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魔狩人  作者: 10月猫っこ
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 磨かれたリノウムの床を蹴りつけながら、男性の視線は外界と建物の中とを仕切っている窓の外へと向けられていた。

 今が盛りと咲き誇っている桜並木は、風と共に優しく花弁を舞いあげて空と街とを薄紅と白とに染め上げている。

 それは夢幻の妖しさを持ちつつも、誰もが美しいと思わざるえない光景の一つとさえ言えよう。

 あくまでも穏やかな日差しと鮮やかな色を纏っている数々の大樹。季節の訪れを万人に知らせる風景は、男の最も好きな景色の一つであり、心の奥底に押し込めた傷跡を少しだけ表面に引き上げる鍵でもあった。

 白い花弁の中に、ふっと昔の面影が過ぎる。

 思わずぎくりとするほどに、古すぎる疵跡を撫でていく光景。

 自分が一番幸せであった頃の、過ぎ去ってしまった過去の記憶。

 忘れようにも忘れられない、苦く痛い思い出の数々。

 ズキリと微かに痛んだ胸の奥に、男性は幾分か自嘲的な笑みをうっすらと口元に刻み込んだ。

 始めの頃はこの痛みに耐えきれず、何度世界全てを呪ったことだろう。

 変えようのない事実。変えられなかった現実。

 慟哭は闇の中へと消え、ただ己に対する怒りのみが身体を支配していたあの時。

 あの頃の自分を思い返すたびに、自分の無力さを痛感せざるえない。

 自分の実力の無さが招いた結果を、全世界にぶつけていた子供の癇癪よりもタチの悪い自分自身の心。

 過去の自分の醜態に更に自嘲を濃くすると、男性は視界に入る華の色に任せるようにして追憶にふけってしまった。

 『彼女』も、この華の色が好きだった。

 白く細い手を長くしようとするかのように精一杯伸ばしては、その花弁を少しでも多く摘み取ろうと身体を手摺りから乗り出しては、自分を大いに慌てさせた彼女。

 そんな自分に微笑みかけながら差し出された小さな手の平には何枚もの花弁が乗せられており、少しばかり得意そうな表情がいつもの高貴さからは離れて少しばかり幼くさせたものだ。

 幾度季節が巡っても、忘れられない彼女の姿。

 この季節が一番だとはにかみながら自分に告げてくれた彼女の笑み。

 遠い、遠すぎる記憶の数々。

 最後に彼女の笑顔を見たのは何時のことであったろうか。

 自分が彼女を救えずに、ただ彼女を見守ることしかできなかったのは、もうどれほど昔のことなのだろうか。

 数を数えることすら出来なくなった過去。

 現実が痛みを伴うものだと教えてくれた事実。

「ちょっと、聞いてるの?」

「あ?」

 眼を細めてそれらを見つめていた男性に向けて、前方を歩いていた女性は唐突に質問を投げつけてくる。だが、少しばかり間の抜けた返答が男性から戻されてしまうと、深々とした溜息をついて彼女は立ち止まてしまった。

 どうやら、自分の心がここにはないことを知っていての言葉だったのだろう。

 緩やかに背を流れる栗色の髪を肩のあたりで一つに束ね、淡い紅茶色の瞳に苦々しい光を灯した女性は、誤魔化すように肩を竦めてみせる男性の姿に再度態とらしいまでの溜息を吐き出してみせる。

「まったく、立ったままで寝ないでちょうだい」

「別に寝ていたつもりはないんですけどね」

 ポリポリと後頭部を引っ掻き回す男性の姿に、女性はほとほと疲れたように肩を落としてみせた。

 理知的で落ち着いた雰囲気と、人並み以上の容姿を持つこの女性に、唯一困らせた表情を取らせることが出来、更には頭痛と胃痛を引き起こさせることの出来る数少ない存在が目の前の男性であるということを再認識した後、女性は手の中の資料を半ば以上強引に男性へと押しつけた。

 それを苦笑で受け取ると、男性はパラパラと数枚をめくって中身を確かめながらざっとそこに書かれている文字を眺めた。

 少なくとも黙って立っていれば充分絵になる男性ではある。年の頃は二十代前半といったところか。すらりとした長身には無駄な筋肉は一切ついておらず、理想的な体躯を持ち合わせているだけではなく、眉目秀麗と行って過言でない容貌に加えて、人好きのする雰囲気を纏っていることとが、彼を親しみやすい好人物と他人に印象づけている。

 だが実際は……。

 外見が内面を現すことは、決して、まったくといってよいほどにない、ということを断言させる。それだけではなく、その態度と口調をみていれば、充分すぎるほどそれらを実感させられるだけであったりするのだということを、周囲には常に思い知らされるのだけなのだが。

 そう考えた途端に、女性は内心で何度も溜息をつかざるを得ない、というよりも『問題児』と言ってしまって過言でない男性の顔をじっと見つめた。

 パタリと繰ったページを元に戻し、男性はごく当然のように口を開いた。

「―良い結果ですね」

「それだけ?」

「他にどう言えば良いんでしょうかね。安宅(あたか)局長?」

 あっさりとした男性の切り返しの言葉に女性、安宅鏡子(きょうこ)は眉根を軽く押さえつけると再び廊下を歩き出す。

 それを聞いた自分が愚かだったと今更ながらに後悔し、どうしようもない苛立ちに似た感情が自分の中に植え付けられてしまった事を、鏡子は痛み出した頭痛と共に発見してしまい思わず顔を歪めてしまった。

「聞いた私がバカだったわ」

 ぽつりと怒りを含んだ言葉は、自分と男性に対してのものだろう。

 何とか自分自身を押さえつけようとする雰囲気を鏡子の背中から読み取ったのか、男性は彼女に悟られないように苦笑をこぼすと、黒に限りなく近い蒼い瞳を再び手の中の資料へと向けて中身を確認する。そしてそのままレポートを読み込むうちに、男性は我知らず柔らかそうな黒髪を引っかき回していた。

「ふーん、すげぇな」

「何が?」

 充分に分かり切っていて尋ねてきた鏡子に対して、男性はクツリと人の悪い笑いを喉の奥で漏らした。

 今までの形だけの礼儀正しさを綺麗に無くし、男性はざっくばらんな口調で鏡子へと声をかける。

「新人研修中にこれだけの数値を弾き出せるなら、即座に現場に対応できるだろうな。小さい現場なら、一人でも何とかなるんじゃないのか」

 空恐ろしいことをさらりと口にされ、鏡子は思わず天井を仰いだ。

 確かにそれはそうなのだが、新人一人を誰のサポートもなしにひょいと何も分からぬまま現場に出せるほど、ここは甘い職場ではないのだ。

 たとえどのような場所であれ、新人や場数をこなしてきた者達を一人で送り出すことなど、例外中の例外としか言えない事柄なのだから。

 それを分かり切っているだろうに、どうしてそう簡単に出来もしないことを口にするのかと鏡子は痛む頭の端で考える。

 完全に自分で楽しんでいるのではないか。そんな邪推すら浮かんでくる男性の言葉に、自然と鏡子の口から吐息がこぼれ落ちる。

「……掘り出し物なのよ、その子」

 だろうな、と口の中で一人ごちる男性が、ふと感じた人の気配に足を止めて窓の外へと視線を移した。

 瞬間、時が全て止まったような錯覚を男性は起こす。

 そんなはずはないと、どこか遠くで声がするのを聞きながら、男性はいつの間にかじっと窓の外へと視線を固定させていた。

 記憶の中へわざと埋没させていた記憶がよみがえる。それは、まるで自分のよく知っている『彼女』の様な姿だったのだ。

 花弁に混じり、白い羽毛が大地へとゆっくりとした動きで落ちてゆく。

 いつの間にか様々な種類の鳥達がそこに集まり、中心の人物の肩や腕へと羽を休めている。それだけでなく、よくよく見れば滅多に見ることのないリスなどの小動物達も木々の枝から顔を覗かせて地上を伺っていた。

 そんな彼等にも笑みを見せるように視線をあげると、不意に柔らかな風が彼等を撫でていく。

 肩の下あたりまできっちりと三つ編みを結い、それ以上に長い黒髪をなびかせて、少女はふわりと身体を回転させながら周囲の動物たちに再度笑いかける。年の頃は十六、七といった所か。黒曜石の色をした瞳に、和やかな光を乗せて微笑むその姿は、華奢な身体と相まって幼さとあどけなさとを周囲に振りまいていた。

 幽玄のような光景に目を奪われていた男性の耳に、鏡子の声が届いたのは次の瞬間のことだ。

北斗(ほくと)?」

「あ、あぁ、すまん」

 慌てて現実へと引き戻された男性、(さかき)北斗は、だいぶ開いた鏡子との差を埋めるべく足を踏み出す。

 彼が自分の横へと並んだのを確認し、鏡子は素っ気ないまでの口調で突如話題を変えてきた。

「その子が次のパートナーになるから。しっかり面倒を見なさいよ」

「おい、本気か、それ」

 言外にも態度にも冗談はやめてくれ、とのニュアンスを込めて、北斗は鏡子を苦い笑みで見下ろしてみる。

 それに頓着することすらもなく、いつものことと割り切っているらしい鏡子の口元は先程と変わることなく滑らかに喋り続けた。

「正式な辞令はこの二、三日中には出るわよ。顔合わせは一応その時にセッティングしてあるから忘れないように。

 あぁ、それと、仕事はすぐに向かってもらうことになるから覚悟しておきなさい。かなり厄介なものだから、詳細なデーターはその時にまた」

「鏡子」

 幾らか険の入った呼びかけに彼女は小さく吐息をつくと立ち止まり、彼の顔を真っ直ぐに見つめた。

 先程までの表情はまったく見えず、冷徹な光を宿した瞳はまさしく局長と言われるに相応しいものであり、否やを言わせぬような口調が深紅の唇から一言一言区切るようにして紡ぎ出される。

「これは、正式な、辞令です。

 拒絶、拒否の類は、全く許されません」

「……分かった」

 正式、と言う部分を強調すれば、一瞬北斗の顔面に歪みが生じた。

 納得をしていないのは一目で分かる表情と態度だが、それはすぐにいつも浮かべている笑みへと隠れてしまい、北斗の本心を不透明なものへと変えてしまう。

 そんな北斗の様子に小さく疲れた溜息を漏らし、鏡子は釘を刺すように彼の胸に指先を当てると、先程とはまるで違う雰囲気で茶目っ気たっぷりの仕草で北斗の顔を見上げてみせた。

「あんまり苛めないよう、お手柔らかにね」

「なるべく気を付ける」

「そう言って、気を付けた例しがないのよね。昔っから」

「おい」

 その言葉にむっとしたような北斗を見ると、してやったりと言わんばかりの笑みを浮かべて鏡子は踵を返した。

意趣返しのつもりか、と小さく毒づいた北斗だが、ふと想い出したように視線を窓の外へと移す。

 外の景色はいつもと変わることもなく、先程見つけた少女の姿は夢だったのではないかと疑わせるほどに静かに桜が散っているだけだ。

 あれは、自分の内側に巣くう疵が見せた幻影だったのだろうか。それとも、今年の桜はあの時と重なって見えるものなのだろうか。

 色々な考えだけが北斗の頭の中を駆けめぐってしまう。だが、どれもこれも即座に否定出来るものばかりだ。

 自分が立って眠るほど器用な人間だったのかと一瞬考えてしまい、北斗は思わず苦笑を漏らす。

「北斗?」

 不思議そうな呼びかけに、なんでもないとの意を込めて首を横に振ると、北斗は鏡子との距離を縮めるために再び歩き出した。

 今までの人気のないしんとした静けさからまるで離れていくように、人々のざわめきと忙しさに溢れた雰囲気が少しずつ肌にしみこんでくるのを感じながらも、北斗は先程の少女の姿を思い描いていた。

 桜の中で舞うような仕草で獣達と戯れていた存在。

 可憐という言葉がしっくりと来る少女だった。

 あれは本当に現実だったのだろうか。

 ふっ、と小さな笑みを口の端に刻みつけ、北斗は緩く頭を振ってそれを横へと押しやると、手の中のレポートに再度視線を移した。

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