六
遡ること数分前。
「第二校舎……か」
水鳥から預かったタック付きのキーを、指先で器用にくるくると回しながら北斗はそう独り言ちる。
先程この鍵から感じたものは、紛れもなく自分達がここにいる本来の目的と、断ち切ることの出来ない存在感を隠していたというのに、こうもあからさまに自分の居場所を知らせている同様のことをされれば、受けた招待を断る義務はないはずだ。
とはいえ、一応この学園の臨時講師として配属されている以上、今日の出来事の後始末は北斗も混ざらなければならない。
それ故に、嫌々ながらも職員室へと先に足を向けなければいけないのは、北斗ともよく分かってはいる。けれども、気になって仕方が無い第二校舎の様子を先に調べておきたい、とも考えていたため、ややゆっくりめの歩調になっていたのは否めないのだが……。
教師なんざやりたかねぇなぁ、などと詮無い考えに身を置いていた時に訪れた好機。サボりのための言い訳ならば、北斗の中でいくらでも思いつくのだから、不良教師というレッテルを貼ってもおかしくはない。もっとも、自分は教師ではないのだし、ましてや臨時講師という立場だ。最悪始末書書くぐらいですむし、嫌みなお説教も聞き流せばいいな、などと考え、おもわずにやりと人の悪い笑みが、北斗の口元に刻まれた。
だが、ふと何かに感づいたように、北斗は緩く背後へと視線を向ける。
「教師の仕事をしたらどうだ」
音も気配もなく現れた里留からの言葉に、北斗の眉間に深々とした皺が寄る。
本音を見切られた、とは、いえなくもない。が、それを素直に認めるほど、北斗は人間が出来ているわけでもないのだから、舌打ち一つをもらしたところで仕方が無かろう。
お前にだけは言われたくない、といえれば良いのだろうが、それを口にしたところで里留の表情が変わることが無いのは分かりきっている。
全くもって嫌な性格だ。もう少しかわいげぐらい持ってみろ、とは、北斗の心の中でのみ吐いてしまった言葉である。
そんな北斗の様子に気がついているのかいないのか。里留は静かに北斗へと声をかけてきた。
「あの二人の行き先は?」
「……被服室、らしいな」
タッグに書かれた文字を読み上げ、北斗はきゅっとその鍵を握り締めた。
もはや普通の鍵ではあるが、先程の衝撃がまだ指先に残っている。自分が赴くのが適切ではあるのだろうが、どうやら里留が行くことが決定事項のようなのは、先程の発言からも分かってしまう。
「被服室、か」
やはり第二校舎に出入りしていたのか、とでも言いたげな里留の言葉は、自然と漏れ出たものだろう。
どうやら里留の方でも、第二校舎に出入りする人間達の気配をそれとなくチェックしていたらしい。何も言葉に出さない分、こちらがその機微の動きを考えなくてはならないのは少しばかり苦労するが、それでも自分の仕事はきちんとしているらしい。
一時的であれパートナーとして組んでいる以上、もう少しこちらに何かを報告してくれれば楽なものをと、北斗はやくたいもなくそんな思いに駆られてしまう。
とはいえ、北斗がそれをおくびにも出すことないのは、自分が大人なのだからと言い聞かせているおかげだろう。
そんな北斗をチラリと一瞥し、里留はくるりと北斗に背を向け第二校舎へと向かう廊下を進み始めた。
それを見送らざるえない北斗が、思い出したように里留に話しかける。
「面倒は起こすなよ」
どんな反応が戻ってくるかと思いきや、軽く肩を竦めただけでその忠告を受け入れた里留だが、ふと歩みを止めて北斗へと身体を向ける。
「面倒を起こすのは、そっちじゃないのか」
相も変わらずの鉄面皮からは感情を読み取ることが出来ないが、それ以上に冷え冷えとした里留の声音に、北斗は呆れたような表情を浮かべた。
「そりゃ面白い話しだ」
年上の余裕を見せつつ北斗が軽くいなしてしまえば、里留は瞬間イヤそうな光を瞳に走らせる。けれども、反応はそれだけだ。それ以上は何事もなかったように、北斗に背を向け里留は歩き出した。
その様を大きな吐息とともに見送ると、北斗は職員室に向けて踵を返す。
第二校舎のことは、ひとまず里留に任せておくことにし、自分に出来ることをやろう、と北斗は自分自身に言い聞かせてはみるのだが、それが上手くいったとは思えない。ガリガリと頭を引っかき回し、北斗は大きく息を吸い込み、パン、と小さく両頬を叩いた。
とりあえず、新たに面白い情報でも入っていれば御の字というモノだが、そんなものはないに等しいのは経験上北斗とてよく理解している。だからこそ、職員室へは行く価値はないのだが、それでも断言した以上はそちらに向かわざる得ない。
廊下の外へと視線を向ければ、青いビニールに覆われた箇所が異彩を放っている。すぐ側で警官が何らかの指示を出して忙しそうに動き回っている様を見つめ、北斗はご苦労なことだと心の底から感心してしまった。
あれだけの目撃者がいたのだから、今回のことは自殺と断定されるのは決まっているというのに。
最も内外的にも醜聞として語られる事実は、自分達にとって薄っぺらな現実の前ではどうでも良いことの一つだ。
自分達の『真実』は、別の所にある。
それを潰さない限り、犠牲者はこれから先も出る可能性が高いのだから。
「……後手まわりだな」
やけに響いて聞こえた独り言に、北斗は苦虫を噛み潰したように顔を歪める。
本当に、報告書を提出するのがイヤになるほどの後手まわりだ。
とはいえ、先手を打てるだけの時間が自分達にあったのか、と聞かれれば、些か疑問を抱いてしまうのは仕方がない。
この学園にきて一週間。
注目を集めるのには充分すぎる、季節外れにやってきた臨時講師と転入生。それも兄弟揃ってと分かれば、いやが上にも人の好奇心を集めてしまうのは必定だろう。
そんな中、ようやくこの学園の空気に染まり始めた頃合いだというのに、こうもあっさりと相手が自分達を見極めるためなのか、それとも正体を見定める為に煽るようなことを行ったのか……。
今はまだ生徒一人で犠牲者が止まっているから良いようなものの、こうなってくると事を急がざるを得ない状況に陥ってしまう。
それだけ根が深いということなのだろうが、それにしても、だ。
他人事とはいえ、『初仕事』からこれだけ厄介なことになってしまったことを憂うべきなのか、それとも現実とはかくも厳しいものなのだと諭すべきなのか。
「あいつには、重いんじゃないのかねぇ」
表情一つ変えずに淡々と仕事をこなす里留の姿を思い出し、北斗は深々と息を吐き出した。
優秀であることは認める。が、こうも極端に他人を排除したような空気を持ち合わせているとなると、クラス内では浮き上がるのは簡単に想像できてしまう。
悪い意味で目立つ存在となってしまった里留に頭を痛めつつ、北斗は再度第二校舎を眺めてしまった。
すでに第二校舎についているであろう里留の姿を思い返し、北斗は今回のパートナー選びに噛んだ人物に向かって心の内側で悪態をつき、今更ながら里留の態度に苛つきを覚えたのだが、現場の人間―もちろん自分が組織の歯車であることは重々承知はしているのだが―には悲しいかな上の決定を覆すことは出来ない。
重々しい溜息を一つついて、北斗は渋々ながら職員室へと歩き出した。