目指す道
夕方、いつものように建物を見つけると二人はそこに入っていった。今日も他に人はいない。
「先程芋だけではなく豆類も分けて貰えました。皇妃殿下に感謝をしなければいけません」
ジェロームはそう言うと鞄から鍋を取り出して外へと出ていった。この建物の側には必ず井戸がある。正しくは井戸がある所に簡易宿がある。教徒が聖地へ巡礼する為の施設はアナスタシアも利用していた。それ故に帝国中央にある建物は比較的手入れがされている。皇帝として教皇の仕事をしないシャルルに変わり、アナスタシアはルジョン教に関する公務を一手に引き受けていたのだ。
ジェロームは手慣れた手つきで火をおこし、湯を沸かすと薬草茶をシルヴィの前に置いた。彼女はそれを無言で口に運ぶ。彼女は水筒の水の配分がわからず途中で飲み切っており、ずっと喉が渇いていたのだ。
「あんた、あの女の手下だったの?」
シルヴィは竈の方に戻ったジェロームの背中に問いかける。彼は飲む為の湯を取り分けた後、粥を作り始めていた。
「手下という表現はやめて頂けませんか。私はルジョン教徒として皇妃殿下の公務を手伝っていただけです」
「父上は知っているの?」
「ご存じですよ」
ジェロームはシルヴィの護衛ではあったが一日中側にいたわけではない。それは彼女がよく逃げていたからだが、もしかしたら彼にとっても都合がよかったのかもしれない。彼女は父が政略結婚相手の事を悪く思っていないと感じていた。ジャンヌの前では絶対に口に出さないが、シャルルがアナスタシアを愛称で呼ぶ事を彼女は知っているのだ。
「皇妃殿下は皇帝陛下に許可を貰って各地を巡り、その道中にある簡易宿の改修も担当されていました。現在各修道院に簡易宿の担当が割り振られ、清掃などをしています。シルヴィ様には汚く感じるかもしれませんが、以前とは違い今は綺麗な方なのです」
「以前とは祖父の時代?」
「えぇ。三十年ほど放置されていたので朽ちている部分もありますが、大改修する余裕はないので仕方がありません」
シルヴィは小屋の中をぐるりと見渡した。確かに古びているが昼間に見た集落よりはましに見える。それは木造よりは石造だからという理由だが、彼女の暮らしていた皇宮とは比較にならない。
「父上はルジョン教に興味がなさそうだもの。改修なんてしないでしょうね」
「そもそものお金がないのです」
「お金がない?」
シルヴィは首を傾げた。彼女はレヴィに行く前と戻ってきた後で生活が苦しくなったとは感じていない。母であるジャンヌも相変わらず派手に着飾っていたし、デネブもそうだった。
「今日の村人達を見て、何も感じませんでしたか?」
「食べる物がないなら分けてくれないと思うのだけれど」
思っていた返事と違い、ジェロームは僅かに首を傾げる。しかしそれにシルヴィは気付かなかった。
「それは種との物々交換です。皇妃殿下の件がなければ難しかったでしょう。知らない者にわける食料は誰も持っていません」
「それはお金があってもしないわよ。見ず知らずの者に施すなんて考えられない」
「その考えが本当に残念でなりません。この国で暮らしているならばお互い助け合い、恵まれた者は恵まれない者に施すべきなのです」
「だからルジョン教は嫌だと言っているでしょう?」
「ルジョン教を否定した所で、シルヴィ様の立場は正当化されません」
痛い所を突かれ、シルヴィは言葉に詰まる。彼女が何よりもルジョン教を否定していた理由、それは自分の存在意義を見出せなくなるからだ。一夫一妻制であるルジョン教の教皇でもある皇帝が、妾を公の場に晒した事はない。本来ならば居てはいけない存在ではあるが、過去全くなかったわけではないのだ。一夫一妻では跡継ぎ問題が起こりうる。どうしても跡継ぎに恵まれなかった場合のみ、密かに囲った歴史はある。だが、シャルルのように結婚相手との間に跡継ぎがいるにもかかわらず、妾を置き続けた例はない。
「でも私がルジョン教を信じたら母上はどうなるの? 私はどうなるの?」
「その答えが先日の暴動です」
シルヴィは俯く。本当は答えなど知っていた。ジャンヌが常に綺麗にしていたのも、父の愛情を失わない為、そしていつ失うかわからない立場を満喫する為だ。シルヴィもまた、いつ皇宮から追い出されるかわからない不安定な立場から目を背けるように、与えられる物だけを見つめてきた。父が自分を愛してくれている間は大丈夫と思っても、心の奥の不安が消える事はなかった。そして平穏に見えた生活は皇帝であるシャルルが導くはずのルジョン教徒達に壊された。真っ先にジャンヌが狙われたのも、ルジョン教徒視点に立てば自然の事だと、彼女はわかりたくないが理解出来るのだ。
「それならどうして私を連れ出したの? あそこで母上と一緒に殺されていれば――」
「理由は今朝お話しした通りです」
ジェロームの声色は淡泊である。シルヴィには彼の言葉がどこまで本気なのかわからない。それでも彼が自分を抱きたいだけでここまで歩くとは思えなかった。抱きたいだけならば合意の上などとは言わずに無理矢理すればいい。それが出来ない理由が彼にはあるのだろうと彼女は思う。そしてそれが引っかかるとしたらルジョン教しか思いつかなかった。
「やっぱりあの女の手下なのね?」
「皇妃殿下はジャンヌ様を必要とされておられました。陛下には必要な人だからと」
「は?」
シルヴィは訝しい目つきでジェロームの背中を見る。彼女はアナスタシアがルジョン教を心から信仰していると思っていた。その女がルジョン教の教えに背く妾の存在を必要としているとは信じられなかったのだ。
「皇妃殿下にとって陛下は家族なのです。皇妃殿下は陛下が愛おしいと思うものを守りたいと仰せでした」
シルヴィは言葉を発しようとして、しかし言葉が思い浮かばず開けた口を閉じる。ジャンヌはシャルルの妻として公式の場に出られるアナスタシアを常に嫌っていた。彼女は母が機嫌を損ねると面倒なので母の言葉を聞き流していたが、人としての器が違う事は薄々気付いていた。レヴィ王国から戻ってきた後、皇妃になったアナスタシアはよく彼女に声を掛けた。ルジョン教を信仰するよう勧めるアナスタシアの表情は優しく、妾の娘を恨むという感情は一切なかった。彼女はアナスタシアがシャルルと結婚した時にはジャンヌのお腹に宿っていたにもかかわらず、である。
「あの女はどこか狂っているわ」
「畑仕事をする皇妃殿下というのは狂っていると思われても仕方がないかもしれません」
「誰が畑仕事の話をしているのよ」
今日は森を抜けて道を歩いていた為、シルヴィは庶民の暮らしを初めて目の当たりにした。畑を知らなかった彼女に、ジェロームは歩きながらそれを教えた。汚れるのも気にせずに土から何かを掘り出している姿を見て、自分には出来ないと思った。それをやっているアナスタシアは確かに狂っているかもしれないが、彼女が感じたのはそこではない。
「皇妃殿下は見ている世界が違うのだと思います。皇妃としてシェッド帝国の為に何が出来るのか、それを常に考えていらっしゃいます」
「父上が考えない事をあの女は考えているの?」
「そうですね。そうなります」
「父上のせいでお金がないの?」
「陛下だけのせいではありません」
シルヴィは一瞬躊躇い、そして床に視線を落として口を開く。
「一番お金を使っていたのは母上?」
「軍人の私は予算までわかりませんが、そうかもしれません」
ジェロームは鍋を机の上に置くと椀に粥をよそってシルヴィに差し出した。今日の粥には豆が入っている。彼女には豆が入ってるだけで贅沢品に見えた。
「例えば皇宮での私の一食にかかっていたお金を、この粥にすると何人が食べられるの?」
「五十人は余裕で食べられると思います」
シルヴィは目を見開いてジェロームを見た。彼は優しそうな表情を浮かべている。その表情は母の事を思って皇妃殿下と呼べない彼女に陛下と同じ呼び方でいいと微笑み、何度断っても修道院へ一緒に行かないかと誘ったアナスタシアを思い出させた。
「私がナーシャ様と一緒に修道院へ行っていたら、母上は殺されなかった?」
「もしもの話は正解がありません。これから先どう生きていくか、そちらが重要です」
ジェロームの言葉にシルヴィは考える。アナスタシアが修道院へ一緒に行こうと声を掛けたのは自分だけだ。デネブにもルイにも声を掛けていない。アナスタシアにも何か思惑があるはずだが、その答えはどうでもよかった。皇帝は絶対権力を持ち臣下の言う事など聞く必要はない。しかし自分の言葉ならシャルルは耳を貸してくれるはずであり、彼女は今の自分が目指す道が見えた気がした。
「わかったわ。これからあんたが種を届ける合間にこの国の事を教えて頂戴。私に出来る事があるなら、やってやろうじゃない」
「やっと生きる気になって頂けて嬉しいです。それと私の事も是非求めて頂きたいのですが」
「それは断固として断るわ」
シルヴィは笑顔でジェロームにそう言うと粥を口に運んだ。最初は今までと違い過ぎる食事に不満しかなかったが、物足りない量ではあるものの辛いとは感じていない。むしろ皇宮の食事より質素なのに美味しい気さえした。彼女は豆の歯応えを楽しみながら燕麦の粥を食べる。美味しそうに食べる彼女の表情を彼は嬉しそうに眺めてから、自分も粥を口に運んだ。




