七
その頃、北斗の頭痛のタネである里留といえば……。
北斗の心持ちなど欠片も考えることなどなく、ゆったりとした歩調で第二校舎内を進んでいた。
思っていた以上の静けさに溢れた校舎内に、里留はほっとしたように肩の力を抜く。
誰の気配もない。それどころか、今の所は、と限定は出来るが、生徒達にも巡回の教師にも出会っていないのは、この場合運が良いといえるだろう。
もしも誰かに出逢ったとすれば、まず間違えなくいろいろと詮索されるのがオチだ。そんな雑事に構うことなく落ち着いて周辺を探索できるのであれば、これ程楽な仕事として分類できることはない。
外に出れば今だ現場検証ということで警官や教師達がいるであろうが、内部で静かに探索するには、近付く足音などを聞き取りながら気をつけておけばいいだけの話しだ。
足音もたてずに内部を検分しながら、里留はゆっくりと歩を進める。
やがて、里留は立ち止まり周辺を見回した。
この場所ならば平気だろうと当たりをつけると、里留は複雑な印を結び自分の感覚野を最大限にまで引き延ばした。
建物の一階部分から順に自分の思念を細く紙縒のようにして探索していき、三階部分と屋上へとそれを伸ばすと里留は小さな溜息を吐き出す。
この校舎に対する『外』からの不安と恐れは感じるのだが、これといった外見的な異常さなどは今の所まだない。
だが内面は……それとは正反対の空気を醸し出しているのだ。
いつの間にか、里留の手の平に薄く汗が浮かび上がっていた。
何の変化も見えないようにカモフラージュされた内部。けれど、それは見せかけにすぎないことを充分に自分に教えてくれていた。
それ故に、先程起きたばかりの『異常』さが際立ってくる、といっても過言では無いだろう。
北斗へと手渡された鍵から感じた異質な気配。
辿るのは意外なほどに容易く探知出来る異様なそれは、感触や記憶が嫌でも覚え込んでしまうほどに力に溢れていた。
普通の空間のようでありながら、もはや『普通』ではない場所。
まるでこの第二校舎全体が蜘蛛の巣のようだ。
すでに編み上げられた眼には見えない『糸』が、入念なまでに第二校舎のあちこちに張り巡らされている。
加えて、細い針のような思念が里留の脳裏に引っかかってくるのだが、その出先が靄の向こう側にあるようで、些か特定するのが難しい状態に空間が変えられていた。
「念の入ったことだな……」
ぽつりと呟き、ふと何かに気がついたように里留は感覚野を屋上へと向ける。
飛び降りた地点の空気は、見事に何の感情も残っていない。例え操られていたとしても何らかの感触は残っているはずだというのに、まるでそれすらも『糸』に吸い取られてしまったかのように見事に何も残っていなかった。
小さな舌打ちが里留の唇をつく。
ここも、同じだ。
鋭く小さな棘が突き刺さるように、自分の思念の行き先を邪魔している。
思わず天井を仰ぎ見、里留は小さく吐息をついた。
これでは堂々巡りが続くだけだと考えてしまう。
さてどうしたものかと思案する中、里留は近づいてくる気配を感じ取ると、僅かに眉間に皺を寄せて踵を返した。
どうやら、生徒が残っていないか見回りに来たらしい教師の雰囲気を里留は肌で感じ取ると、収穫のないままこの場は退散するしかなさそうだと判断を下した。
やや速度を速め、里留はその場を離れる。
今はまだ、時期が悪すぎる。
今この学園に溢れているのは、今日起きたばかりのことに対する恐怖心や好奇心、そういったあまり良い感覚といえるべきではないものばかり。
精神的にも疲れる雰囲気だけがあちこちに散らばり、澱のように里留の心に降り注いでくる。
加えて自分達の捜す『モノ』が、何時までもこの校舎に居座るであろうか。
そこまで考え、里留は重苦しい息をもらしてしまった。
もしもこの校舎に居座っているとしたら、相当な力の持ち主だ。
「タイプBだとしたら、厄介だな……」
自分自身の呟きに、里留は不愉快そうな表情をその面に浮かべる。
タイプB。
人間の精神や命を喰らって生き延びるモノ達の総称。彼等のその特異性は喰らった生命力を自身の力に変え、時には殺した相手の知識を自分のものとして蓄積していくことが出来る種類だ。
以前講義で教わったことを思い返しながら、里留は張り詰めていた思念を緩める。
今日の所はもう動かないであろう。
相手の立場を自分に置き換えて考えてみれば、結論はそう簡単に出てくる。
すでに『食事』は済ませた後だ。それに加えて、この雰囲気は『奴』にとっては恰好の餌にしかならない。
しばらく間を開けるか、それとも……。
またすぐに次々と獲物を求めて動き出すか。
とはいえ、次の相手として選んだ人物達は分かっている。
同じような糸を付けられている人間を見咎めた里留としては、それらの人物達から目を離すことがなければ、自然とここに居座っている本人が出てきてくれるだろうと簡単に推測をたてていた。
次の犠牲者が出る前に、退治できれば何も言うことはないのだが……。
座学で教わっただけなのだ。知識としては知ってはいても、新人の自分にとっては、そう簡単にはいかないだろう事も理解している。
「何が早めに終わらせる、だ」
現在行動を共にしている相手に対してそう愚痴を突いてみるが、自分よりもキャリアの長い北斗の言動は、一つ一つ的を射ているのだから反論など出来るはずもない。
里留にとっては、今回の件が少々荷が重すぎると感じないわけでもないが為に、大人しく北斗の指示を聞いてはいるのだが……。
自分が彼に試されていることに気がついたのは、行動を共にし始めた初日のこと。
初対面の時、頭から爪先までをじっくり観察した後、彼は自分が使い物になるのかといわんばかりの口調でこう言ってのけた。
『足だけは引っ張るなよ』
思い返しただけでも溜息が溢れ出てくる。
実際に自分は初仕事である以上彼の危惧も分からぬでもないのだが、あれだけはっきりと言われてしまうと、かえって冷静にことに対処するよう自分に言い聞かせてしまうしかない。
ついでに、今回の『仕事』を再度確認のために頭の中で思い出す。
数ヶ月前からこの学園で起こる不可思議な事件の調査、及びその根元を潰すこと。
学校という閉ざされた空間では何が起きても不思議ではないが、この学園内で起こっていることは『不思議』で括るには少々難しいものがあった。
今まで普通に話していた者が急に倒れたり、真新しいはずの理科室の危険物が何故か劣化をおこし、突如危険物の棚から青白い炎を上げた、等々。
怪我人や病人の類による保健室の利用者数は、日々を追う事に多くなるだけで少なくなることはない。
加えて生徒達の雰囲気も怯えや苛立ちと言ったマイナス感情を顕わにし、生徒間の小競り合いの数も増えてきていた。
そして、今日……。
パタリと閉ざした下駄箱の箱から離れて外に出ると、里留はぷつりと自分の髪を一本引き抜いた。
ふわりと長さを増した髪を風に乗せると、里留は裏門へと回るべく方向を転換する。
何かあれば即座に反応するよう呪のかかったそれは、間違いなく第二校舎へと流れていくよう操作すると、里留はゆったりとした歩調で外界とを隔てる門をくぐり外へと向かった。