愛情を享けなかった娘は誰にも心を許さない
聖女プリシラは虐待家庭に生まれた。
物心ついた時には既に家族の奴隷のような立ち位置であり、無駄飯喰らいを養っているのだからと朝から晩までずっと家事をさせられるのはもちろんのこと。
苛立つことがあれば暴力を振るわれることもしばしばで、暴言は毎日雨あられと与えられた。
そんなプリシラが八歳の時に聖女としての証を得た時。
家族は目を疑ったが、ならば金になるだろうと教会に売り飛ばすために彼女を引きずっていった。
プリシラはその日熱があった。
息も絶え絶え、昏倒している彼女を地面に這いつくばらせたまま
「聖女ですよ!いくらで買い取ってくれますか!?」
などと申し出た家族は即座に捕縛され、そのまま問答無用で牢獄へと繋がれた。
瀕死の状態にしか見えないプリシラは丁寧に看病されたが、彼女は決して誰にも弱音を言うでもなく、食事でさえ忠告を聞かず丸飲みするようにして口にした。
手負いの獣のような有様に、彼女の養育状況はどうだったのかを「尋問」とあわせて調査した大神殿は、これでは聖女はまともに育つまいと天を仰ぐ他なかった。
この手の子供の養育は大変難しい。
大人や強者に異様に従順だが内心では仄暗い感情を抱えている存在へ育つことが殆どで。
どれだけ周囲が真綿でくるんであげても、基本的に矯正できない。
自分とは違う幸福な環境で育った子供を見れば底のない妬ましさを抱き、そう思う自分を憎み、とにかくマイナスの感情に満ち溢れた心と一生向き合わなくてはいけない。
神殿長は、彼女には繊細な細工物を扱うつもりで接し、可能な限り刺激せぬよう、隅々にまで命じた。
聖女は儀式的な祈りをすることにより国の結界を保ち、豊穣を約束する存在である。
聖女が死して十年ほどは結界も保たれ、豊穣も続くが、それは次世代の聖女が祈りをささげるまでの繋ぎの時間でしかない。
結界に守られねば荒ぶる魔物はすぐさま国を襲うだろう。
他の国には同じく聖女がいて結界があって入れぬ以上、隙を見せた個所に襲い掛かるのは当然のことなのだから。
プリシラに与えられたのは、儀式で祈るための教育だった。
祈りの聖句を毎日少しずつ暗唱させられる。
意味など分からなくても、そのように唱えればよい。
そうして二分ほど続く聖句を覚えたら、祈りの仕草。
これはほんのわずかな身動きなので、一日で終わった。
そうしたらあとは毎日昼頃に祈りの間に向かい、祈り、部屋に戻るのみ。
プリシラが退屈しないようにと、読み書きを教わり、その後は娯楽本を山ほど与えられた。
最初は絵本を。その次は少年少女の好む冒険譚を。次には恋愛本を。
プリシラの瞳に輝きがあればどんな本の、どんな傾向を好むのか分かったが、彼女はただ薄く淀んだ瞳で文字を追う。
そんなプリシラを、王家は狙っていた。
だから同い年の王子を送り込み、王子の箔付けに使おうとしたのだ。
聖女は処女である必要はない。
ただ、毎日祈ればそれでいい。
既婚者であろうと、子持ちになろうと、それは変わらない。
だから。
聖女というラベリングがされたプリシラを手に入れようとして。
失敗したのだ。
プリシラは基本的には獰猛である。
己と同い年くらいの子供で、艶々とした髪で、汚れひとつない肌で、煌めく瞳を持ち、闊達そうな王子は、憎悪と羨望を胸の奥底から引きずり出す存在だった。
そうしてプリシラが煮詰まった感情を抱いた瞬間、王子は喉からせりあがる熱い何かに困惑し――溺れた。
げぽり、と、唇の端から伝ったのは赤い血潮。
喉の中心を占める血液の塊。飲み下しても飲み下しても、肺に落ちていくばかりで。
酸素を求め喉をひっかく王子は、結局助からなかった。
その場には神官もいた。
プリシラが昏く淀んだ瞳で王子を見た瞬間、王子が苦しみだしたという事しか証言できなかった。
王家は呪われた魔女ではないのかというが、プリシラの額に薄く輝く聖女の紋章がそれを否定する。
神殿長は、
「神の力を一筋頂いて生まれるのが聖女です。
その聖女が感情を暴発させてしまうことは稀にある話。
彼女の境遇はご報告いたしましたぞ?
ですから放っておいてくださいと。
それを己から近付いて喰われたとて、我々は「だろうな」としか申せませぬ」
と返した。
その上聖女を殺すと大抵は結界が崩壊し国が亡ぶのだ。
次の聖女も生まれず殺した次の瞬間結界が消え失せ、挙句魔物が押し寄せてくるとあらば、国が保てるわけもない。
歴史上、いくつかの国がそうして消えていった。
地図上にある、国同士の間にある小さな点のような土地がそうだ。
領土として迎えようにも結界の外に出れば魔物と戦わなくてはならないし、そうまでして得た土地を結界が包んでくれるかも不明だしで、長く放置されている。
そんな土地になってまでして王子を迂闊に押し込んだ罪を聖女に擦り付けたいならご自由に、というのが大神殿としての考えである。
結果。
神殿の人間は死んでいないこともあって、聖女の琴線に引っかかる存在だった王子に落ち度があったとして、王家はなんとか納得する他がなかった。
我が子は可愛いが、しかしここで聖女を殺せば自分さえ死ぬとわかっている。
さすがに我が身のほうが可愛い。
それが結論だった。
大神殿も、それまでのように、老いた神官だけを聖女の傍に行かせた。
親や兄姉のような年代は、きっと殺意が出てしまうだろうとわかっていた。
家には老人がいなかったことは調査で知っているし、老人たちが彼女を虐げた痕跡もなかったことから、老いたものなら安全だろうと踏んだのだ。
結果として死者は出ていない。
今日も聖女はただ黙々と本を読み、祈り、眠る。
時たま、聖女に会いたいという申し入れがあるが、プリシラの意向など聞く理由もない。全て拒否している。
聖女は人嫌いである。
公にはそのように宣言し、たとい裏金を積んで出会ったとしても、彼女の好意を与えられはしないことを明言した。
――命が危ういとまでは誰も言わない。
ある時、老女の神官を、プリシラが呼び止めた。
この本の続きはないのか、と。
初めての質問に、神官は、急ぎ探させます、と答え、プリシラの所望する本の続刊をあるだけ揃えて持ち込んだ。
それから、時たまプリシラは言葉を投げかけるようになった。
しかしそれも長くは続かなかった。
プリシラは、血の病を得た。
貧血をより酷くしたような病で、現在治る見込みはないとされている。
祈りの間へ行くときはいくらか若いがプリシラを刺激しない外見の男性神官が背負っていき、帰りもそうした。
与えられる食事は滋養にいいものを汁物にし、パンも可能な限り柔らかく焼いて。
それでも一年と持たずに最期の夜を迎えたプリシラに、老女の神官は己の命が今夜消えてもいいという覚悟で付き添った。
「ねぇ」
「なんでしょう、聖女様」
「聖女じゃなくて」
「……プリシラ様」
「あたま、撫でて」
そっと、昔と違って艶々とした髪を愛おしむように撫でる。
プリシラは細く長く息を吐き、そうして儚くなった。
その後。
その国には聖女が生まれなくなった。
しかし結界は揺るがず、豊穣もまた崩れない。
最後の聖女プリシラの力が国を支えているのだと大神殿は発表し、プリシラの像を作り祀った。
その瞳は赤く、少し淀んだルビーで作られている。
大神殿では、プリシラ像を作る時は、決して澄んだルビーを使わぬようにと代々申し送られることになった。