壱、黒髪の冷たき
壁も、床も、石だった。昼の騒動が嘘のように静かで、小窓から青い月の光が差し込む。小刀を手にしていた左手は特に集中的に狙われたものだから、鈍い感覚が心臓の鼓動に合わせて疼く。四肢すべてがどこかしら痛むので起きようにも傷に障りやしないかとためらわれる。試しに右足を少し動かしてみたが、金属の擦れる音が反響するのが不快なのでやめた。首を動かすと自分の腕と巻かれた包帯が見えた。湿布の匂いがする。治療されているのに少し驚くが、自分の処遇を考えるとそうかと納得した。思わず笑みが溢れる。目論見が通りそうだ。熱い感情がこみ上げてきたので少し目が潤んだ。こめかみに力が入る。
「そうか…」
喉の奥から出た声は、武蔵帝国の独居房によく響いた。
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次の朝、即席の裁判が行われた。裁判と言っても形式ばかりで、房の中にいた俺に質問をしながら紙に調書を取っていく。起き上がれないので、俺は仰向けのまま、そばに役人が座って問答を行った。大和での所属などを聞かれ、カマかけの質問などをカドのたたぬよう躱しながら、俺は捕虜としての契約を交わすことができた。この後、会議にかけられ処遇が決定するそうだ。武蔵帝国軍の俺は前線での戦闘中、皇国の中隊に出くわし、自分の小隊は壊滅、命からがら逃走中に気がついたら皇国の領土にいた。自暴自棄になって小刀片手に自衛をしていたが、警察部隊に取り押さえられ、捕虜になるという決断をした。そんなことを言ったと思う。あまり嘘はつかずに正直に答えたつもりだ。
「ガタイの割に若いな、新兵か?」と肩を胸を叩かれたが、傷のない部位を選んでくれたのだろう、そこまで痛くはなかった。やはり捕虜の扱いはどの国でも丁重だ。それから、手足についていた鉄錠が取り外されたが、重症のため1週間は動けなかった。
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起き上がることができた日は、同時に房を移動する日でもあった。捕虜として認められ、労役につく準備をするのだ。けが人も出さず、軍事的な重要人物、つまり幹部でないということでうまく話がまとまったらしい。慢性的に戦時下であるこの国では、捕虜は一般市民としてでは無く、労働資源として扱われる。実際、諜報員のような輩が存在する以上、非武装状態にして軍の管理下で働かせることが最も安全なのである。労役と言っても奴隷や馬車馬のように働かされるわけではなく、個々の能力に応じた人手の必要な部署での労働をするのだ。いくつかの配属先から希望を出すこともできる。「給金は出せないがメシは出る。安心しな。」とのことであった。前情報として得ていた通りだ。
警察部隊の隊員に挟まれながら馬車で選択した勤務地へと派遣された。道中、車中の格子窓から菊と六芒星の紋を付けた部隊が見えた。隊長格だろう、黒髪の冷たい視線と目があった気がして顔を引っ込めた。おっかないことだ。一覧の中から”開発班:鉄鋼掘り業”を希望した俺は海の見える鉱山へと運ばれたのであった。あとは機会を待つだけだ。
すべては、あの人形を作った人間をこの手で地獄に送るために。