八
『それ』は、いつも上ばかりを見つめていた。
どれだけ手を伸ばしてもいっこうに届くことはなく、ただこの世界を覆う天蓋を眺めることしか出来ず、じっとそこから差し込まれる一筋の光をどうすれば捉えられるのかを考える毎日。
空は常に薄闇を掃いた色合いをしており、たった一カ所だけ穴が開いたように光が差し込む場所。
行ってみたいと思いながらも、そこに行くためには数々の難所をくぐり抜けねばならないことが分かっていた。
常に死が隣り合わせとなっている世界。
強き者だけが生き残ることを許された、弱肉強食を地で行く場所。
生き延びる為ならば、どんな手段を講じてもいっこうにかまわない所。
自分が暮らす世界はそんな物騒な空気にいつも溢れていた。
そんな中で差し込む鮮やかで目映い光。そこは、他界に通じる『ゲート』と呼ばれており、『聖地』に通じる穴として、この世界に住む大半の者達の羨望と密やかな野望を集めていた。
この世界から抜け出した他の『世界』には、ここにはないものばかりが溢れかえっており、餓えることもなく『平和』という信じられない光景が広がっているらしいと聞いたことがある。
この世界のように己のテリトリーを巡っての戦いもなく、倒した敵を喰うことなどもない世界があるなど、最初の頃は全くといって良いほどに『それ』には信じられなかった。
だが、一度だけ上に昇ったことのあるモノを貪った時、持ち合わせていた記憶から垣間見た世界は、『それ』に憧れを抱かせるには充分なモノであった。
最もこの世界に近い『人間界』の住人達は、ここに暮らすモノ達より脆弱な種族であるにも関わらず、その身体から放たれる雰囲気は『それ』を魅了するには充分すぎるほどの代物であったのだから。
闇と光が綺麗に混在しており、『それ』と同類に属するモノや、自分とは属性の違う『天上人』と呼ばれる『天界』の住人達もが暮らす世界。
記憶から呼び込まれるそれらの情景は、まるで夢を見ているようなものばかりが揃っており、いたく『それ』の心に残った。
喰うに困ることもなく、自分の食指と好奇心を刺激してやまぬモノばかりがそろった場所。
行ってみたい、と思った。
その場所に立ち、思う存分その世界に浸ってみたい、と。
今はまだ無理だが、この世界でそれだけの力を手に入れる事が出来れば、間違いなく自分もここから出ることが出来るのだ。
『ゲート』は一つではない。現にあの光を通らずに行き来できるモノ達がいることも知った以上、それを実行しない手はないだろう。
その為に、『それ』は自分のテリトリーを広げつつ、着実に力をつけていく方法をとりながら時機を待っていた。
正式ではないにしろ、『ゲート』が僅かに開くその時を。
元来戦うことが食事との関係にも連なっている『それ』にとって、戦闘は大切な儀式の一つといえた。
それはこの世界に生きるモノ達に限っていえることかもしれない。
戦闘はこの世界にいる種族の本能であり、何をするにしても第一優先で行われなければならないものなのだから。
その性質故に、ここの住人や他界の住人達には、この世界を『魔界』と呼ばれせることになっているといっても良いだろう。
ザクリと掌に肉が食い込む感触が伝わる。
大きく眼を見開き、胸に開いた穴をゆっくりと見下ろした後、ドウッ、と大地に倒れた敵の姿を、『それ』は何の感慨もなく見下ろした。
目の前に転がる屍を無造作に掴みあげ、『それ』はその腕を引きちぎると、迷わず血まみれの肉塊を口へと運ぶ。
肉の一塊、血の一滴が『それ』の持つ本来の力と、殺したモノから得た知識がまたしても大きくなっていくのが分かり、『それ』はクツリと喉を鳴らした。
「もうすぐだ」
そう呟き、『それ』は空を見上げる。
薄く浮かび上がる大きな二つの月と、他界の景色が薄ぼんやりと見える天上に、自然と口の端に笑みが刻み込まれた。
もうすぐ、この世界を出て新たな世界に君臨する。
次元の裂け目を見つけて数ヶ月。
すぐさま駆けつけたい衝動を抑えつけ、『人間界』が一体どのようなところなのかの情報を収集するのにかなり手間取ってしまったが、もう間もなく自分はそちらへと足を踏み入れることが出来るのだ。
気がかりがないというわけではない。
情報を集めるにあたり、芳しくない噂話がいくつか自分の耳にも届いている。その存在が邪魔になるであろうことは、その話しを聞く限り簡単に予想が出来た。
最もその『連中』など簡単にひねり潰すだけの自信はあるのだから、それほど気にかける必要性もないだろう。
それだけの力を、『それ』は今持っているのだから。
手の平に付着した黒々とした血潮を舐めとりながら、『それ』は心底楽しそうに笑い始める。
今まで食していた腕を投げ捨てれば、それを目指して配下となったモノ達が群がって来る。バリバリと骨を食む音が響きわたり、『それ』は軽く醜い姿を露わにする存在を一瞥した。
連れて歩くには邪魔にしかならぬモノ達だが、使い道はいくらでもある。
行く手を阻むであろう『連中』のことを考えてみれば、集めた情報の中で『それ』と同族もいるらしいと聞き及んでいる。
正体は今だに五里霧中と言っても良いのだが、相当のやり手もいるのだと噂は語っているのだし、その連中相手にこいつ等を捨て駒としてぶつけておけば、少なくとも身を守るには充分な働き手として連れて行ってやっても良いだろう。
目眩ましと、その実力を計るのに都合の良い存在。
『それ』にとって配下とは、その程度にしか認識されないモノ達だ。
「人間界か」
クツクツと喉が鳴る。
これから先に行われるであろう饗宴と、己の楽しみの一つである狩りを同時に楽しめる稀有な場所。
見上げた空がゆらりと揺れたように思え、それは更に楽しそうに笑いだした。