恋心封印
「アナスタシア様?」
領民に声をかけられ、アナスタシアは我に返った。そして声をかけた領民に微笑む。
「ごめんなさい。手が止まっていたわね」
アナスタシアは手元に視線を戻す。先日収穫をして乾燥させたライ麦の脱穀中だったのだが、棒で穂先を叩いているうちに将来の不安へと引きずり込まれていた。彼女は棒を握り直し、再び穂先を叩き始める。次のライ麦は一緒に植えられなくとも、領民達と一緒に過ごす時間は限られているのだから、余計な事は考えたくなかった。
アナスタシアに皇帝からの話を断る権利はない。謹んでお受け致しますと答えるしかなく、既にその使者は皇宮へ向けて出立している。その使者が詳しい日程を知らせる返事を持って帰ってきた時、領民にも話す事になっていた。それまではあくまでも内々の事なので、今はまだ誰にも言えない。
「アナスタシア様、いかがされましたか」
イーゴリが迎えに来て屋敷へ馬車で帰る途中、彼は心配そうな顔をアナスタシアに向けた。幼き頃より側にいる彼を欺くのは難しいとわかっていても、彼女は誤魔化すしかない。
「少し疲れたのかも。今日はゆっくり休むわ」
「そうですか。今年は芋も順調に育っていますし、食に困らないで済みそうですね」
アナスタシアは微笑みながら頷いた。食の確保は何よりも大切である。領民達が飢える事のないように、彼女は家族と共に心を砕いてきた。そして今年は冷害も嵐もなく順調に収穫出来たのだ。
「えぇ。毎年このように育ってくれると将来が安泰なのだけれど、自然が相手だからわからないのが辛いわね」
「マリー様に願うしかありません」
イーゴリも敬虔なルジョン教徒である。この北方領に暮らす者は皆ルジョン教を深く信仰している。それ故にマリーのように振舞いたいと農作業をする領主の娘を誰もが受け入れているのである。むしろアナスタシアの事を自分の娘のように思っている領民が多かった。
だが、今のアナスタシアにとってマリーの名前を聞く事は辛い。幼き頃より聖書を読み聞かせられ、自分もマリーのように振舞う事こそが幸せになれるのだと信じていた。だが、その末裔の所へ嫁ぐという事はどうしても喜べない。
「やはりいつもと違いますね。どこか痛むのですか?」
イーゴリの心配そうな声色に対し、アナスタシアは何とか笑顔を作った。心は痛んでいるが彼には決して言えない。
「心配しすぎよ。ゆっくり休めば大丈夫」
暫くして皇帝からの正式な使者が訪れ、皇太子シャルルと北方領主コロリョフ伯爵家長女アナスタシアの結婚が決まった。領民達はその知らせを受けて、喜んでいいのか戸惑った。しかし本人に尋ねようとも、これから嫁入り修行や準備がある為、領民達と一緒に作業をする事は出来ないと言われ、彼らはある男性の元へと押しかけていた。
「私の所に来られても困ります」
イーゴリは領民達に家まで押しかけられ、玄関先で困惑の表情を浮かべていた。彼自身、この話を詳しく聞きたいのにアナスタシアとは会えていなかった。皇太子に嫁ぐと決まった以上、親族以外の男性との接触は避けるべきと皇帝からの命令だと説明を受けている。それ故に領民達との作業も出来なくなっているのだ。
しかし領民達も引き下がらない。私達のアナスタシア様を奪わないでほしいと懇願する者や、イーゴリ様はそれでいいのですかと責め立てる者もいる。イーゴリは皇帝の命令は絶対であるから、誰もこの決定を覆す事は出来ないと懇々と説明をした。最初は血気盛んだった領民達も、説明しながら悔しそうな表情を滲ませる彼が一番辛いのだと理解をすると、皆大人しく項垂れて帰っていった。
イーゴリは領民達を見送った後、家の中に入ると真っすぐ自室を目指し、ベッドへと腰掛けた。両腿に両肘を乗せ、指を組んだ上に額を乗せる。アナスタシアの様子がここの所おかしかったのはこのせいだったのかと、今更わかっても遅い。彼に皇帝の決定を覆す力はないのだ。彼だけではない。国内中探してもその力を持っている者はいない。アナスタシアも心から受け入れていないと思うが、彼女はそれを決して口にしないという事も彼は重々承知である。
暫くじっとしていたが、寒さを感じてイーゴリは顔を上げた。窓からは雪がちらついているのが見える。この雪が積もって解けた時、アナスタシアは皇太子シャルルへ嫁ぐ為にこの領地を旅立つ。帝都の皇宮へ入ってしまえばもう二度と会う事は出来ないだろう。彼は愛した人を幸せに出来ない自分の力のなさを罵りながら、ただ窓の外の雪を見つめていた。
北方領民達は常に雪解けを願うのに、この年は皆雪が解けなければいいと願っていた。雪がある限り馬車で帝都へ向かう事は出来ない。いくらアナスタシアが婚約発表後から一度も領民の前に姿を現していなくとも、そこにいてくれるだけでいいのだ。だがその願いもむなしく、例年通りに雪は解けた。
「父上、最後に私の我儘を聞いてはくれませんか」
帝都へと旅立つ日が明日と迫った朝、アナスタシアはミハイルに懇願をした。この半年、皇帝に指示された通りに家族以外との接触を断ってきた。帝都で暮らす為に帝国語も学んだ。しかし彼女はどうしても最後に一目、イーゴリに会いたかったのだ。
「私に皇帝の指示を裏切れと申すか」
ミハイルの表情は歪んでいる。アナスタシアを愛する彼は、娘の希望をわかっていた。出来る事なら叶えてやりたいが、彼も相思相愛と知っているからこそ、徹底して二人が接触しないようにしていたのだ。
「少しだけでいいのです。この半年、どうしても気持ちが変えられませんでした。顔を見て別れを言わなければ、永遠に想い続けてしまいます。それはシャルル皇太子殿下に対して、とても失礼だとは思いませんか」
アナスタシアは泣きそうな顔で訴えた。ミハイルは彼女から視線を外すと、小さくため息を吐いた。
「今日、イーゴリがこちらにくる予定がある。不審に思われないように、手短に済ませなさい」
「ありがとうございます」
アナスタシアは笑顔を浮かべてから頭を下げた。ミハイルは心の中でマリーに祈る。どうか娘が泣かないような別れになりますようにと。
アナスタシアが部屋で待っていると、ノックをする音がした。彼女が返事をすると扉が開き、イーゴリが部屋の中に入ってくる。彼は彼女の部屋に入るのは初めてで扉を閉めた後、どうするべきか迷った。その様子を見て彼女は笑顔を浮かべると長椅子の隣を勧める。彼は一瞬戸惑ったものの、勧められるがままそこに腰掛けた。
「イーゴリ。私は貴方の事が大好きよ。共に生きる事は出来なくなってしまったけれど、貴方の幸せを願っているわ」
イーゴリは首を横に振る。
「私の幸せはアナスタシア様がいるから感じるものです。貴女がいないのに、幸せになどなれるはずがありません」
「そのような悲しい事を言わないで。私の分まで幸せになると言って。そうでなければ、私には何も救いがないわ」
アナスタシアは今にも涙が溢れそうで、それを必死に耐えている。イーゴリはいたたまれない気持ちになり、彼女の手を取ると手の甲に口付けた。
「アナスタシア様。私も大好きです。この命を貴女の為に捧げます」
「私ではなく、どうか北方の民の為に捧げて。農業を手伝い、皆が飢える事のないように努めてほしいわ」
「かしこまりました」
アナスタシアはイーゴリに笑顔を作ってみせた。彼の手を取って駆け落ちする事が出来たならば、どれほど幸せだろう。だが、そのように身勝手な行動など彼女には出来なかった。
イーゴリは無理に笑っているアナスタシアを抱きしめた。彼女は涙を流しながら、彼の背中に腕を回して受け入れた。ルジョン教では結婚するまで貞操を守る必要がある。それは二人もわかってはいたが、どちらも気持ちが抑えられなかった。抱きしめ合うだけならば許される、そう思いたかった。
翌日、アナスタシアは領民達に見送られ、皇帝が用意した馬車で帝都へと向かった。領民達は彼女の旅立ちを喜ぶ事は出来なかったが、せめて笑顔で送り出そうと懸命に明るく振舞った。彼女もまたその気持ちに応えるように、馬車から笑顔で領民達に手を振り続けた。
もう二度と戻ってこられないであろう故郷を胸に留めようと、アナスタシアはずっと馬車から外を眺めていた。そして領地の境で彼女は遠くにイーゴリを見つけた。彼はじっと彼女の乗った馬車を見つめている。彼女も彼を心に留めようと見つめた。馬車の周りは軍人が囲んでいるので妙な行動は出来ない。結局彼女は自分の気持ちを変えられていなかったが、馬車が領地を出た時に彼への恋心を心の奥へと大切に仕舞い込んだ。