三
顔が真っ赤になっているのが自分でも分かってしまう。
急いでいたことを差し引いても、まさかあんな醜態を誰かに見られるとは思ってもいなかった。
というよりも、今現在この学園内の噂の中心人物になっている榊兄弟の一人が偶然にも現場に立ち会わせているとは、もはや不運としか言いようがないだろう。
「あーもぉー」
口の中だけで不平をこぼしながら、深田水鳥は今だ教師の姿が見えない教室内へと駆け込んでいく。
どうにかこうにか自分の席に身体を落ち着けると、水鳥は身体中の力を一気抜いて椅子の背もたれに自分の全体重を預けこんだ。
今日は一日中ついていないような錯覚すらも覚えてしまう。
たかだかシャープペンシルの芯を買いに行っただけというのに、何故か購買部がいつも以上に混んでいたことや、目的の物があいにく切れていた為に代用品としてそれに近い物を選ばざるえなかったりと、なかなか中途半端についていなかったりするのだ。
そういえば、登校前に見ていたニュースの本日の占いでは、自分はついていない部類にはいるのだといっていたことを思いだし、それがよけいに疲労感を伴って水鳥の身体に押しかかってくる。
はぁぁ、と深々と溜息を吐き出し、水鳥は思わず薄汚れた天井を見上げてしまった。
本当に今日一日ついていないような予感にかられて。
その様子を半ば以上呆れたように眺めていた友人が、それを隠そうともせずに水鳥に声をかけてくる。
「何走り込んできてるのよ。まだ予鈴なってないのに」
「だって購買、滅茶苦茶混んでて、間に合わないかと思って」
「だからってそんなに慌てて走り込んでくる?」
何とか息を整える水鳥の姿に、友人である黒井祥は人の悪い笑みで黒板へと指先を向けた。
それを追って視線をそちらに向けた水鳥は、今度こそ力尽きたように身体の力をがくりと落とした。
黒板には白く大きな文字で『自習』、との二文字が燦然と輝きを放っている。
大きく息を吐き出した水鳥が、まだ荒い息の合間を縫って憮然とした口調で祥へとその理由を一応尋ねた。
「朝はなんも言ってなかったじゃない。それがなんで急に」
「さぁ」
まぁもうけモンだと思いなさいよ、との答えに、聞くだけ無駄だったと悟った水鳥が視線を祥から離すと、机の上に配られていたプリントに目線を移す。
大急ぎで作ったのか、どことなく忙しない感の否めぬ問題の数々をざっと眺めた後、ふと水鳥の視線が窓際に向けられた。
まるでそこだけが切り取られた空間のようだった。
表情を全て消し、人を寄せ付けずにいる冷え冷えとした里留の空気は、兄とは全く違って対照的な雰囲気を漂わせており、兄弟といえどもここまで空気が違うのかと驚きさえ覚える程のもの。
そして体格も、兄の北斗と比べればどちらかといえば小柄、というよりも、華奢とさえいえるほど細くしなやかな姿なのだ。
本当に兄弟なのだろうか。
ふと浮かんだ考えに、水鳥は榊里留の背中をじっと見つめる。
疑問符だらけの兄弟のプロフィールは今だ謎な部分が多くあり、多くの女子生徒達の関心を集めているだけでなく、何とかそれを解こうと躍起になっている者さえいるというのだから、大したものだとついつい感心してしまう。
とはいえ、そんな行動に納得がいってしまうだけの謎があるのだから、この二人の場合は全く持って致し方ないといえるだろう。
「どしたの?」
「なんでもない」
不思議そうに訪ねる祥の視線に慌てて首を横に振ると、水鳥は苦笑で彼女の追求を逃れた。
一瞬不機嫌そうに眉を寄せた祥だが、それ以上詳しく聞く気も失せたのか、そういえばと自分から話題を変えてきた。
「また出たんだって」
「またって……れいのお化け?」
「そ。今度は第二校舎だってさ」
「ふーん」
生返事に近い水鳥の口調にむっと頬を膨らませると、祥は隠し持っていたスナック菓子の袋の口を開いて、無造作にその中に手を突っ込んで食べ始める。
子供っぽいなと考えながら、水鳥は祥に気がつかれぬ程度の小さな息を吐き出した。
自分の話しに耳を傾けなければ、すぐにヘソを曲げて黙り込むだけではなく、幼い子供のように拗ねた行動を取るのだ。それとなくそんな行動を注意すれば、違うと大声でわめき立てる祥の扱いに、水鳥を始めとする友人の大半は些か手を焼かざるをえない状況であり、いつの間にやら放っておくのが一番だという結論に至ったのは、さして時間がかからなかった。
―まったく……。
そんな水鳥の心情など全く意に気にしていない当の本人は、同様の噂話しを持つ友人を捕まえては情報交換と称して、得意そうに自分の仕入れたネタを話し出していた。
―ばっかみたい。
幽霊だのなんだのと、なぜこうまで大騒ぎしていられるのだろうか。
不可思議な現象など信じていない水鳥にとっては、馬鹿馬鹿しいの一言で終わってしまう代物だ。
だからこそ、こうして声高におどろおどろしげな内容を話す祥の姿は、いつもながらに不思議でしょうがない。
一応は進学校で名を通しているこの学園で、少なくとも中間テスト間近いこの季節にそんな話しを大声ですれば、他の生徒達に睨まれるのは間違いないことだと分かっているだろうに。
案の定というべきなのか、あちこちから向けられるきつい目線に、水鳥は頭を抱えたくなった。
自分は関係ないといいたいのだが、目の前で騒がれては説得力など無いに等しく、結果的にはこの悪友と一括りにされるのがオチなのだ。
我知らずに飛び出した溜息に慌てて口元を押さえた水鳥だが、ふと感じた視線に周囲を見回した。
非難の視線でも、怒りの視線でもない、全く意味合いの違うそれ。
ただその話しが真実なのかどうかを吟味し、探求するような冷静な眼。
それ故に、自分に違和感を気がつかせたのだが。
思わず教室内を見回しながら、視線の持ち主を水鳥は捜してしまう。
ノートを突き合わせつつ互いの不明確な点を説明しあう男子生徒。密やかに会話をし、時折小さな笑みを漏らす女子生徒。大半は水鳥と同じように与えられた課題をこなすのに夢中になっており、自らが異分子だと語るような雰囲気はどこにも転がっていない。
だから、なのだろうか。
自然と視線がそこへと向けられてしまうのは。
プリントに答えを書き込むわけでもなく、開いてある教科書類に眼をやるでもなく、ただ瞼を閉じてその場に溶け込むかのように気配を消している少年の姿に、どきりと水鳥の心臓が高鳴る。
一枚の絵を見ているような錯覚に陥りかけた水鳥だが、不意に瞳を開いた少年、榊里留とばったりと視線がぶつかり合った。
ばっと思わず顔を伏せた水鳥の心臓が、バクバクと音を立てる。
―気がついたよ、ね。
別段疚しいことをしていたわけではないのだから、視線があっても慌てる必要性など全くないはずなのに、どうしても焦りに近い感情が水鳥の中で渦を巻く。
なぜだろうとかんがえれば、彼に絶対に関わってはならない、と水鳥の中で警鐘が鳴り響くのだ。
深く考えまいとする水鳥に、ようやく話しの終わった祥がにこやかな笑顔でのぞき込んでくると、当然のように水鳥からプリントを取り上げた。
「ちょっ!」
「見せてね」
文句を言うよりも早く祥はくるりと向きを変えて自分の席に戻ってしまう。言っても無駄なことと分かってはいるが、愚痴の一つも出かかってきそうになる水鳥の心境は、複雑すぎるものだ。
別段答えを見せた所でどうということはないが、それでも当たり前のように自分からプリントを取り上げられれば、怒りを少々覚えても仕方がないといっても良いのではないだろうか。
沸々と湧き出す怒りを静めるために深呼吸を一つすると、水鳥は気分を切り替えるために読みかけの文庫本を机の中から取り出しページを開こうとしたが、窓の外から聞こえてくるざわめきにその手を止めた。
「?」
徐々に大きくなる音は、半ばヒステリックな金切り声と切迫した怒鳴り声とが混じり合い、不穏な風となって周囲に広がり始めている。
それに気がついたのは水鳥だけではなく、クラス中が何事かと不安げに側の者たちと顔を突き合わせていたが、不意に窓際に座る女生徒の口から悲鳴が上がった。
「なに?」
首を傾けつつそちらに視線を向けた水鳥の動きが、見事に止まる。
一気に教室内のざわめきが増し、我先にと窓際に詰め寄った生徒達の視線が、一点に集中するのにさして時間はかからなかった。
誰もが真っ先に考えたことは、なぜあんな所にいるのか、だ。
本来ならば屋上に通じる扉は全て鍵がかかっており、基本的には生徒達が自由に出入りすることは許されていない。例えもしも鍵が開いていたとしても、周囲は二メーター以上の高さを誇るフェンスがかっちりと外と内とを遮断すべく取り囲んでおり、事実上はフェンスの外側に立つのは不可能と言っても良いだろう。
それなのに、彼はそこにいた。
いつから彼がその場にいたのか、あるいは、どうやってあの高いフェンスを人知れずに昇ったのか。
様々な疑問が皆の頭には浮かんでいるのだろうが、今はそんなことに気をとられている者などいない。
そして、それは屋上にいる彼に対しても同じ事だ。
一歩でも進めば足場は遙か下の大地以外にないその場所に、恐怖も不安も全くといって良いほど見えない態度は、むしろそこにいることが至極当然のことのようにさえ水鳥達には見えた。
視線の先に何が移っているのか分からないが、少なくとも彼が今の状況を、現在自分が何の為に屋上にいるのかということを忘れていることは確かなようだ。
そのことが、ひどく現実味を欠いた光景といって良かった。
まるでそこだけが別の世界の中心のようにさえ思えるほどに。
悲鳴や野次馬の声など彼の耳には全く届いていないらしい様子に、クラスの中からあがったぽつりとした独り言がやけにに大きく水鳥の耳に届く。
「まさか、飛び降りたりしないよな」
冗談にしてしまいたいという意図に溢れたその声に、誰も答えることなど出来ずかえってしんと静まりかえった教室内に異様な空気が溢れでた。
まさか、と否定したくとも、否定できない何かが屋上の彼からひしひしと感じられるのだから。
固唾をのんで外を見つめていた水鳥達の呼吸が、突如動きを止めた。
ふわり、と、まるで常と変わらぬような動作で、彼は目の前へと足を踏み出す。普通に歩き出したかのような仕草の後、その場から彼の姿が消え失せるや半瞬遅れで鈍い音が地面からあがった。
学園自体の時が止まったようにしん、と一瞬沈黙がその場を押し包む。
だが、けたたましい悲鳴と金切り声にも似た叫びとが、次の瞬間学園内を支配した。
無論この教室内も同様だ。
何が起きたか理解した瞬間パニックを起こした生徒達の悲鳴や怒声が起こる中、シャッと鋭い音がそれらを制するようにしてあがった。
「窓の近くに行かない方が良い」
呆然とその場に立ちつくしていた水鳥達の耳に、この場に全くと言って良いほどそぐわぬ冷静な声が届く。
それによって、かえって混乱に陥りかけたクラス中の生徒達は、現実に引き留めることとなった。
ぎこちない動きで首を動かした水鳥が、普段と全く変わらぬ動作でカーテンに近づき次々に外と教室を遮断するようにそれを引っ張る里留の様を、些か茫然としたように眺めてしまう。
まるで当然のように動く里留が顔色のないクラスメイト達の様子に、僅かに口元に困ったようなものを刻みつけた後、何とか正気を保とうとする生徒達を見つけては次々と指示を出してゆく。
こんな場面でも冷静な判断と淡々とした口調で助言する里留に助けられたような形で、パニックの淵から何とか踏みとどまった生徒達は徐々に慌ただしく動き始めた。
いつの間にかそれを追いかけていた水鳥だが、弱々しく放たれた声を耳聡くキャッチすると、あわてたように声の主に近づいた。
「大丈夫、歌穂?」
「……気持ち、悪い」
友人の一人である本田歌穂が、涙眼で口元を押さえつつそう告げる。その様に、慌てて水鳥は側にあった椅子に歌穂の身体を支えつつ座らせた。
真っ青になった顔色の歌穂の様子に、保健室に移動して良いかどうかの判断が全くつかず、水鳥は困ったように周辺を見回した。
興奮状態のすすり泣きがあちこちからあがり、不安と恐怖が教室内、いや、学園全体を包んでいる。
こんな状態で保健室に行ったとしても、同じような人間ばかりで保険医一人の手には余るのは分かり切ったことだ。
どうしたものかと困り切った水鳥の耳に、苦り切った呟きが入ってきた。
「……早かったな」
「え?」
聞き咎めた独白は動き出した人並みに紛れて消え、それを放った本人は静かに教室を後にする。
大きくなる騒ぎすら気にとめていない彼、榊里留の雰囲気に、水鳥はブルリと身体を震わせてしまう。
それが自分とは全く違う人種であることを感じ取ってしまった為だと気づくのは、これより少し後。
彼女がこの件に完全に巻き込まれてしまった時であった。