二
暖かく照りつける日差しも、数十分もその中を歩けば上着がいらなくなるほどの代物とかす。
いっそ上着を脱いでしまおうかとも思ったのだが、そうすればそれが手荷物になってしまうのも面倒臭いが為に、多少の暑さを我慢してそれを着込んでいる北斗は、思わず頭上を見上げてしまった。
天気も陽気も良すぎるほどに良いでしょう、との朝の天気予報の当たりをほめるべきなのか、それともこんな陽気となってしまったことを恨むべきなのか。
「アホくさ」
真剣に悩むべき議題でもないことに頭を使いかけていることに気がつき、北斗は己に向けて自嘲的な溜息を落とした。
もうしばらくすれば授業の合図がなるだろうが、どちらかといえばこのまま自習という形を取らせて、どこかでさぼりを入れ昼寝でも決め込みたいものだ、などと、臨時講師にあるまじき考えを抱きながら北斗は仕方なしに校舎へと足を向ける、
滅多に人のこない本校舎裏の雑木林は、思考に埋没するのに心地よいまでの静けさに満ち足りていることと、ちょうど南向きとして造られているために日当たりは充分によいこととがメリットとなっており、ちょっとした学内の穴場的な場所となっている。
何かを考え込むにはうってつけの場所なのだが、下手をすると時間を忘れてしまい遅刻してしまう可能性の高い場所でもあるのが、難点といえば難点なのだろうが。
ちらりと右腕に着けられた時計に目を落とし、北斗は仕方なさそうに溜息をついて踵を返した。
授業開始までは後数十分ほど間が開いている。
昼休みをゆっくりと満喫出来ただけでもめっけものかと、自分自身に言い聞かせ北斗は重い足取りで歩き出した。
仕事とはいえ、自分に教師などと言う堅物で難儀な職業を押しつけてくるとは、上層部も何を考えているのやら。
とはいえ、そうでもしないと自分が入り込めないのが、『学校』という閉鎖された空間に入り込める唯一の手段しかないのは分かっているのだ。
はぁ、と、北斗は溜息を一つ落とす。
仕方ないといえば仕方のないことなのだが、それでも格式張った職種につく度に、同じ思いにかられれてしかたが無い。
すなわち、自分には絶対に無理な職業にあげられるだろうということだ。
無論、自分の本質が型にはまることはないことを理解している為に出てくる結果は、上層部にとっては頭の痛い事柄なのだろう。だが、それを無視してでも型にはめようという上の努力は、北斗とて嫌々ながらも認めざるを得ない。
再度認識してしまった事柄に思わず遠い目をしそうになった北斗だが、現実はそうそう甘く出来てはいないのだと自分に言い聞かせ少しばかり歩調を緩めた。
ゆっくりとした調子で雑木林の中から校舎へと歩いていた北斗に、突然黄色い声がかけられる。
「榊センセェ」
そちらに視線を向け、にこやかな営業用の笑みを貼り付ければ、声の持ち主達がキャァキャァと楽しさと嬉しさの混ざった声を上げ始めた。
タータンチェックに幾重ものプリーツが入ったスカートと学年を示す鮮やかな赤いタイを絞めた少女達は、校舎の外付け廊下から中に入った北斗へと駆け寄るとその腕を強引に引っ張り始めた。
「おいおい」
「だって、次うちのクラスの授業ですよぉ。一緒に行きましょうよぉ」
「あぁそれで呼びに来てくれたのか。ありがとう」
「そんなぁー!」
耳元で上がる歓声にイヤな顔一つせず、北斗は自然と少女の腕から自分の手を抜いてしまうと、彼女たちを引き連れるようにして歩き出した。
校舎と体育館をつなげる廊下から見えるのは、古びた幾つもの建物だ。昇降口を潜り抜けてそんな建物の一つに入り込めば、忙しない動きの生徒達の姿を見ることが出来る。
目立つことこの上ない集団である。一瞬だけ視線をこちらに向ける者もいることはいるのだが、そんな些末事項などどうでも良いという雰囲気が行き交う生徒達から見え隠れしていた。
一応のこの周辺では進学校として名を知られた学校だけあって、もっぱら生徒達が気にかけているのは自分の成績といっても過言ではなかろう。その為にか、どこか自由を縛られた感が拭えぬ空気がこの学校を覆っている。
現にすれ違う生徒達の顔に浮かんでいる表情は、大抵が間近に迫っている中間テストの範囲がどこまでか、ということに占められていると言っても良い。
小さいながらもすでに競争社会に身を置いた生徒達の姿に、北斗の表情が複雑なものになってしまう。
学校から社会に出てしまえば嫌でも苦労するだろう事を、今から負ってどうするのだろうか。
とはいえ、一応教師でもある北斗がそんなことを言った所で、何をバカげたことを言うのだと一蹴されてしまうのも眼に見えている。
学校社会には必要不可欠な何かがあるのかもしれないのだから、それはそれで仕方がないのかもしれない。
行き交う生徒達を見るともなしに見つめていた北斗の視線が、中途で動きを止める。
ふと見知った顔を見つけてしまった北斗だが、思わず苦笑とも失笑ともつかぬ笑いを喉の奥で漏らしてしまった。
円上に並ぶ校舎の頂点に位置し、この『阿多部学園』のシンボル扱いされるほど高く立派な時計塔を眺めている男子生徒は北斗の視線に気がついたのか、その瞳に彼の姿を捉えると何事もなかったかのようにその場から去るべく爪先の方向を変えた。
他の生徒達に紛れるようにして消えていった少年の姿に、北斗はなんとも言えぬ珍妙な顔つきになってしまう。
それを一部始終見ていたのだろう、北斗にまとわりついている少女の一人が不満げな声をあげた。
「先生の弟って、やっぱり愛想ないんだね」
「えー、でもそこがいいじゃん」
一人の女生徒の言葉に、即座に反論の言葉が上がる。
クールな所が格好いいじゃない、との女生徒の台詞に、思わず北斗は吹き出しそうになってしまうが、なんとかすんでの所それを止めようとした。けれども、それは結果的に上手くいかず、堪えきれずに出てしまった唇の端の痙攣は止まりそうもなかった。
あの表情や態度をクールと言い切られてしまえるのは、さすがに可笑しさを隠すのに一苦労だったが、何とか北斗はそれを表に出すことなく心の内で爆笑をもらす。
そんな北斗の様子を知ってか知らずにか、くるりと北斗へ視線を向けた女生徒が疑問符付きの言葉をかけてきた。
「ね、先生。榊君っていつもあぁなの?」
「まぁ……ね。
里留はあまり、人付き合いが上手くないからな」
一応そうフォローしてはみるものの、人付き合いが上手い下手のレベルで判断できる程かわいらしいものではないのだ。
あの『弟』の態度は。
人好きのする笑顔と雰囲気を常に持ち他人と上手く接触している兄に対して、好意的に言えば淡泊、悪く言うならば冷淡に人に接する『弟』の態度はあちこちから様々な感想を聞くことが出来た。
曰く、
『冷血漢』、『笑わず仮面』等々。
今のところは、良い噂話も悪い噂話も一つも浮いてはこないのだから―その点に関してだけは褒めるべきなのだろう。とはいえ、充分に北斗としてはその性格を理解させられているのだが―それはそれで良いのだ。もっとも、周囲と距離を取ることを良し、と本人は割り切っているであろうと充分に分かっているからこそ、北斗としても一応は黙ってはいるのだが……。
本来の『仕事』がやり難くなる要因の一つでしかないのだ、と北斗としては声を大にして言いたくもなるのが人情というものだろう。
あの『弟』の態度と雰囲気は。
もう少し柔軟性があれば何とかなるものを、等と考えながら北斗は少しばかり痛み始めた頭にゆっくりと頭を横に振った。
思った所でどうにかなるものならば、すでに何とかなっているだろうと考えてしまったが為に。
彼女達に気がつかれないように溜息を吐き出し、北斗はちらりと時計塔を見やる。
「そろそろ教室に戻らないと遅刻するぞ」
「えー、でも先生は?」
「教材を取ってこなきゃならないんでね。
悪いが、先に行ってくれないかな」
「そんなー」
やんわりとした説教に女生徒達は一様に残念そうな声をあげるが、やがて仕方なさそうに肩を竦めると彼女達は名残惜しそうに北斗から離れ始めた。
それじゃまた後で、と大袈裟なまでに手を振りながら去っていく生徒達を見送り、北斗はようやく肩の荷が下りたように大きく息を吐き出す。
編入してから一週間。どこにいても駆けつけてくる女生徒達の動きは、今の所少しも大人しくなるような気配は全くといってよいほどにみえず、どちらかといえばこちらの動きを監視するようなその動き方に多少は頭が痛くなってきていた。
ただでさえ十二分に頭を抱えたくなる事項があるというのに、これ以上問題だけが増えるのはごめん被りたいというのが北斗の紛う方無き本音だ。
里留の周りには一切女生徒達が近寄らず、北斗にばかり集中して女生徒達が集まるのはその方が話しやすいからなのだろうが。
だからといって何時までもこの状況を甘受せねばならない理由などまったく、欠片もないと断言出来るのだ。
それに加えて。
「ったく、なんだってこんな猫まで被らなきゃなれねぇんだ」
ついつい小さく本心を口にした後、北斗は慌てて周囲を見回す。
聞いていた人間がいないことを確認すると、北斗は整えられた黒髪をガシガシと引っ掻きまわした。
人当たりの良い臨時教師を演じる為に営業用の笑顔を始終張り付かせている為、こうして素に戻る時間が校舎を出てからというのは、なかなかにしんどいものがある。
我知らずに出てきた溜息に、北斗は眉間にシワを寄せた。
自分の為にも早めに対策を立てるべきだな、と内心で呟きつつ職員室へと足を向けた北斗の耳に、突如派手な悲鳴が届いた。
「いったぁー」
思わず立ち止まるほどのそれに、北斗は周囲に視線を走らせる。
タータンチェックが少しばかりめくれ上がり、白い足が廊下からはみ出しているのを見つけると、思わず北斗の口元が笑みの形を作り上げた。
「大丈夫か?」
廊下で見事にすっ転んだ少女に声をかけて近寄ると、彼女は慌てて周囲に散らばった私物を拾い上げて立ち上がる。
顔を真っ赤にして恥ずかしそうに頷く少女の頭から爪先までをざっと見た北斗が、膝小僧に出来た傷跡に眉をしかめた。
「す、すいません。急いでて」
「それは構わないが、一応保健室に行った方が良いんじゃないかな」
「い、いえ、平気です。それじゃぁ、すいません。失礼します」
顔を赤くしたまま軽く頭を下げて走り去るその背を見送り、北斗は極々僅かに苦笑をこぼす。
せめてあれほど解りやすければもう少し取っつきやすいだろう『弟』のことを考えたのだが、直ぐさま北斗はそれを否定してしまっていた。
もしもそんな可愛らしい性格になるのであれば、それはそれで非常に怖いものがありそうなのだから。
詮無い考えを振り払い、北斗は再度時計塔に眼をやる。
陽光を浴びる薄汚れた白棟の姿に、北斗の瞳に一瞬だけ鋭いものが走り抜けた。