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謀婚 帝国編  作者: 樫本 紗樹
一章 皇太子妃アナスタシア
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第一子出産

 アナスタシアは毎晩夜伽に呼ばれるわけではない。基本的にシャルルの寝室には愛妾であるジャンヌが呼ばれる。他の女性の影は一切なくジャンヌだけだ。ジャンヌの身分が低く、父親に結婚を認めてもらえなかったという話を仲良くなった女官から聞いた。無駄に敵対心を顕にするのは自分の首を絞める。交渉の余地はあるだろうと、彼女は機会を窺っていた。

 シャルルがアナスタシアを夜伽に呼ぶ時を彼女は把握していた。むしゃくしゃして誰かに当たりたい気分の時と決まっているのだ。彼女からしてみれば非常に迷惑な話なのだが、彼女には断る権利がない。


 その日は皇帝の機嫌が非常に悪かった。周囲に当たり散らし、当然シャルルにも降りかかる。皇帝が息子に絡む時は決まってジャンヌの話になり、その話を当人にする事が出来ないのでアナスタシアで鬱憤を晴らすのである。

 アナスタシアは皇太子の寝室に入るなり、シャルルに腕を引っ張られベッドへと放り投げられた。今日の機嫌は一段と悪い。彼女は性急に事を始めようとする彼の手を抑えた。

「何のつもりだ!」

「私は娼婦ではありません。慣れていないので無理にするのはやめて下さい」

 アナスタシアは閨事について何も知らないまま嫁いできた。しかし毎回苦痛を伴う行為に嫌気が差し、少しでもましにならないかと考えた。そして恥を忍んで出産経験のある女性達から話を聞き、彼女はひとつの瓶を持ち込んでいたのだ。

 アナスタシアはシャルルの手を離すと、瓶を彼の目の前に差し出した。

「何だ、毒殺でもする気か」

「まさか。この公務の時間を少しでもましにするものです」

 彼女が差し出したのは化粧水である。普段自分で使用しているものなので毒など入っていない。

「シャルル殿下がジャンヌ様だけを想われているのは理解しています。ですが私には子供を産む義務があります。シャルル殿下に迷惑をかけないように早く妊娠をしたい所ですが、痛いのは嫌なのでこれを使って下さい」

「私に命令をする気か」

「これはシャルル殿下の苦痛も和らげるはずです。お互い望まぬ行為をしている以上、多少は歩み寄りましょう。私はジャンヌ様の件でシャルル殿下を責めない事はお約束致します」

 アナスタシアは強い眼差しをシャルルに向けている。彼は苛立ちながらも、彼女からその瓶を受け取った。



 こうしてアナスタシアは歪ではあるものの平穏な日常を手に入れた。化粧水のおかげで苦痛の夜伽がましになった。シャルルの態度も少しだけましになった。どうやらジャンヌが隣にいる事に対して文句を言わないと宣言をした事が功を奏しているようだ。



 アナスタシアがシャルルに嫁いで一年が過ぎようとした頃、彼女は妊娠をした。これで暫く夜伽から解放されるのかと思うと、彼女は嬉しくて仕方がなかった。ただただ男児である事を願い、子供が流れないように慎重に暮らした。


 そして無事アナスタシアは黒髪の男児を出産した。黒髪はマリー様末裔の証である。彼女はやっと自分の夢が一歩近づいたのだと思うと、嬉しくて涙を流した。陛下に報告する為に息子を一旦預かる、貴女は寝ていなさいと祭司に言われ、彼女は大人しく息子を渡した。しかし何時間待っても息子は彼女の元には戻ってこなかった。

 アナスタシアは女官達にどうにか息子に会いたいと願った。しかし誰もその願いを叶えられなかった。皇帝が名前を自分と同じルイと決め、自分の思うように育てると宣言しているので、もう誰も逆らえなかったのだ。せめて母乳を与えたいと願ったが、その願いさえも聞き入れてはもらえなかった。

 アナスタシアは自室で、張って苦しい胸の痛みに耐えながら途方に暮れていた。これではまるで自分が血筋を残すためだけの道具のようだ。彼女の目は虚ろになり、女官達は何とか彼女を励まそうとしたが、彼女の耳には誰の声も届いていないようだった。

 女官達も必死に伝手を使ってアナスタシアを息子に会わせようとした。皇帝が権力を振りかざし、皇太子とその愛妾が自由勝手にやっている皇宮で、アナスタシアの存在は大きかったのだ。使用人誰にでも気を遣い、笑顔で対応する彼女は皇太子妃として慕われていた。しかしそれが却って皇帝の怒りを買っていたのだ。畏怖させる事が上に立つ者の条件だと信じている皇帝にとって、彼女を母親として孫に近付ける気はなかった。



「いつまでそうしている気だ」

 アナスタシアの部屋にシャルルが入ってきた。彼女は椅子から立ち上がる事もなく重そうに彼に一礼をすると、雪景色の広がる窓の外へと視線を向ける。彼はその態度が気に入らず、彼女の近くまで足音を立てて近付くと、音がするほどの勢いで彼女の頬を叩いた。控えていた女官達が悲鳴を上げる中、彼女は叩かれたまま動きもしない。

「出産する前までの勢いはどうした」

 シャルルに問われてもアナスタシアには答える気力が残っていない。ルジョン教の教えを守る為に、自死してはいけないという一点で何とか最低限の食事をしていたが、彼女の身体が痩せていっているのは誰の目から見ても明らかだった。

「私は其方の事を愛する事は出来ない。だが、人としては気に入っている。これからは少し優しくしてやるから、もう一人産め」

「公務は終わったはずです」

「だがこれは陛下命令だ。万が一に備えて、もう一人産めと」

 アナスタシアは腹の底から怒りが込み上げてきた。苦労をして産んだ息子に母乳を与える事も許されないのに、何故もう一人産まなければならないのか。ルジョン教を心から信仰する教皇に育てる為に色々と耐えたのに、それが出来ないとわかっていてもう一度妊娠したいなどと思うはずがない。

 アナスタシアはゆっくりとシャルルの方を向いた。彼は珍しく微笑んでいる。

「ナーシャ、やっとこっちを見たか」

「私の事を気安く呼ばないで頂けますか」

 アナスタシアはシャルルを睨んだ。彼女は母国語の発音で彼に愛称を呼ばれたのが気に入らなかった。

「そうだ、その目がいい。そうでないとこちらも調子が狂う。安心しろ、次は奪われない」

「そのような事、わからないではありませんか」

「わかる。私が生き証人だ」

 シャルルはアナスタシアの向かいの椅子に腰掛けると昔話を始めた。皇帝にはルイという息子がいた事。妻に万が一の為にと次男を産ませ、その教育は妻に任せた事。そして次男が病気で亡くなると、万が一の為にと更に何度も妊娠させるが、流産をしたり、女児だったりとうまくいかない。そしてかなり無理を強いられたせいで、シャルルを産むと同時に亡くなった事を淡々と語った。

 アナスタシアは聞いていて胸が苦しくなった。皇妃という立場でありながら何と救いのない生活なのだろうか。

「お姉様がいらっしゃったのですね」

「姉は三歳になる前に亡くなっているので記憶にない。私は母を知らず、父に興味を持たれずに育った。つまりルイが生きている限り、他の子供には見向きもしない」

「ルイが亡くなったら?」

「勿論取り上げられる。私の平穏な生活も兄が亡くなった時に終わった。それまでジャンヌと一緒でも何も言わなかったのに、皇太子になったと同時に文句を言い出した。そして知らぬ間にナーシャとの縁談が進んでいた。初夜の時は怒りをどこに吐き出せばいいのかわからず八つ当たりをした。すまない」

 シャルルは頭を下げた。アナスタシアは彼が頭を下げるなんて思ってもおらず、ただ驚いて言葉が発せなかった。

 長らく続く無言が辛くなり、シャルルは頭を上げた。そこには困惑しているアナスタシアが居た。

「どうした。私が謝るのが意外か」

「えぇ、とても意外です。明日は快晴でしょうか」

「これだけ雪が積もっているのに晴れたら雪崩が起こる。勘弁してくれ」

 シャルルは楽しそうに笑った。アナスタシアもつられて微笑む。一体いつぶりに笑ったのか彼女はわからなかったが、彼なりに励ましてくれた事が嬉しく思えた。

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