女神が望む事
アナスタシアは常にナタリーと一緒に過ごした。皇帝に連れ去られる事はないとわかっていても、側にいないと落ち着かないのだ。女官達も育児には協力的で、ナタリーは順調に育っていった。
しかしジャンヌが妊娠したという話は全く聞こえてこなかった。二児の母なのだから三人目も難しくないだろうとアナスタシアは判断していたのだが、どうやら甘かったようだ。最近では女神マリーにお見通しで、嘘は良くないから考えを改めなさいと暗に伝えられているのかもしれない、と彼女は考えるようになっていた。
「ははうえ。あそこ行きたい」
ナタリーは三歳になっていた。アナスタシアはいつでも領地に戻れるようにとナタリーに対して北方語で話しかけていた。しかし、女官達は帝国語を使う為かナタリーはなかなか言葉を発しなかった。仕方なく彼女が一旦北方語を封印すると、ナタリーは少しずつ帝国語で話し始めた。
「あの森は入ってはいけないの」
アナスタシアは優しく咎めた。皇宮から見えるその森は、女神マリーが祀られている神殿があり、神託を受ける場所でもある。神聖な場所であるが故に、皇帝しか足を踏み入れる事は許されていない。彼女は一度シャルルに尋ねてみたが、彼でさえも足を踏み入れた事はないと言うのだから、余程厳重に守られているのだろう。
「どうして?」
「マリー様がいらっしゃるからよ。煩くしたら皆の声がマリー様に聞こえないでしょう?」
「わたし、うるさくしない」
森に興味津々のナタリーに対してアナスタシアは優しく微笑む。好奇心旺盛なのはいい事だが、森から娘を遠ざけたかった。万が一足を踏み入れたら命を失いかねない。
「そうね、ナタリーはいい子だから黙っていられるでしょうけれど、あの森は皇帝陛下しか行けない場所なの。私達が足を踏み入れたら、もう二度と会えなくなってしまう。ナタリーは私と二度と会えなくなってでも、あの森へ行きたい?」
ナタリーは泣きそうな顔で首を横に振る。
「いや。ははうえといっしょがいい」
「そうね。私もナタリーとずっと一緒がいいわ。だからあの森へは行かないと約束をして」
「やくそくする」
ナタリーはアナスタシアの手を強く握った。アナスタシアは微笑んでその手を優しく握り返すと、約束よと念押しをした。
「ジャンヌ様は体調でも悪いのでしょうか」
「いや。ただ彼女は私より十も年上だ。年齢的にそろそろ難しいのかもしれない」
他に妾を抱える予定はないのかと尋ねようとして、アナスタシアは言葉を飲み込んだ。シャルルはジャンヌだけを愛しているから、彼女も受け入れられているのだ。何人も女性を侍らせるような男をナタリーの父親にはしたくなかった。
「私はもう出産するつもりはありません」
「何度も言わなくてもわかっている」
アナスタシアの計画の一部として、シャルルは定期的に彼女を夜伽に呼んでいるが、肌を重ねる事は一切ない。しかし元々お互いが望んでいなかった事なので、この状況にどちらとも不満はない。ただ皇帝が煩いだけである。
「陛下がどなたかを妻に迎えられれば宜しいではないですか、という言葉を何度飲み込んだか」
アナスタシアはため息を吐く。皇帝が直接彼女に言いに来る事はない。それでも皇帝の側近が定期的に言葉を伝えに来るので、その返事として先程の言葉を何度も言いたくなったのだ。そんな彼女の態度にシャルルは笑う。
「一度言ってみたらいいではないか。命の保証はしないが」
「冗談でもそのような事を言わないで下さい。私はナタリーを悲しませる事だけは絶対にしないと決めているのですから」
二人の仲は案外良好である。皇帝という共通の敵がいるせいかもしれない。シャルルの横にいるのは常にジャンヌであるが、公式の場ではアナスタシアが妻として振舞っている。聖職者の中には彼女にジャンヌを排除するよう求める者もいるが、それを彼女は笑顔でかわしていた。ジャンヌがいるからこそ、彼女はナタリーと一緒に過ごせると心から思っているのである。
アナスタシアの心の中からイーゴリが消えたわけではない。だが彼女は大切に心の奥にしまって、決してそれを表には出さなかった。周囲にいる者は、彼女がシャルルを家族として愛しているのだと誰もが思っていた。実際、彼女も否定は出来ない。イーゴリに抱いた感情とは違うが、シャルルにも情を感じているのである。
「それほどまでナタリーを大切にするのは正直、予想していなかった」
ジャンヌは娘であるシルヴィとデネブに対して、常に母親として側にいるわけではない。ジャンヌにとって一番はシャルルなのである。お互い愛し合っている二人が常に一緒にいるのは何ら不思議ではない。しかしアナスタシアには娘を二の次にするジャンヌの気持ちが全くわからなかった。
「私はむしろジャンヌ様の教育方針がわかりかねます。お嬢様二人は少々食べすぎではありませんか?」
アナスタシアは呆れていた。彼女はルジョン教の信者であるからこそ清貧を貫いている。しかしこの皇宮では清貧という言葉は見当たらない。披露宴で出された食事は確かに豪勢であったが、普段の食事も彼女の領地では考えられない程の量が出されていたのである。それをそのまま食べているのか、シルヴィとデネブは同年代の少女よりも明らかに太っていた。
「今後どうなるかわからないのだから、今のうちに食べさせておく事の何がいけないのか」
「貧しい食事に慣れておいた方が、お嬢様方の将来の為になると思いますけれど」
「シルヴィとデネブが修道女になるとは限らない」
シャルルは不満気な表情をアナスタシアに向ける。
「父がジャンヌと娘二人をよく思っていない事は知っているだろう。ルイがある程度育てば私さえ不要になるかもしれない。皇帝に繋がる血をあれだけ絶ってきた人だ。何をしても驚かない」
アナスタシアは流石にそこまではと思ったものの、すぐに皇帝ならやりかねないと思い直した。その場合、自分とナタリーも安全ではない。この国では女性の地位が低く、皇帝の生母という肩書さえ何の力も持たないのだ。
「まさか、シャルル殿下を廃してルイを皇太子にする可能性があるという事ですか」
「まさかも何も十分に考えられる。私は父から何も教わっていない。一方ルイは父の指示で教育をされている。どちらに後を継がせたいかなど、考えなくともわかる」
「何か対策は考えておられるのでしょうか」
「娘を政略結婚の駒にするくらいしかないが、シルヴィとデネブでは弱い。ナタリーが他国へ嫁いで対抗出来る力を手に入れる必要があるだろうな。勿論、その歳まで生きていられたら、の話だが」
アナスタシアは悲痛に顔を歪めた。ナタリーを連れて実家に戻る計画が、皇帝のせいで叶わない。皇帝が生きている限りシェッド帝国は正しい道から外れていくばかりだ。彼女は皇太子妃としてルジョン教の教えを守る生活をしていたが、賛同者は城内にある修道院で暮らす修道女だけである。
「対抗出来る国などレヴィ王国しかないではありませんか」
アナスタシアは悔しくてたまらなかった。何故ルジョン教を信仰していない一夫多妻制の国に、可愛い娘を嫁に出さなければいけないのか。しかし皇帝が手を出せない大国となると、この大陸にはレヴィ王国しかない。その戦争相手であるガレス王国では弱い。そこまで考えて、彼女はふと父の言葉を思い出した。ガレスの公爵を頼ると言う話がどうなったのか、結局わからずじまいである。
「それが嫌なら父が一日でも早く天に召されるのを祈るしかない。ナーシャの信条には反するだろうが」
どれほど憎い相手でも命を奪うような事は考えられない。それは女神マリーの教えであり、ルジョン教徒なら当たり前の事である。しかし皇帝は罪の有無を問わず気に入らない者は排除してきた。マリーの血を引く者にさえ手をかけた皇帝には未だに罰がない。マリーを疑う気持ちはないが、皇帝の行いはマリーが望む事だと彼女はどうしても思えなかった。
アナスタシアは自分とナタリーが不当な理由で命を奪われないようにと願うのがせいぜいであった。