31話「シュタイン邸で迎えた朝。気づきそうで気づかない思い」
目を覚ますと……見慣れぬ天井が視界に入った。
僕はゆっくりと体を起こし、部屋の中を見回す。
青いカーテンの隙間から朝日が漏れている。
シンプルだけど落ち着ける水色の壁紙。
飾り気のない家具やテーブル。
「そうか……ここはお城じゃないんだ……」
頭ではシュタイン邸に来たことを理解していたはずだ。
だけどお城の自室で過ごした記憶が、僕の中にまだ残っているみたいだ。
だから目覚めたとき、天井の色や壁紙のデザインに違和感を覚えたんだ。
ここで慣れるまでは、そういうこともあるだろう。
「この屋敷にも、この部屋にも、ここでの生活にも、早く慣れないとな……」
ベッドから出ようとして、自分が見慣れない生成りのパジャマを着ていることに気づいた。
ヴォルフリック兄様が着替えさせてくれたのかな?
僕は昨日のことを思い返してみた。
昨日はフェルスの町に到着して、
シュタイン邸で使用人に挨拶して、
農民が精霊の森を開拓しようとして、それを止めて、
それから精霊に謝りに行って、
Bのルーン文字と白樺の枝を貰って、
それを死の荒野に植えたんだった。
……ちょっと一日で色々起こり過ぎだよ。
なので僕が、死の荒野からの帰り馬車で寝てしまっても仕方ない。
ゆったりと湯船に浸かって、旅の疲れを癒やしたかったのになぁ……。
それから、兄様と添い寝したかった……。
「そう言えば兄様は?」
ベッドの上に兄様の姿はなかった。
もしかして、馬車で寝てしまった僕を彼が部屋まで運んでくれたのかな?
だとしたら彼にお礼を言わなくちゃ。
ベッドから起き上がり、兄様の姿を探す。
兄様は昨日どこで寝たんだろう?
部屋で寝れる場所は、床かソファーしかない。
僕の予想した通り、兄様はソファーの上にいた。
ソファーは長めに作られているけど、兄様は体が大きいから窮屈そうだ。
「僕の隣で寝てもよかっのに」
兄様が牢屋から出た日、彼は僕と同じベッドで寝ていた。
シュタイン侯爵領に着いたら添い寝したいって言ってたのに、なんで一人で窮屈なソファーで寝てるんだろう?
あれ、兄様が言ったのは添い寝じゃなくて共寝だったかな?
うーん、どっちだっけ??
「兄様の寝顔を見るのは、久しぶりです」
僕はソファーに近づき、彼の寝顔をのぞき込んだ。
兄様の寝顔を見るのは、国王に謁見した日以来だ。
同じ部屋で寝起きしてるけど、兄様とベッドは別々だし、
夜は僕が先に寝ちゃうし、朝は彼の方が先に起きるから、
彼の寝顔を見る機会がなかったのだ。
僕は彼の寝顔をしげしげと見つめた。
こんな機会滅多にないからじっくりと観察しちゃおう。
彼の切れ長な目は今は閉じられている。
彼の顔のパーツは一つ一つが洗練されていた。
その一つ一つがバランスよく配置されている。
神様に愛されて造形された顔って……こういう人のことを言うんだろうな。
彼の寝顔にしばし見とれていた。
兄様の寝顔を見てたらキスしたくなっちゃった。
いやいや、それは流石に駄目だろ。
兄様が僕に口づけするのは、僕の魔力を奪ってしまった罪悪感からで、人工呼吸みたいなものなんだから……。
でも……指の先だけ、ちょっとだけ触れるだけならいいかな?
「兄様……」
僕は指を伸ばし、彼の形の良い唇に触れた。
指の先が兄様の唇に触れた瞬間、僕の心臓がドキンと音を立てた。
この唇に、僕は毎日口づけをされているんだよね……。
そのとき、不意に僕の手が掴まれた。
僕はそのまま手を引かれ、兄様の胸にダイブしてしまった。
「おはよう、エアネスト。
そなたから誘ってくれるとは……嬉しいぞ」
「兄様、いつから起きていらしたのですか……!?」
彼の寝顔を観察していたのがバレちゃったかな?
僕はいたずらが知られたときの子供のような、いたたまれない気持ちになった。
「今、起きたところだ」
兄様の寝起きの低音ボイスもセクシーで、思わず聞き惚れてしまう。
今起きたということは、僕が兄様の寝顔を観察していたことはバレてないみたいだ。
「唇に何か触れる感触があったので目が覚めた」
兄様の唇を指で撫でたのがバレてる!
「ち、違うんです!
あれは別に変な意味ではなくて……!
兄様の顔に埃がついていたから払おうと……」
ううっ……言い訳が苦しすぎる。
「私は別にそなたから、口づけしてくれてもよかったのだが」
「できません!
そんなこと……!」
「そうか?
最初に私の唇を奪ったのはそなただろう?」
「それは……そうなんですが。
あのときは兄様を救おうと必死で……。
それにあれは人工呼吸みたいなもので……」
「なら、今日はそなたからしてくれるか?」
「そ、そそそ……そんなこと!
無理です!」
兄様が僕にキスするのは、ダメ元で僕に魔力を返そうとしてるからで。
僕はそれを断れなくて……。
でも、僕から兄様にキスしてしまったら……そんな言い訳が出来なくなる。
言い訳……?
僕は何を言い訳しようとしてるんだろう……?
兄様に対して、兄弟愛とは違う特別な感情がある気がする。
でも……それが何かわからない。
兄様は僕にとって……どんな存在なんだろう。
「では、エアネストからのキスは次の機会に取っておこう」
兄様はそう言って、僕の唇に口づけを落とした。
僕が彼とのキスを拒めない理由がわかれば、兄様が僕にとってどんな存在かわかる気がするのにな。
◇◇◇◇◇
長いキスのあと、兄様が唇を離した。
「エアネスト、いまから共寝をしないか?」
「兄様、長旅でお疲れなのですか?
ソファーでは疲れが取れなかったでしょう。
僕は昨日十分休みました。
兄様がベッドを使ってください」
彼は僕と違って、山賊やモンスターと戦ったり、宿屋でも賊を警戒していた。
兄様は、僕以上に疲れているはずだ。
今日ぐらい二度寝しても許されるはず。
「いや……一人で寝ても意味はなくてだな……」
誰かと一緒に寝たいのかな?
兄様ってば、意外と寂しがりやだな。
「そなたと一緒に寝たい」
「なら、夜まで我慢してください。
町の視察もしたいですし、
町の人から暮らしぶりを聞きたいですし、
カールから書類仕事を教えてもらいたいし、
それから領地の特産品を考えたいですし」
新米領主の僕は多忙なのだ。
「それは明日にして、今日は一日私と共に過ごさないか?」
兄様のお誘いは嬉しい。
だけど、領民は僕を頼りにしてくれてる。
そらに僕は昨日領民の前で「僕がなんとかする!」と見栄を切ってしまった。
だらけてはいられない。
「ごめんなさい兄様。
お誘いは嬉しいのですが、僕を頼りにしてくれる民の声に答えたいのです」
「そうだな。
そなたならそう言うと思った」
兄様は少し残念そうだった。
「夜は一緒に過ごしましょう。
今日こそはゆっくりとお風呂に浸かりたいです。
あっ……」
「どうしたエアネスト?」
「僕……昨日お風呂に入ってないです。
汗臭くないですか?」
歯磨きもしてない、お風呂も入らないで寝たのに……兄様とハグとキスしてしまった……!
「案ずるな。
そなたをベッドに寝かせる前に、体を清潔に保つ魔法をかけた」
「そうだったのですね。
ありがとうございます」
よかった……!
兄様に臭いと思われたら嫌だ!
「私はそなたの汗の匂いも好きだが」
そんなこと言わないで下さい。
僕は兄様の前では身綺麗にしていたいのに。
だって僕は兄様のことが……。
兄様のことが……僕はこのあとなんて言おうとしたんだろ??
なんで、兄様の前では身綺麗にしていたいんだろう?
うーん、わからない。
まぁいいか。
そのうち、わかるだろう。
「昨日、馬車で寝てしまった僕を、部屋まで運んでくれたのは兄様ですよね?」
「ああ、そなたは疲れていたようだったからな。
私が部屋まで運んだ」
「僕の着替えも兄様が?」
「無論だ。
エアネストに触れていいのは私だけだ」
「兄様、ありがとうございます。
僕はあなたに頼ってばかりですね」
「私はその為に存在しているんだ。
いくらでも頼ってくれ」
「はい、ありがとうございます。
僕、兄様の弟でよかった」
「私は……そなたを弟として見ていない」
「えっ……?」
「そなたは、私の……」
兄様が愛しそうに僕を見つめ、僕の髪を撫でた。
僕は兄様の何なの?
彼に見つめられると、胸がドキドキする。
兄様の言葉の続きを聞きたいような、聞くのが怖いような……。
その時。
ドンドンドンドン……!
と、ドアが力強くたたかれた。
昨日、カールが農民たちが精霊の森を開拓しようとしていることを、知らせに来た時よりも激しい叩き方だった。
シュタイン侯爵領内で何かあったのは明白。
また農民達が精霊の森を開拓しようとしているとか?
それとも死の荒野のモンスターが町に攻めてきたとか?
悪い想像ばかりしてしまう。
「兄様、ドアを開けてもいいですか?
ドアの叩き方が尋常ではありません!
きっと、領内で何かあったんです!」
兄様が短く息を吐いた。
「またか……。
いつもいつも……。
間が悪い……」
兄様は眉間に皺を寄せソファーから起き上がると、ドアまで歩いた。
僕も兄様の後に続く。
「誰だ?
なんのようだ?
手短に話せ」
兄様が煩わし気に問う。
「家令のカールでございます!
お休みのところ失礼いたします!
急用がございます!
恐れ入りますが、ドアをお開けいただけますか?」
ドアの外にいたのはカールだった。
口調から察するに、彼は随分焦っているようだ。
やっぱり領地に何かあったんだ。
「わかった。今ドアを開ける」
兄様がドアを開けると、そこには額に汗を浮かべたカールがいた。
もしかして彼はここまで走って来たのかな?
それほどの急用ってなんだろう?
「死の荒野が……!
とにかく大変なことになっています!
今すぐ死の荒野に向かってください」
そこで何かあったことは確かだ。
「わかった!
準備ができたら一階に下りるね。
カールは玄関に馬車をつけて待ってて!」
「承知いたしました」
「エアネストが行くなら、私も行こう」
兄様が一緒に来てくれるなら心強い。
「お二人のお着替えのお手伝いは……」
「それは兄様がしてくれるから大丈夫!
カールは先に一階に下りて」
「承知いたしました。
速やかに馬車の用意を致します」
僕は一度ドアを閉めた。
兄様に着替えを手伝ってもらってるなんて、カールに変に思われたかな?
今はそんなことを考えてる場合じゃない!
急いで身支度をしないと!
「まさかシュタイン侯爵領に着いてからも、お預けを食らわされるとはな……。
昨夜もイチャイチャできず、朝もイチャイチャできないとは……」
兄様がそう言って深く息を吐いた。
最後の方はよく聞こえなかったな。
お茶漬けとか、クラムチャウダーとか、コーンチャウダーとかが聞こえた気がする。
「兄様はもしかして、お腹が空いているのですか?」
お預けとか、お茶漬けとか、言ってたし、きっとそうに違いない。
実をいうと、僕もお腹が空いてる。
昨夜は何も食べずに寝てしまったし、朝食もまだ食べてない。
彼も、もしかしてご飯を食べずに寝てしまったのかもしれない?
「実は僕も空腹なんです!
カールに馬車の中で食べられる軽食を用意させますね」
「そういう意味で言ったのではないのだが……」
カールにクッキーとか、マフィンとかすぐに食べられる物をバスケットに詰めて貰おう。
出来れば甘い系の食べ物より、サンドイッチなどのしょっぱい系が食べたいけど、贅沢は言ってられない。
「エアネスト、要件は日のあるうちに片付けてしまおう。
今夜は必ず私と共寝してくれ」
「はい、兄様」
死の荒野で何が起きたか、速やかに調査しよう。
それが終わったら、他の仕事を片付けてしまおう。
僕だって夜はゆっくりとお風呂に入りたいし、ベッドで休みたい。
いっぱい働くなら、ご飯とお風呂と睡眠は大事だよね!
◇◇◇◇◇
準備を終えた僕達は、死の荒野に向かう為に馬車に乗り込んだ。
御者は昨日と同じく、ハンクとルーカス。
今日はカールも御者席に乗っている。
客席には僕と兄様だけだ。
僕の膝の上には、カールが用意してくれたバスケットが乗っている。
彼は僕が何も言わなくても、軽食と紅茶の入った水筒を用意していてくれた。
彼もアデリーノに負けないぐらい、仕事と気遣いが出来る。
「兄様、お腹がすいているのでしょう?
なにか召し上がりますか?」
実はバスケットを見た瞬間から、中身が気になっていたのだ。
兄様はバスケットを一瞥し、「今はそんな気分ではない」と言って視線を逸らした。
「私が食べたいのはエアネスト……。
またお預け……。
今宵こそは……」
兄様がボソボソと独り言を言っている。
「エアネストから花のような甘い香りがする……だが、今は我慢だ!」
僕から甘い香りがするの?
バスケットに入ってる、クッキーやフルーツの匂いのことを言っているに違いない。
きっと、兄様は死の荒野で何が起きたか気がかりで、食事も喉を通らないのだろう。
兄様が食べないのに、僕だけバクバク食べる訳にはいかない。
彼が我慢するのなら、僕も死の荒野の調査が終わるまで食事は我慢しよう。
それにしても……。
バスケットからクッキーの甘い香りがする……!
バスケットから新鮮なパンとハムとチーズの香りがする……!
バスケットからマフィンのシナモンの香りがする……!
だけど……今は我慢、我慢、我慢、我慢、我慢……!!
読んで下さりありがとうございます。
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