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 ふわり、と甘い香りが部屋中に漂う。

 玄関のドアを開けると、どこからとも無くこの匂いが充満する。ということを最近になって理解することができた。

 そして、この独特な甘い香りは不思議なことにどこの部屋にいても香ってくるのだ。

 この家の、はたまた、この国の風習なのかもしれないが、詳しいことはわからない。


 どうせ理解できるとも思えないし、と仕組みはそう対して気にならない大雑把な己の性格に感謝しつつ、急いで玄関へ向かうとそこには大男――もといクロウ――が立っていた。


「アンドレ」


 甘く、優しさの伝わる声音。

 名前を――本名でないので、あだ名感覚ではあるが――呼ばれる時ほど相手の好意がわかるというものだ。

 私はいつも彼が呼んでくれる『アンドレ』を気に入っている。

 ここまでくるのに長い年月を要した気がするな、と感慨深く思う。


「クロウ! 帰る、ます、した」

「ただいま、アンドレ」


 ――それもそのはず。

 私がこのわけのわからない場所へ着てから、3年という月日がいつの間にか流れ去っていたのだ。

 あの日、たまたま目の前の大男、クロウの住まう大きな屋敷に突然現われた私をクロウは甲斐甲斐しく保護してくれた。

 それから、私の血の滲む努力とクロウの根気強さが相まって、ご覧の通り、片言ではあるが、こちらの言葉を話すことが出来るようになった。クロウが話す言葉も大概は理解できるようになってきた。それもここ最近の話なのだけれど。

 そんないっぱいいっぱいな状況だったため、私がなぜこのわけのわからない場所にいるのか、クロウが何者か、など基本的な情報は未だ一切わかっていない。

 わかることは、毎晩、得体の知れない恐怖に枕を濡らしていた私を優しく慰めてくれるこの大男に害はないこと。それどころか、お人よし過ぎてこちらが心配になってしまうような、そんな器用貧乏な人ということだった。


「草、肉、焼く、した。食べる、する?」

「ああ。それより、アンドレ。またサプサラジーを外したな」

「布、あつい、オモイ。アンドレ、外、出ない。問題ない」


 サプサラジーとはあの幾何学的でエキセントリックな柄の布の塊の事だと理解はできているが、発音が難しく未だに“サプサラジー”としっかり発音できてないので、仕方なくサプサラジー()と発している。


「家の中だけでもサプサラジーは外してはいけない。前にも言ったが、他人に肌を見せてはいけない」

「クロウ、見る。アンドレ、許す、ます」

「お前の許しなんかいらねぇっつの」

「ナニ、ですか? 早い。わからない」


 必死にもう一度!と、請うたがクロウは纏っている大きな布を不気味に動かすだけで答えてくれない。


「クロウ、意地、悪意」

「それは、意地悪、だ」

「イジワルダア」

「何だそれは。呪文みたいだな」

「ジュホン?」

「いや、それはいいから。意地悪。言ってごらん。い、じ、わ、る」

「いじわ、る」

「そう」


 優しい声音が響いた。


「クロウ、食べる、する?」

「…ああ。アンドレは食べたのか?」

「アンドレ、まだ。クロウ、一緒、よい、ですか」

「ああ。一緒に食べよう。食べ終わったら勉強な」

「ばんきょ」

「べんきょう」

「べん…」

「それは便だろ。べんきょう」

「べんきょう」

「そうだ」

「理解」


 大きくうなずいて見せると、クロウは布の中から腕を出してくれ、頭を優しくなでてくれた。


「クロウ、手、優しい」

「はいはい」


 撫でてもらう事の喜びをいつも伝えるのだが、クロウに伝わっているかはわからない。せめて表情が見れればいいのだが。


「クロウ。最近、顔、みる、ない」


 出会った初日に口元だけ出してくれていたが、それから一緒に暮らすようになってからは私と二人きりのときは顔をみせてくれるようになった。

 そもそも、大男というだけでも威圧的で勘弁して欲しいくらいなのに、顔もみれないなんて何のホラーだ、と泣きながら訴えること1週間。私の必死な思いが伝わったのか――いや、実際には無理矢理布を剥いでやって「やめろ!」と日本語で何度も言って実力行使したのだけれど――それからはずっと見せてくれていたのに、片言ではあるが言葉を理解するようになるとだんだん布で覆い始め、最近ではすっぽり元の姿に戻ってしまった。


「見せてはいけないものなんだ」

「見たことある人。隠す、意味ない」

「たしかに、アンドレの前でサプサラジーをはずしていたが。…今はもう怖くないだろ?」

「問題、そこちがう」

「…とにかく、ご飯にしよう」


 クロウは話をそらすことが不得意らしく、いつも不自然に話をぶった切る。

 不器用な男だ。

 しかたない、と唯一できる仕事――料理の支度をしにキッチンへ戻るとあの独特の甘い香りと呼び鈴が聞こえた。

 呼び鈴といっても私の知る《ピンポン》という間の抜けた音ではなく、動物の鳴き声のような奇妙な音が鳴り響く。詳しい仕組みを一切わかっていないので、これが何の音なのか実際にはわからないのだけれど、この音が聞こえるとクロウはいつも玄関へ向うので呼び鈴と勝手に理解している。


「アンドレ、サプサラジーをしなさい」

「布、一人、無理」


 この大量の布で全身を覆うことは未だに慣れず、一人で支度することは出来ない。


「準備して。巻くのは俺がやるから」

「ん」


 急いで自室と割り当てられた部屋に取りに行く。大量の布は全身を覆うために軽量化されているらしく、両手に抱えきれないほどの布を持ち上げても重みはさほど感じない。それでも日中ずっと纏うとなると話は別である。


「クロウ」


 布を片手に玄関の手前にある応接室のようなところで呼びかけるとすぐにやってきて数分で布を巻きつけてくれた。


「クロウ、優しさ」


 感謝の言葉を述べると、また頭をなでてくれた。


「俺の友人が来た。覚えてるか? カグリーだ」

「布、全部、一緒」


 そうなのだ。

 クロウの友人がこうして家を訪ねたときはいつも紹介してくれるのだけれど――といってもこの何年かでそんな機会はそうないのだが――その相手も大量の布で覆われているため、どれも一緒に見えるのだ。


「まだだめか。ま、挨拶はしてこい」

「声、いや」


 私はクロウの前でしかしゃべらない。

 理由はいくつもあるが、クロウは許してくれない。


「声を出さなくてもいい挨拶を教えただろ?」

「あれ、むずかしい」

「頑張って」


 ポンと背中を押された拍子で玄関から姿を現してしまった。鼻を燻る甘い香りに顔がにやけるが、このセンスの悪い布のおかげで周りにばれてはいない。


 ――やるしかない。


「おお、アンドレ。久しぶり。カグリーだ」


 この声には聞き覚えがあった。


「ほら、アンドレ。挨拶」


 クロウに促され、声を出さない挨拶をするべく、力強く頷いた。

 ここ何ヶ月も練習している挨拶という名のダンスをするべく――


「おお、マササカか。頑張れ」


 カグリーは手拍子をしてくれたので、それに合わせて踊って見せた。

 今回は少しうまくいった。

 布の下で得意気な顔でいるとカグリーがくぐもった声で「それにしてもマササカするより声出した方が楽だろ。声は出るんだろ?」と聞いてきた。声を出す気のない私はクロウの方をみやるとクロウは心得たとばかりに私の代わりに返答してくれた。


「ああ。片言ではあるが話せるようになった」

「お前の無口さがうつってるだけなんじゃねぇの?」


 そうなのだ。

 このクロウという男も普段は全く話さない寡黙な人なのだ。


「煩いな。中、入れよ」


 そう言ってカグリーを家へ促している間に、クロウにへばりついた。


「なに?」


 クロウはその場にしゃがんでくれたので、耳があるあたりに近寄ってこっそり「ごはん、する。カグリー、ある。アンドレ、部屋、いく」と伝えた。


「アンドレも一緒に食べればいいだろ」


 クロウは、何を今さら、といった声音で言い放つ。それが嫌だから抗議しているんだ、と伝えようとするよりも先に。カグリーが「そうだぞ。今日はお前に用があってきたんだ」と言い放った。


「アンドレに?」


 怪訝そうなクロウの声音に対し、カグリーは「ああ。詳しい話は中で」とあっさりかわした。


「そういうことらしいから」


 頷き、キッチンへ行こうとしてふと、布のことを思い出したので、クロウにへばりついてまた「布、とる、いい?」と聞いた。


「サプサラジーはとってはいけない」


 模範回答以外に答えを知らないのか。


「願う。ごはん、むり。布、むり」


 もう一度クロウにへばりつき、カグリーに聞こえないように――だが、しっかりと主張する。


「そっか。困ったな」


 クロウと私の反応で何か感じ取ったのか、カグリーは「そもそも。本当にアンドレはサプサラジーをする年齢なのか? どうみたって子供だろ?」と助け舟――というにはあまりにも乱暴で暴力的な言葉だったが、嫌味ではないと願うばかりだが――をだした。

 それにしても、この布の儀式が年齢に関係しているとは知らなかった。なるほど、子供だとこの布はしなくてもいいものなのか。でも、何歳までがしなくていいのか、はっきりわからない。私は巻かなくても良いのかどうか、そこまで考えてから頭を振った。

 クロウには年齢を伝えてあったんだ。もし、覆わなくてもいいならきっとこんなにしつこく言ってはこないだろう。


「だめだ。困ったな」


 案の定、子供の年齢ではないようだ。


「じゃあ、嫁連れてくるわ」

「すまない」


 カグリーはそういうと玄関からまた出て行った。それも脅威のスピードで。


「カグリー、ばいばい?」

「奥さんを連れてきてくれるんだ」

「おくさん?」

「あー、お嫁さんのこと。およめさん」

「ああ。おひめさま」


 先日、読んでもらった物語にでてきたあのお嫁さんのことか。


「カグリー、結婚?」

「ああ」


 それは知らなかった。


「おひめさま、くる。布、むり?」

「本来はダメなんだが、今日はいいだろう」

「理解」


 よくわからなかったが、とりあえず布は外してもいいらしいので、豪快に外す。そして、いらなくなったこの大量の布を自室へ戻してから料理の準備に取り掛かった。カグリーとお嫁さんの分は何とか確保できた。

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