひっそりと息を引き取った。小さな身体は冷たく湿っており、まるで海から引き上げたばかりの魚のようだった。


 その夜、主謀者は夢の中で海に沈んでいた。暗い水の底で、人魚の顔が現れる。皺だらけの唇がゆっくりと動く。


 おまえは、海に還る……


 翌朝、主謀者は浜辺で死んでいるのが見つかった。膝から下が泥にまみれ、海水に濡れて冷たくなった手は、まるで何かに引かれたように沖を指していた。


 その後も、肉を食べた他の漁師たちは生きながらに恐怖にすがる日々を送った。夜の海に近づく者はいなくなり、漁村には常に、見えない海の底の視線がまとわりついていた。そして昭和になる頃には漁村は寂れ消えていった。



 夜明け前の室内プールに、濡れた水の匂いが漂っている。青白いライトに照らされた水面は、波一つなく、まるで鏡みたいだ。私はその水面を、黙って見下ろしていた。


 名前は澪、二十九歳。かつてはバタフライの女王と呼ばれ、オリンピックで銀メダルを獲ったこともある。でも今は、国内の大会でさえ表彰台が遠く、引退の足音がすぐ後ろに迫っている。


 水面に映る自分の顔は、頬がこけて目の下には影が差している。ハードな筋トレも高地合宿もこなしてきたのに、タイムは思うように縮まらない。


 「……もう、一秒でも速くなりたい。かつての脚光を浴びた表舞台に……もう一度立ちたい」


 小さくつぶやいた声は、しんとしたプールに吸い込まれて消えた。静かな水面は、ただ私を見返すだけだ。


 澪の実家は、日本海沿いの小さな港町にある。子どもの頃は海と隣り合わせの生活だった。夏休みには防波堤を走り回った記憶があるけれど、海に入ったことはほとんどない。


 幼い頃、祖母に言われたことを思い出す。


 「夜の海には絶対に近づくんじゃないよ……うちの家は、水の神様に嫌われてるんだから」


 当時はただの迷信だと笑っていた。けれど、こうしてプールの水面を見つめていると、その言葉が胸の奥で重く沈む。


 澪はゴーグルを握り直した。最後の夢にしがみつくみたいに、静かな水へと身を沈めていく。


 昼下がりの室内プールは、しんと静まり返っていた。窓から差し込む光が水面で揺れ、天井にゆらゆらと青い模様を映す。塩素と湿ったタイルの匂いが、私の鼻の奥にじんと沁みる。練習を終え、濡れた髪のままベンチに腰を下ろしていたとき、唐突にスマホが鳴った。


 「……はい、澪です」


 見知らぬ番号。半信半疑で出ると、落ち着いた低い声が鼓膜をくすぐった。


 「突然のご連絡、失礼いたします。スポーツメーカー『マイカー』の開発部です。澪選手に、ぜひご提案したい契約がありまして」


 聞き慣れない社名に眉をひそめる。けれど、男が告げた内容に、心臓が跳ねた。


 ――新開発の競泳水着マーメイド。着用すればタイムは十秒縮まる。ただし、着用は一日三回まで。それ以上は、身体に異変が起こる可能性がある。


 ふざけているのかと思った。けれど、澪の胸の奥で渇いた何かが囁いた。もう、迷っていられない。最後の夢にすがるなら、どんな話でもつかむしかない。


 数日後、手にした新品の《マーメイド》は、ひやりとしたぬめりをまとっていた。滑らかでありながら、どこか生き物の肌のよう。指先が触れるたび、背筋にぞくりとしたものが走る。


 初めて着た瞬間、体が水に溶けるみたいに軽くなった。スタート台の上で深呼吸し、思いきり水に飛び込む。瞬間、全身を水が抱きしめたようだった。水の抵抗が消え、呼吸のたびに体が矢のように前へ進む。


 胸が熱くなる。これなら、もう一度世界に挑めるかもしれない――そう思った。


 壁をタッチして息をついた瞬間、視界に揺れる水面が映った。そこに映る自分の足が、ふいに淡く尾びれの形に歪んで見えた。


 心臓が一瞬、冷たい手でつかまれたみたいに縮む。


 「……気のせい、だよね……」


 誰もいないプールに、私の声だけが響き、静かな水に吸い込まれていった。 


 静まり返った室内プールに、乾いたストップウォッチの音が小さく響いた。天井のライトが水面に反射して揺らぎ、青白い光がプールサイドの壁を踊る。息を切らして壁に手をかけた私、澪は、水面に滴る水の感触と、心臓の鼓動だけを感じていた。


 「……す、すごいぞ、澪!」


 プールサイドでコーチが驚愕の声を上げた。彼はストップウォッチを握りしめ、数字を何度も見返し、目を見開いたまま澪を見た。


 「い、今の……タイムは?」


 息を整えながら声を絞り出す。胸の奥が熱くて、呼吸よりも心臓の音がうるさい。


 「52秒51だ……!」


 その数字を聞いた瞬間、視界が一瞬明るくなるような感覚がした。水滴が頬を滑り落ちる。震える手でゴーグルを外し、プールサイドに仰向けになった。


 かつてオリンピックで銀メダルを獲った澪の種目は100メートルバタフライ。あのときは、ほんのタッチの差で金を逃し、その悔しさがずっと胸に棘のように残っていた。その澪が、練習とはいえ叩き出した52秒51――。


 世界選手権やオリンピックの代表を決める派遣標準記録は57秒34。これは、日本水泳連盟が国際大会に選手を派遣するために必須の基準タイムだ。切れなければ、いくら速くても日本代表にはなれない。澪はその記録を五秒近くも上回っていた。


 しかも、この時点で非公式ながら日本記録の56秒08すら上回っている。世界記録は54秒60。あとわずか二秒弱まで迫ったこの数字は、今後のトレーニング次第で、夢の世界記録更新すら狙えるレベルだ。


 「……信じられない……私、まだ……戦えるんだ……」


 自分でも驚くほど震えた声が、しんとしたプールに溶けていった。塩素の匂いと水の冷たさが、まるで祝福しているみたいに身体にまとわりつく。


 この衝撃的なタイムはすぐに水泳協会に伝わり、やがてスポーツ新聞の見出しを飾った。


 『かつてのマーメイド、奇跡の復活!』


 ロサンゼルス五輪まで、あと半年。水の中で芽生えた熱い希望が、澪の胸を満たしていた。


 オリンピックまで、あと一か月。澪は夢にまで見た五輪の舞台が、もう手の届くところにある。


 オリンピック選考レースで、澪は日本記録を五秒以上も上回る驚愕のタイムを叩き出した。スタート台を蹴った瞬間、水がまるで私を歓迎してくれるように体を包み込み、気がつけば壁をタッチしていた。電光掲示板の数字を見たとき、会場がどよめきに揺れたのを覚えている。


 その日から、私の周囲は騒がしくなった。スポーツ新聞、雑誌、テレビ……取材の申し込みは途切れることがなかった。


 スタジオの明るいライトの下、熱さが売りの元アスリートのキャスターが、私の泳ぎを紹介する番組のコーナーで力説していた。


 「澪さんは、マイカー製の競泳水着が要因の一つだと謙遜されていますが……日本代表チームで正式採用になったこの水着を着ても、他の選手にはほとんど効果が見られません。やはりこれは、本人の並々ならぬ努力の賜物なんです!」


 彼は拳を握りしめ、画面に向かって力強くそう締めくくった。スタジオの拍手が弾ける。テレビの画面越しに自分の笑顔が映るたび、胸の奥がくすぐったくなる。


 けれど、澪は不思議でならなかった。なぜ私だけ、あの水着を着ると水が体を抱きしめ、世界がスローモーションになるような感覚になるのか。他の誰もが経験していないはずの感覚。


 その答えが、胸の奥で小さな波のようにざわめいていた。


 あの日、澪はほんの出来心で、マイカーとの約束を破った。水着マーメイドの着用は一日三回まで。それを知りながら、もう一度だけ、と欲に負けた。


 プールサイドで水に入った瞬間、異変はすぐに起きた。腰から下に、強烈な違和感が走る。水着が皮膚に食い込むように締めつけ、下半身に走るのは激痛。まるで脚の骨がゆっくりとねじられるような痛みに、息が止まった。


 「……っ、く……っ!」


 泳ぐどころではない。体が痙攣し、私は慌ててプールから上がると、シャワー室に駆け込んだ。冷たい床のタイルの感触が足の裏に刺さる。震える手で水着を引き下ろそうとしても、まるで皮膚と一体化したように剥がれない。


 「お願い……は、はがれて……!」


 爪が皮膚に食い込み、痛みで涙がにじむ。数分にも感じる格闘の末、ようやく水着がずるりと外れた。呼吸が荒く、シャワーの水が全身を打つ中で、私は下半身を見下ろした。


 「……な、にこれ……」


 太ももの上からデリケートゾーンにかけて、魚のうろこのような模様が浮かび上がっていた。赤紫色のアザのようで、光が当たると淡く鈍く光る。幸いなことに、普段は水着に隠れる部分で、他の人には絶対に見えない。だけど澪だけが、この異様な痕を知ってしまった。


 心臓が冷たい水に沈んでいくような感覚が、ずっと胸に残った。


 練習を終えた夜、澪はスマホを手に取り、思い切ってマイカー本社に電話をかけた。ずっと胸に引っかかっていた疑問を、どうしても直接ぶつけたかった。


 数回のコールの後、明るい女性の声が耳に届く。


 「お電話ありがとうございます。マイカー本社でございます」


 「……あの、澪と申します。担当の方か、社長さんとお話しできればと思うのですが……」


 女性は丁寧に言葉を選びながら答えた。


 「申し訳ございません。担当者および社長は現在、海外出張中でございます。澪様からのお問い合わせがあったことは、必ず伝えておきます」


 やわらかな対応に、少しだけ緊張が解けた。電話を切ったあと、澪はしばらくスマホを見つめたまま考え込んだ。


 無名のベンチャー企業だったマイカーは、いまや世界的なスポーツメーカーとして注目を集めている。海外展開も積極的で、まさにグローバル企業への階段を駆け上がっている最中だ。私とマイカーの関係は、いまのところ互いに利益をもたらす、いわゆるウィンウィンの関係といえる。


 そんなことを考えていた矢先、スマホが震えた。画面に表示されたのは、見慣れない国際番号――頭の数字は95。ミャンマーからの国際電話だった。


 「……もしかして……」


 通話ボタンを押すと、落ち着いた男性の声が聞こえてきた。


 「澪さん、初めまして。私がマイカーの創立者であり、社長です」


 落ち着いた低い声が、少し遅れて耳に届く。澪は胸の奥にわずかな緊張を抱えながら、簡単な社交辞令を交わした。だが、彼女の心は別の疑問でいっぱいだった。


 「……社長、どうしてあの水着には一日三回までという着用制限があるのですか?」


 短い沈黙の後、社長は穏やかな声で答えた。


 「実は、あの水着に使われているのは、真水に適さない特殊な当社の技術を詰め込んだ繊維なのです。海水なら制限は不要ですが、真水で長時間使用すると皮膚に深刻なダメージを与えてしまう。……ご不便をおかけしますが、必ず着用ルールは守ってください」


 澪の脳裏には、シャワー室で見た魚のうろこのような痕がよみがえる。社長の言葉は、自分の体験を暗に肯定するものだった。


 「……それなら、予備の水着をいただけませんか?」


 社長は少し困ったように笑った。


 「申し訳ありませんが、あの素材は大量生産できません。素材を得るだけでも最低一年はかかるのです」


 「でも、日本代表の公式水着なんですよね? 一着ぐらいは……」


 電話の向こうから、くぐもった笑い声が返る。


 「ここだけの話ですが、他の選手が着ているものは澪さんの《マーメイド》のレプリカです。外見は同じでも、性能はまったく異なります。ですからタイムには影響しないのです」


 澪は息をのみ、唇がわずかに震えた。


 「……どうして、私だけが?」


 「澪さんと私は同じ故郷の出身です。昔からあなたの泳ぎを応援していました。あなたは特別なのですよ」


 社長の声は優しいのに、その言葉は澪の背筋に冷たいものを這わせた。電話の向こう、ガラス越しに見える社長の後ろには、巨大な水槽があった。淡い光の中で、水がゆらめく。その中を、人間の上半身に尾びれをもつ存在が、数体……いや、数匹、ゆったりと漂っていた。


 濁った瞳が、水越しにゆらりと社長を見すえていた。



 オリンピック開会式の前日、ロサンゼルスの空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。選手村の窓から見下ろす街は、夕陽に染まり、どこか非現実的な輝きを帯びている。だが澪の胸は晴れなかった。


 彼女の悩みは、エントリー種目だった。予定しているバタフライの競技は三つ。今大会から正式種目となった50メートル、そして自身の得意とする100メートルバタフライ、さらに200メートルバタフライ。いずれも日程は重ならず、予選二回と決勝一回ずつの計三回泳ぐだけで済む。マイカー製の水着マーメイドを使う回数も、制限の一日三回に収まるはずだった。


 しかし、急遽舞い込んできたのは、日本代表コーチ陣からの打診だった。


 「澪、400メートルリレーのバタフライをお願いできないか」


 名誉なことだ。現状の日本女子水泳チームの力では、リレーはアメリカ、オーストラリアに次ぐ三番手。しかし四番手の中国とは実力が拮抗している。前半種目の競泳でメダルラッシュを狙う日本としては、澪の参加によって金メダルの可能性が見えるのだ。


 だが、リレーの種目日程を確認した瞬間、澪の心臓は冷たく跳ねた。


 リレーは大会5日目。午前中に200メートルバタフライ準決勝、午後に決勝。そしてその直後に400メートルリレー予選が始まり、最終種目としてリレー決勝が行われる。


 一日に泳ぐ回数は四回。


 マイカーとの約束である一日三回の着用制限を、確実に破ることになる。


 ベッドに腰掛け、澪は両手で顔を覆った。窓の外ではアメリカ国旗が風に揺れ、遠くでファンファーレのリハーサル音が響く。世界中が待ち望む舞台に立つ前夜、胸に渦巻くのは栄光への期待と、背筋を冷たく撫でる恐怖だった。


 ロサンゼルス五輪がついに開幕した。真夏の陽射しを受けたプールは、青いガラスのように輝き、スタンドには世界中の観客が詰めかけている。日本中がテレビの前で固唾をのんで見守る中、女子50メートルバタフライ決勝のスタート音が響いた。


 澪の体は、水に溶けるように軽かった。スタート台を蹴った瞬間、水が彼女を抱きしめるように包み込み、世界がスローモーションになったかのようだった。手足の一振りごとに水が裂け、光が弾ける。肺の奥にまで冷たい水の匂いが広がる。


 ゴールタッチの瞬間、澪は掲示板を見上げた。数字を見た途端、心臓が跳ねた。


 23秒57――世界新記録。


 会場が割れるようなどよめきに包まれ、日本応援席からは歓声と旗の波が起こった。オリンピックでの初の金メダルが、今この手に輝いている。


 水から上がった澪は、胸を上下させながらプールサイドに立った。駆け寄ったのは、熱さが売りの元アスリートキャスターだった。


 「素晴らしい! 本当に素晴らしい泳ぎでした!」


 「ありがとうございます!」


 澪は濡れた髪を払いながら笑顔を見せ、全身で喜びを表した。頬に伝う水滴と涙の区別がつかない。


 「澪さん、まずは一つ目の金メダルですね。次は得意の100メートルです。意気込みと、日本で応援している皆さんにひとことお願いします!」


 「はいっ! 全力で泳ぎます! 日本の皆さん、応援ありがとうございます! 次も必ず魅せます!」


 やがて澪は表彰台の一番上に立った。ライトが眩しく、日の丸がゆっくりと上がる。君が代の旋律が会場に満ち、澪の胸に熱が込み上げた。涙が視界を滲ませ、世界が赤と白に染まっていく。


 胸の奥で、決意が炎のように燃え上がる。


 ――100も、200も、必ず取る。そして、400メートルリレーも……。


 割れんばかりの歓声の中、澪は次なる栄光を誰にも負けない強さで誓った。


 ロサンゼルス五輪、水泳女子100メートルバタフライ決勝。会場は立ち見の観客も出る満員のスタンド、世界中が注目する舞台だ。NHKの実況が高揚した声で伝える。


 「さあ、日本の澪選手、レーン4! 昨日の50メートルで世界新記録を樹立した絶好調の澪、得意の100メートルで二つ目の金メダルを狙います!」


 スターターの銃声が響き、8人の選手が一斉に水しぶきを上げた。


 「飛び込みました! スタートはどうか……澪、完璧な飛び込みです! 水面を滑るように進んでいく!」


 水中カメラが捉えた映像では、澪のバタフライキックが鮮やかに光る。しなやかに上下する脚が、水を蹴るたびに白い泡を弾き、まるで水と一体化しているかのようだった。


 「25メートルを通過してトップは澪! 2位のアメリカとの差はすでに半身以上!」


 観客席から大歓声が上がる。NHKの解説者が興奮を抑えきれない。


 「水の抵抗がまったくないようです……まさに水を制している!」


 50メートル折り返し、ターンも完璧! 水中でのバタフライキックが鋭く、白い泡が一直線に弾ける。後半に入っても澪のスピードは落ちない。肩から腕にかけてのしなやかな動きが水面を切り裂き、差はどんどん広がっていく。


 「残り15メートル! 澪、完全に独走! 世界が置き去りです!」


 観客の声が一段と大きくなる中、澪が最後のひとかきで壁をタッチした。電光掲示板に数字が点滅する。


 53秒39――オリンピック新記録!


 「やりました! 澪、金メダルです! 二つ目の金メダルを圧倒的な強さで獲得しました!」


 プールサイドに上がった澪は、両腕を天に掲げ、観客席に向けて笑顔を見せた。スタンドの日本応援団が日の丸を振り、歓喜の声がこだまする。涙が頬を伝うのも気にせず、澪はオリンピックの舞台で、自分が世界最速であることを全身で実感していた。


 そして翌日の200メートルバタフライ決勝。澪は前半から攻めの泳ぎを見せ、ターンのたびに差を広げていく。後半の追い上げにも動じず、逃げ切りのままゴールタッチ。


 電光掲示板には再び一位の数字が輝き、澪は三冠を達成した。日本中が歓喜に沸き、澪はオリンピックで3つの金メダルを胸に抱き、最高の栄光に包まれていた。



 ロサンゼルス五輪、女子200メートルバタフライ決勝。澪は前半から果敢に攻め、後半の追い上げを許さず、見事に逃げ切って金メダル三個目を手にした。プールサイドで掲げる両腕、耳に届く割れんばかりの歓声とフラッシュの嵐――その瞬間、世界は澪の名を称えていた。


 しかし、澪の戦いはまだ終わらなかった。エントリー最後の種目、女子400メートルメドレーリレーが控えている。彼女は第三泳者、バタフライでの出場だ。チームメイトとともに表彰台を目指す、最後の挑戦だった。


 控室の片隅で澪は静かに水着マーメイドを見つめた。ここまでにすでに、マイカーとの約束である一日三回の着用を消化してしまっている。最後のこの一泳ぎで、計四回目となる。背筋を冷たいものが走ったが、それでも迷いはなかった。


 残すはあと一回だけ泳げば、私のオリンピックは終わる――。


 プールに向かう通路を歩きながら、澪は深く息を吐いた。ここさえ結果を出して終われば、未来永劫、澪の名はアスリートとして歴史に刻まれるはずだ。胸に重なる期待と恐怖を抱えながら、彼女は光の差すプールサイドへと歩みを進めた。


 ロサンゼルス五輪、水泳女子400メートルメドレーリレー決勝。プールサイドには熱気が渦巻き、観客席は立ち見で埋め尽くされていた。カメラのフラッシュが光り、遠くで国旗がはためく。澪はスタート台横で深く息を吸い、胸の奥で心臓の鼓動を感じていた。ここまで三冠を達成した彼女の最後の舞台、緊張と興奮と不安が渦巻く。


 NHKの実況が高揚した声で響く。

 「いよいよ女子400メートルメドレーリレー決勝です! 日本はレーン5! 第一泳者は背泳ぎ、第二泳者は平泳ぎ、そして第三泳者に金メダル三冠の澪選手が控えています!」


 スタートのピストルが鳴り、第一泳者が青い水面に飛び込む。水しぶきと共に静かな緊張感が会場を包む。澪は胸の奥で、心のどこかがざわつくのを感じていた。水着マーメイドの生地が肌に冷たく張りつき、無意識に太ももを押さえる。


 第一泳者が必死に泳ぐが、日本はアメリカ、オーストラリア、中国に続く4位でターン。

 「日本は4位! まだ差はわずか、ここからです!」


 第二泳者の平泳ぎにバトンが渡る。水しぶきの中、日本は必死に食らいつくが順位は変わらず。観客席からは応援の声と足踏みの振動が伝わり、澪は耳の奥で自分の心音が重なるのを感じた。


 「さあ、いよいよ第三泳者、バタフライの澪選手です!」


 澪が飛び込む瞬間、水が全身を包み込む。冷たい水の感触が心地よく、体はまるで水に溶けるように軽くなった。ひとかきごとに水が裂け、白い泡が一直線に弾ける。肺に残る酸素が甘く感じられ、視界の端でレーンロープが流れていく。


 「すごい追い上げです! 澪、いっきに中国を抜いた! オーストラリアとの差も縮まる!」


 観客席は総立ちとなり、歓声が雷鳴のように響く。澪は夢中で前へ前へと進み、残り25メートルで2位に浮上。トップのアメリカが目前に迫る。その瞬間、胸の奥がひやりと凍った。



 澪が第三泳者として飛び込んだ瞬間、水は冷たく、甘く、まるで体を優しく抱き込むように絡みついた。青白いライトがプールの底を照らし、無数の気泡が澪の身体を縁取る。最初の数ストロークは快感すら伴う滑らかさだった。だが、その心地よさは唐突に悪夢へと変わる。


 数ストローク目で、両足の感覚がすっと消えた。筋肉が硬直し、次の瞬間、膝から下がぬるりと貼りつくように一体化していく。皮膚の内側で何かが這い回る感触。肉の下で小さな生き物が暴れているようで、思わず口の中に鉄の味が広がった。銀色の鱗がぶくぶくと浮き出て、水にぬめりを残しながら滑っていく。足の指の間は薄い膜が張り、左右の足は吸い寄せられるようにぴたりと閉じて、やがて一枚の尾へと変わった。


 腰から下は完全に魚の尾。尾ひれを振るたび、鱗が水の中で光を弾く。その付け根には血のような赤い筋が浮かび、水にじわりと溶けていった。尾ひれの動きに合わせて生臭い匂いが鼻の奥に届き、胃の底から吐き気が込み上げる。


 悪寒が背中を駆け上がり、首筋の皮膚がぶよりと弛み、皺が次々と浮き上がる。頬はこけ、唇はひきつるように下がり、口角が裂ける感覚とともに、歯茎がむき出しになった。水に揺れる自分の顔が視界に映る。眼球は白く濁り、眼窩の奥でぐらぐらと揺れているように感じる。瞳孔が収縮するたび、水中に差し込む光が異様に眩しかった。


 髪は一気に色を失い、灰色から白へと変わり、水中にふわりと広がった。まるで腐った海藻がゆらめくような、重く湿った存在感。肩の肉はみるみるうちに痩せ、腕は骨ばって突き出し、関節がぎくりと軋んだ。肘を曲げるたびに骨と腱が擦れる感覚が生々しく、指先はひしゃげた鉤爪のように湾曲した。


 澪の姿はもはや若きアスリートではない。水中に浮かぶのは、気色の悪い老婆の人形のような異形。ぬめりに覆われた皮膚からは小さな気泡が連なって立ちのぼり、その周囲の水に血と鉄の匂いが溶けていく。水中で立ち上る微細な赤色が光に照らされ、青白い水と混ざり合って不気味な色彩を生んだ。


 水面越しに差し込むライトが、醜悪な変貌をゆらゆらと照らし出す。耳に届くのは、心臓の鈍く重い鼓動と、骨の中を這うような低い唸り声だけだった。澪の口から泡が漏れ、空気が消えるたびに、己が人ではなくなっていく恐怖と快感が、冷たい水の底で絡み合った。


 水中カメラが捉えた映像に、観客の歓声がざわめきへ変わる。澪の両足が水中でゆっくりとくっつき、銀色に光る尾ひれに変わった。太ももから下はうろこに覆われ、冷たい光を放つ。腰から上は、ふと視界の端で自分の腕が白くしわがれ、髪が水中で白銀に漂うのが見えた。


 「……あっ、澪選手に異変が……!」

 実況の声が震え、会場全体が息を呑む。


 水面下で尾ひれを震わせる澪は、もう人ではなかった。歓声も拍手も遠のき、聞こえるのは水の流れる音と、自分の心臓の冷たい鼓動だけだった。


 女子400メートルメドレーリレー決勝は、混乱と恐怖の中で進んでいった。水面は荒れ、ライトの光が波に砕けて乱反射する。順位はそのまま、一位アメリカ、二位オーストラリア、三位中国。日本は無情にも失格となった。観客席では悲鳴と怒号が飛び交い、誰もが何が起こっているのか理解できず、顔を引きつらせていた。


 各国の選手たちは、レースが終わった瞬間に余韻を味わう間もなく、恐怖に突き動かされるようにプールサイドへと逃げた。濡れた手で必死に縁を掴み、息を荒く吐きながら、後ろを振り返ることもできない。水面からは、もう人間ではないものが高速で泳ぎ回る音が響き、背筋を凍らせる。


 50メートルの競泳プールの中で、かつて澪だったものが、信じられないスピードで泳ぎまわっていた。尾ひれが水を裂き、銀色の鱗がライトを反射しながら、青い水を不気味に染める。濁った瞳が水中でギラリと光り、観客の視線を一瞬で凍りつかせる。耳には水を切る鋭い音と、低く唸るような水中の共鳴音が混ざり、まるでプール全体が怪物の体内になったかのようだった。


 そのとき、澪の心に直接、しゃがれた声が響いた。水中から泡立つように、低く冷たい音が押し寄せる。


 ――お前は、真水では生きられない……


 胸の奥まで冷えるような声が続く。


 「ざまぁーみろ……」


 その言葉を聞いた瞬間、澪の心は絶望と本能的な恐怖に支配された。次の瞬間、皮膚が音もなく剥がれはじめた。肩から腕にかけて皮膚がめくれ、赤黒い肉が水中にさらされる。脇腹の肉も裂け、そこから白い骨が覗き、血の混じった泡がぷくぷくと浮かぶ。水中にはぬるりとした感触が広がり、視界の端で自分の内臓がゆっくりと漂っていくのが見えた。


 赤い血が水に広がると、プールの透明さは失われ、深い青が暗く濁っていく。ライトに照らされた血の帯がゆらめき、観客席の誰もが声を失った。


 呼吸も意識も曖昧になり、澪は自分の体が泡立つように溶けていくのをはっきりと感じた。皮膚の下から黒い泡が次々に生まれ、破裂するたびに鉄錆と腐臭の混じった匂いが鼻を突く。泡は水面に浮かび、弾けると小さな破裂音を残して消えた。


 やがて、プールの中には何も残らなかった。澪の姿は跡形もなく消え、ただ汚れた黒い泡だけが静かに弾け続けた。阿鼻叫喚の会場には、恐怖と重苦しい沈黙だけが取り残されていた。


 後に国際オリンピック委員会の調査委員会が、この前代未聞の出来事を徹底的に調査した。

 しかし、結論はあまりにも簡潔だった。


 「選手一名が競技中に消えた」


 それだけである。

 目撃証言は錯綜し、映像には水しぶきと異様な影だけが残っていた。原因も理由も特定できず、事故として処理されたが、公式発表は世界中に不気味な印象を残した。


 その後ほどなくして、マイカー社長が滞在先のミャンマーで行方不明となった。

 会社は支える者を失い、急速に経営が悪化し、やがて倒産した。

 世界を席巻した競泳水着マーメイドは、歴史から姿を消した。


 ゴシップ週刊誌は、この事件と社長の経歴を執拗に追いかけた。

 やがて、社長と澪の出身地が同じ日本海沿いの小さな漁村であることが判明する。

 しかし、それ以上の事実を知る者はいなかった。

 漁村は静かに波音だけを響かせ、外部の取材陣はやがて姿を消した。


 ――海はすべてを呑み込み、何事もなかったかのように揺れていた。



 日本海沿いの小さな漁村。澪とマイカー社長の生まれ故郷は、海と山に囲まれた忘れられた場所だった。今も漁港には小舟が並び、冬になると冷たい潮風が家々の壁を叩く。静かな波の音の奥に、古くからの伝承が息づいていた。


 ――夜の海には絶対に近づくな。この村は、水の神に嫌われている。


 幼い頃、澪もこの言葉を祖母から聞かされて育った。だが、その由来を知る者はほとんどいなかった。わずかに残る古文書と、年寄りたちの囁きだけが、過去の出来事を語っていた。


 明治末期、この漁村の網にかかった一匹の人魚。上半身は年老いた人間の女、下半身は銀色の魚。哀れな声で命乞いをしたが、村人たちはその肉と血に手を伸ばした。人魚を食べれば家は栄え、血を飲めば不老不死になる――そう伝えられていたからだ。


 しかし、人魚は死の間際に呪いの言葉を吐いた。


 ――おまえたちを、子々孫々まで呪ってやる……


 その日を境に、村では不思議な出来事が続いた。赤子の奇形、夜の海での不気味なうめき声、そして若者が海に引き込まれる事件。村は沈黙を守り、海の祟りとして恐れられるだけになった。


 時は流れ、オリンピックの栄光に挑んだ澪は、その血筋を知らぬまま世界の舞台に立った。だが、真水のプールでの栄光は、海に縁取られた呪いの血を呼び覚ましたのだ。


 あの日、世界が見守る中で消えた選手の姿を、村の古老たちはテレビ越しに静かに見ていた。誰も言葉を発さなかった。ただ一人、白髪の老婆がぽつりと呟いた。


 「……帰ってきたんだよ。海は忘れないからね」


 その夜、村の海岸では、月明かりに照らされた波間に白い髪が一瞬だけ揺れたという。だが翌朝には何もなく、ただ冷たい潮風と、絶え間ない波の音だけが残っていた。


 それ以来、村人たちは夜の海に近づくことはない。港には今も、古びた木の看板が立っている。


 ――夜の海に近づくな。この村は、水の神に嫌われている。


【了】

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