娘の旅立ち
アナスタシアに仕える女官達は必死だった。自分達が仕えているのは皇帝ではなく皇太子妃だからと、ナタリーへの処遇が少しでも改善されるように裏で色々と手を尽くした。ルイを出産した後のアナスタシアの態度を知っている者は、二度とあのような事態にしてはいけないという思いで一致していたのだ。しかしナタリーの様子を確認する事は出来ても、アナスタシアと会わせる事はどうしても難しかった。シェッド帝国では女性の地位は総じて低いのである。
「アナスタシア様。どうか暖炉に火をくべて下さい」
「ナタリーの部屋には暖炉がないと聞いているわ。あの子が寒さを我慢しているのなら、私も我慢するのが当然でしょう」
女官達の説得にアナスタシアは耳を貸さなかった。ナタリーが閉じ込められている地下室には暖炉がない。粗末な部屋で毛布が一枚、服も決して暖かいものではないという。罪人としてはいい方だと言われても、ナタリーに罪はないとわかっている彼女からしてみれば、ただの虐待にしか思えなかった。
「食事もナタリーと同じもので構わないわ。ナタリーを孤独にさせてしまっている以上、せめて同じように過ごしたいの」
「ですがアナスタシア様が体調を崩されてはナタリー様が心配されます。体調を崩されないように、どうぞお身体を労わってもらえませんか?」
女官達の説得にアナスタシアはついに折れた。自分が無理をして倒れでもしたら、心優しいナタリーが責任を感じてしまうと思えたのだ。それでもくべる薪は最低限で、小麦のパンもやめた。ライ麦で出来た黒パンは彼女には慣れた味だが、ナタリーには少し酸っぱいだろう。廃棄予定のものを出されていると思って嘆いていないか心配になった。それでその様子を確認して貰った所、出されたものを大人しく食べているとの事で安心をした。ナタリーには清貧の暮らしに付き合わせていたが、皇宮では当たり前のように食事が出る。彼女は故郷が冷害に見舞われた時に、領民達とひもじい暮らしをした事もある。何不自由なく暮らせるはずの皇女には辛い試練ではあるが、ルジョン教を信仰していれば耐えられるだろうと彼女は思った。実際地下室には聖書が置いてあり、ナタリーはそれを懸命に読んでいた。
アナスタシアはシャルルに皇帝への進言をお願いした。ナタリーが罪を犯したと言うのなら、その贖いの意味も込めて修道女としてマリーへ祈りを捧げるべきであると。地下室よりは修道院の方が些か暮らしやすいであろうと思ったのだ。しかし皇帝は数年後に礼拝を許しても、地下室から移動する事は決して許さなかった。
礼拝を許されたナタリーの為に女官達は修道服用の布を用意し、ナタリーの元に通う修道女に託した。その修道女は皇帝の命でレヴィ語をナタリーに教える役目を担っていたが、嫌な顔をせず引き受けた。本来であれば皇女は裁縫などしなくてもいいのだが、ナタリーは他の修道女と同じように自分の修道服を自分で縫った。
こうしてナタリーの生活の改善はされないまま月日だけが流れ、ナタリーが十六歳の時、レヴィ王国エドワード王太子との婚約が成立した。
「ナタリーの婚礼衣装だけは私に用意させて頂けませんか」
相変わらずアナスタシアは幽閉されている。だが見張り付きでもシャルルに会いに行く事は出来る。これはルジョン教の建前上、夫婦仲を皇帝が裂くのはおかしいからである。
「ナーシャに任せると質素になる。我が国の威厳を知らしめる為にもそれは認められない」
「心配には及びません。私が着た物をナタリー用に手直ししようと思っています。あのドレスはダイヤモンドを無数に散りばめた逸品です」
シャルルは首を傾げた。乗り気のしなかった、しかも約二十年前の話である。どのようなドレスだったのか覚えていなかった。
「それを確認して、相応しければ考えよう」
アナスタシアは女官に指示をしてウェディングドレスをシャルルの部屋まで運ばせた。一度袖を通しただけではあったが、彼女は大切に保管しており輝きは失われていなかった。彼はじっくりとそのドレスを観察した。
「贅を凝らしたドレスだな。確かにこれを上回る物は作れなさそうだ。だが、このように値が付けられぬような高価なドレスをナタリーに与えるのは」
そこまで言ってシャルルは黙った。今まで修道女以下の生活をしていたナタリーに着せるには高価すぎるドレスは、皇帝の許しが出るかがわからない。その迷いをアナスタシアは察した。
「この結婚にはシェッド帝国の将来もかかっています。それに母として私に出来る事はこれくらいしかありません。何卒このドレスをナタリーへ渡して頂けませんか」
「わかった。これだけはナタリーに渡そう。だが、現在シルヴィとデネブが色々と用意をしているから、そちらには口を挟まない事が条件だ」
アナスタシアは眉を顰めた。何故表向きは両国の発展を願っているこの婚姻の準備を、異母姉とはいえ庶子の二人が仕切っているのか、彼女には理解出来なかったのだ。
「シルヴィとデネブはナタリーと共にレヴィ王国へ向かわせる。ナタリーだけが嫁ぐのはおかしいだろう?」
何がおかしいのかアナスタシアにはわからない。ナタリーはあくまでもシェッド帝国の為に嫁ぐのだ。男児を産み、その子をレヴィ国王とするという義務を担っている。現在の暮らしより良くなるという保証はない。
「それにナタリーは女性として魅力に欠ける。あれで王太子の気が引けるとは思えぬ。一夫多妻制なのだから、シルヴィかデネブが子供を産んでも問題ないだろう」
シャルルの表情は至って真面目である。そのような事を本気で思っているのなら、彼には今後期待は出来ないとアナスタシアは思った。ナタリーが女性として魅力に欠けるのは地下室で隠れるように暮らしていたせいであり、正しく皇女として生活していたならば間違いなく魅力的な女性になっていたと彼女は思っている。一方シルヴィとデネブは相変わらずの生活で太っており、高ければ何でもいいという成金のような装いが彼女には正直受け入れがたかった。そのような女性が王太子の目に留まるとは思えない。
「しかし、政略結婚であるのに二人もレヴィ王国へ連れていけるのですか?」
「侍女として二人、その侍女に仕える使用人女性を二人までは認められている。ナタリーには侍女など必要ないのだから、何も問題はない」
シャルルの発言にアナスタシアは呆れた。ナタリーに侍女や女官がいないのは地下室で暮らしていたからであり、一国の王太子妃になるのならばそれに相応しい侍女を用意するのが筋である。
「それではナタリーが暮らし難くはありませんか? レヴィ王家と対等に渡り合う為にも優れた女性をナタリーの傍につけるべきです」
「ナーシャには誰もついてこなくとも私とこうして対等に話している。何も問題はない。この話は終わりだ」
シャルルは不機嫌そうに言い放った。彼はジャンヌの娘二人に話が及ぶのを嫌がる。アナスタシアがジャンヌを認めていても、庶子二人は修道女となるべきだと思っている事が面白くないのだ。彼女はため息を殺しながら一礼をすると、彼の部屋を後にした。
シルヴィとデネブの手でナタリーの結婚準備が進められていく中、ナタリーはただ礼拝を続けていた。アナスタシアは結婚後も辛い暮らしになりそうな娘に、せめて女神マリーの御加護があるようにと祈る事しか出来なかった。
雪が解け、ナタリーがレヴィ王国へと出立する日は珍しく、雲の隙間から陽光が差していた。皇帝の儀式に白々しさを感じながらも、アナスタシアはナタリーが白いワンピースを着ている事に安堵していた。シルヴィとデネブが用意するならば赤色や黄色など派手な色になると思っていたのだ。
儀式を終え、ナタリーは馬車が待つ皇宮の出入り口へと向かう。アナスタシアは後ろに続いた。儀式に参加していた皇帝、シャルル、ルイの姿はない。だが彼らが居なくてアナスタシアはほっとしていた。母娘の最後かもしれない時を邪魔されたくはなかったのだ。
「ナタリー。身体には気を付けてね」
「はい。母上もどうぞお元気で」
シェッド帝国を背負って嫁ぐにはあまりにも細い身体に、アナスタシアは泣きそうになった。しかし一生懸命微笑むナタリーに涙を見せるわけにはいかないと、彼女もまた懸命に微笑んだ。
ナタリーが馬車に乗り、馬車がゆっくりと動き出す。アナスタシアはその姿が見えなくなるまで女神マリーに祈りながら見つめていた。どうかナタリーが幸せに暮らせますように、と。