皇帝崩御
アナスタシアはシャルルに言われてナタリーと手紙のやり取りを始めた。勿論検閲済で彼女の元に届く。だがそれは妊娠したかどうかを確認しているのだろうと咎める気はない。むしろ嫁いだ娘と縁を繋いでくれた彼に感謝していた。
ナタリーの手紙は検閲される事がわかっているからか、少し他人行儀である。それでもレヴィ王宮の庭が素晴らしい事、イネスという侍女がよくしくれる事、王女に帝国語を教えている事など、シェッド帝国にいた頃より楽しく暮らしているのは伝わってくる。夫となった王太子エドワードについては常によくして下さるとしか書かれていないので、夫婦関係が順調なのかはわからない。だが、ナタリーは少なからず夫に愛情を抱いているようで、アナスタシアは安堵していた。
ナタリーが嫁いでから二年半が過ぎた頃、皇宮は異様な雰囲気に包まれた。皇帝がついに倒れたのである。皇帝の快癒を望む者、シャルルに取り入る者、ルイが次期皇帝になるようにと手を回す者、色々な陰謀が渦巻き始めていた。
アナスタシアはそれらを冷めた目で見ていた。陛下に見舞いをと申し出てみたものの断られている。彼女もどうしても見舞いたいわけではない。形式上言っておかないと後々面倒だと思っただけだ。皇太子妃から皇妃になるか、母后になるかも正直興味がない。父ミハイルも病気で昨年亡くなった。だが、ミハイルの後を兄ゲールマンが引き継いでいる。ナタリーを嫁がせてしまった以上、ルイの妻など誰でも構わないのだが、父と兄の苦労を無駄にするのも心が痛む。それに皇帝が亡くなった後ならば帝国解体の話は順調にいきそうな気がした。彼女から見て、次期皇帝はシャルルとルイのどちらになっても、安定はしないと思えたのだ。
そんな時、久々にシャルルから夜伽をするようにとの命令があった。もう産めない身体と思われたのか、彼女に出産を望んでいる者はいない。それ故に無駄な工作もしていなかったので、アナスタシアはいつぶりに呼ばれたのか思い出せなかった。
「ナーシャ」
アナスタシアが室内に入ると、ベッドに腰掛けていたシャルルは小声でそう言いながら手招きをした。皇帝が倒れた今も彼女には見張りがついており、扉の前に控えている。漏らしたくないと思うと自然と声が小さくなるものだ。彼女は大人しく彼の隣に腰掛けた。
「ナタリーは妊娠出来ると思うか?」
結婚して二年半も経つのに、懐妊の報は未だない。ナタリーに何か問題があるのではないかと言われてもおかしくない頃である。
「成長期に満足に食事を与えられませんでした。その影響が出ている可能性はあります」
「今はレヴィで普通に暮らしているから、それは問題ないだろう」
「普通に暮らすようになったからと言ってすぐに変わるものでもありません」
アナスタシアはナタリーとは滅多に会えない生活ではあったが、女官達の力を借りて娘の成長を見守っていた。あまり痩せると月の障りが止まる。そうならないように手を尽くしてはいたが、見張りの目を盗んで食べ物を差し入れる事は難しかった。
「やはりシルヴィかデネブに産ませるしかないか」
「その考えを未だにお持ちだったのですか?」
「シルヴィからの手紙に、王太子と仲良くなったとあった。そのうち男女の仲になるかもしれぬ」
アナスタシアは不快に表情が歪むのを止められなかった。一夫多妻制の国であるから、シルヴィかデネブが側室になれない事はないだろう。だが、シェッド皇帝の血を引く者を何人もレヴィ王宮で抱えるとは思えない。その場合、ナタリーが追い出されるのではないかという不安が過る。実際、現レヴィ国王は王妃を公爵家の娘からローレンツ公国の公女に変更しているのである。
「だがその王太子はかなりの女好きなようだ。色々な女性に声を掛けているらしい。子供は一人もいないらしいが」
アナスタシアの表情が更に歪む。ナタリーはエドワードを慕っているような雰囲気であったのに、夫の方は違うと知って落胆を隠せなかった。よくしてくれていると言うのは自分に心配を掛けまいというナタリーの配慮なのかと思うと、胸が苦しくなった。
「どうした? 一夫多妻制の国でも正妻ならいいと言ったのはナーシャだろう?」
「それはそうなのですが、色々な女性という事は不特定多数ですよね。私はシャルル殿下のように誰か一人を想うとしか考えていなかったのです」
「相変わらずナーシャは甘いな。そのような男など少数派だ。メイネス国王には夫人が四人いてそれは醜い争いがあるらしい。ルジョン教を信仰していない国はそんな国ばかりだ」
アナスタシアは眉を顰めた。メイネス王国はレヴィ王国とは比べるまでもない小国である。その国で四人もいるのなら、レヴィ王国では十数人いてもおかしくはない気がしてきた。
「だがエドワードは側室を置いていない。寝室で寝るのはナタリーだけだそうだ。まぁ、寝室でなくてもやれない事はないが」
「その不特定多数の女性に声を掛ける男性が、お嬢様方の相手でも宜しいのですか?」
「本人が納得しているのならそれでいい。シルヴィもデネブもルジョン教を信仰していないに等しい。自由に生きればいい」
シャルルの表情は柔らかい。シルヴィとデネブは皇宮内でよく思われていなかった。皇帝がジャンヌを認めていないのだから、当然娘二人も認めるはずがない。そもそも皇帝はルイだけを大切に手元で育てたのであり、孫娘三人は眼中になかった。それ故に皇帝の周囲にいる者達はシャルルの娘三人に等しく冷たかった。
「今日の呼び出しは誰が妊娠するかという話だけなのでしょうか」
アナスタシアの問いにシャルルは真面目な表情を浮かべる。
「父の快癒は難しいようだ。だからナーシャ、ルイではなく私に味方しろ」
アナスタシアは呆れた表情にならないよう無表情を取り繕う。前から彼女は思っていたが、やはりシャルルは人の上に立つのには向いていないと改めて実感した。
「それでしたら何故先にお嬢様方の話をされたのでしょうか。私はナタリーが幸せになる事を第一に思っているのですよ」
「ルイが皇帝になったらナタリーを急かす。そのような圧力はよくないと思うが」
「シャルル殿下は圧力をかけられないのでしょうか」
「私は娘の誰が妊娠しても構わないからな」
「陛下が身罷られ、シャルル殿下が後を継いだならレヴィの乗っ取りはしなくても宜しいのではありませんか?」
ナタリーがエドワードを愛おしく思っているのなら、彼の命を奪うのはよくないとアナスタシアは思い始めていた。勿論、シルヴィとデネブが本当に側室となるのならば、ナタリーをシェッド帝国へ戻して二人で実家へ戻るという選択肢もある。レヴィ王国では条件はあるものの離婚が可能なのだ。
「政治的な話に口を挟むな。ナーシャは私が帝位に就けるように根回しをすればよい。ルイ側の者達から色々と言われているのだろう?」
アナスタシアは平然とした表情をシャルルに向けたまま、口を開こうとはしなかった。実際彼女にはシャルル側もルイ側も近付いてきている。帝国中央では珍しい金髪の皇太子妃は敬虔なルジョン教徒。権力こそ握っていないが、信者を動かす力は秘めているのである。
「ルイにつくつもりなのか?」
「私はルジョン教徒です。陛下が遺言を残されるでしょうから、それに従うまでです」
アナスタシアはルイ側にもシャルル側にもそう答えている。彼女は利用されるつもりは一切ない。この皇宮には既に守るべきナタリーがいないので、昔の強気を取り戻していた。
「それはルイにつくと言っていると同義だ」
「果たしてそうでしょうか。ルイは二十二歳にもかかわらず独身です。あれだけ予備を欲しがった陛下がルイを結婚させない理由。それはルイに皇帝の器がないと思っているのではないかと推察しているのですけれども」
アナスタシアは冷めた目でシャルルを見据えた。彼は暫く思案し、彼女と視線を合わせる。
「手元でルイを大切に育てたにもかかわらず、私の方がましだと判断したと言いたいのか」
「陛下はいつでもシャルル殿下を廃する事が出来ました。妾を傍に置く事はルジョン教に反しますから容易に裁けます。しかしそれを実行されなかった。それが全てではないでしょうか」
「ナーシャは幽閉されているのに色々と見ているのだな」
「正直に申せば、私はナタリーさえ元気であれば自分はどうなろうと構わないのです」
「皇妃になってやりたい事などはないのか」
「帝国内にある修道院を巡りたい気持ちはありますけれども、許可が下りるとは思っていません」
「それなら私が皇帝になった暁には許そう」
シャルルは笑顔を浮かべた。アナスタシアは疑いの眼差しを彼に向ける。
「そのような事を簡単に約束されて宜しいのですか? 嘘を吐くと地獄へ落ちますよ」
「そうだな。地方までは私の権力が及ばない。シェッド家が治める部分に限り約束しよう」
「その約束を信じて宜しいのでしょうか」
「約束する。それくらいの権力は私も持っている。皇妃が修道院を巡る事に反対する聖職者など権利を剥奪すればいいだけだ」
「ではその言葉を信じ、シャルル殿下につく事をお約束致します」
アナスタシアもシャルルが皇帝になる方が動きやすい。長らく閉じ込められていた皇宮から修道院へ行けるのなら、シェッド帝国の現状も確認出来る。彼女は彼に協力する事にした。
この二ヶ月後に皇帝はこの世を去った。そして皇帝の遺言状には次期皇帝はシャルルと名指しされていた。それをよしとしないルイ派が色々と難癖をつけ、正式にシャルルが戴冠する頃には春になっていた。
シャルルは自分が皇帝になった事を近隣諸国に印象付ける為に祝賀会を開く事にした。招待状はレヴィ王国にも届けられ、王太子夫妻が参加すると返事が届いた。アナスタシアは三年ぶりにナタリーと会える事が楽しみで仕方がなかった。