飯島由香子は17歳の夢を見る
走馬灯。僕はこっちの字の方が好きだ。
揺れる窓枠の向こうで、入道雲が手を振っている。一面の田んぼの中、一筋の車線。両面を貫いていく。夏の日差しは、水の香を雰囲気にし、シティにあこがれる私の心を滅入らせる。田舎の在来線はよく揺れるもの。私は窓枠の席で冊子に肘をかけ、外を覗いている。ふと思う。私はなぜこんな時間に列車に乗っているのだろう?時刻は10時過ぎ。学生服で憂鬱そうに空を見ると、今日の水曜日がとても遠くまで透明な青で覆われていた。何か特別なことがあったのだろう。そんな気がするのでそうしよう。ガタン、ゴトンと揺れるメロディーは誰もいない列車で、私のために歌っているから、どこかに行こう。そう思った。遠い向こうの入道雲にでも会いに行こう。現実逃避万歳。
「隣いいかい?」
私に声をかけるのは、同じクラスの奥というさえない男。もじゃもじゃのくせ毛をたたえ、今日も今日とて、おどおどとしている。こんな男だが、クラスのイケているグループに属しているのだから、わからない。それと、なぜか先々月に告白されたのは記憶に新しい。
「・・・」
私の無言を肯定ととらえた奥は、前の椅子を反転させ図々しくも対面に座る。
「あんたもサボり?珍しいね。」
「えっ、うん、まあ、そんなものかな。」
降りるべき学校の最寄り駅は、もう過ぎている。入道雲の待つ遠い終点まではあと6駅ほど。そういえば、今まで一度も終点に行ったことがないことを思い出した。
「突然、変な話をするかもしれないけど・・」
「なに?」
「僕たちは6年後に結婚するんだ。」
空の入道雲も関心が高いのか、そっと寄ってきた。
「なに突然?おかしくなったの?」
奥は、私のきょとんなど無視して、それからずっと語りだした。私が傷心の時に一緒に夜通しカラオケをしたことや、卒業の時に付き合いだしたことや、初めてのキスの場所や、初めての喧嘩の内容やそれがどっちが悪かったのかや、結婚指輪で大モメしたことや、転職のときに一緒に真剣に悩んだことや、娘の運動会ではしゃぎ過ぎて肉離れをしたことや、引っ越しした初日に畳をプールにしてしまったことや、犬をもらいに行って狸をもらってきたことや、韓流スターに会いに韓国に何も言わずに一人行ってしまったことや、もろもろを矢継ぎ早に話していた。
「次は、大岩西、大岩西です。お出口は左側です。」
車掌の声が響く。これって誰もいなくてもやるの?などとどうでもいいことを考えていた。
「ごめん、僕はここまでだから、6年後にまた確かめてくれよ。」
奥は席を立ち、歩いていく。普通なら変に思うかもしれないが、この話に何の違和感も不思議とわいてこなかった。嫌悪感もなく、ただ漠然とそうなる気がした。私は呼び止め、尋ねる。
「なんで私に告ったの?」
「僕の持ってないもの一杯持っていたから。いつだって君はよくも悪くもズバズバいいたいを言うところが特にね。元気出してさ。僕はいつだって君のえ――」
「プシュー」とドアが閉じていく。私は窓に向きなおす。まだ駅で何か言っているが、無視することにする。不思議な気持ちだ。奥のことは全然好きではない。それは今も一緒だ。でもやっぱり言う通りの気がする。とりあえず、6年後を楽しみにすることにしよう。
どうやら、普段の私はもう少し元気なのか。今日の私が元気でない理由はそこにあるようだ。
走り出した列車が小気味よい連結音を鳴らし出す頃、私はあの入道雲を見つめ直した。
「あんた足を組んでみっともない。中が見えちゃうわよ。」
聞き覚えのある声にぎょっとして、振り返る。
「お母さん!?どうしてここに?」私は座り直す。
「そんなことどうでもいいじゃない。」母は対面に座る。その脇に小さな少女も座った。
「あっ、ミカン食べる?」
「・・いらない。」
「あっ、そう。おいしいのにね。お母さんいらないみたいだから、どうぞ。」
ほくほくと母は昨日の晩御飯の話をし始める。そんなことよりも私には、右にいる少女がずっと気になっていたのに。
「ねえ、その子・・・」
「そんなことより、大事な話があります。」母は急に向きなおして、真面目な顔突きになる。
「なっ、なに急に?」
母は咳払いをして、話し始めた。
「私は、21年後に死にます。」
「・・・うん。まあ、急に何?確かにまだ若いかな。」
私のあっけらなど無視して、それからずっと語りだした。母が傷心の時に作り続けた私の不器用な料理に根負けしたことや、初めて私が歩いたことや、初めての喧嘩の内容やそれがどっちが悪かったのかや、初めての海外旅行でパスポートを忘れたことや、私の結婚に悩んだ時に後押ししたことや、運動会ではしゃぎ過ぎてぎっくり腰をしたことや、今際に家族に囲まれることができたこと、猫をもらいに行ってハムスターをもらってきたことや、孫を連れて黙って一泊したことや、もろもろを矢継ぎ早に話していた。
「次は、羽鉾、羽鉾です。お出口は右側です。この駅で折り返し列車を待ちます。お急ぎのところしばらくお待ちください。」
抑揚のない響くオカマのような声。これって練習とかしてるの?などとどうでもいいことを考えていた。
「あら、やだ。もう着いたみたい。私はここで降りるから。あんたも気を付けなさい。座るときはきちんと足は閉じなさいよ。」
私は足を閉じて座る。行こうとする母を呼び止める。
「お父さんは?」
「ずっと後ろですすり泣いていたじゃない?」
「えっ本当!うわ、本当にいた。」
振り返ると本当にすすり泣いていた。そうだ、思い出した。父はこんな奴だ。非常に涙もろかった。
「ほら、お父さん。ここで降りるのよ!」
手をつないで出ていく。
「あれ、さっきの女の子は?」
「あなたの娘でしょう。あなたが面倒見なさい。」
「えっ。えっ!先にいってよ!!」
「えっ、本当に私の娘?!だって・・・」
次の言葉ができない。私の中の納得感がぐうの音を出させなかった。
「もう、本当にあんたは、往生際までそうなんだから。ほらこれが最後なんだし、しっかり手を握んなさい。」握った手から感じるそのぬくもりは、電撃となって体中を駆け巡り、最強の説得感を深層意識に叩きつけた。記憶はなくとも心が納得する。
電車が通り過ぎていく。空気が一瞬離れて戻ってくる。
今、わかった。これはすべて私の夢だ。俗に言う『走馬灯』というものだ。頭がさえてくる。今日は私の最後の日だ。でも何もまだ思い出せそうにない。すべての話がそうであるという実感しかない。
「もう、こんな時まであの子はどこをほっつき歩いているんだが。由香子、あったらちゃんと伝えといてね。」
「?」
「プシュー」とドアが閉じ、走り出す。二人は見えなくなるまで駅にいた。私は窓から向きなおす。正面には、ミカンを手のひらで溶かそうとする5歳くらいの女の子ががんばっている。言われてみれば、目元とか似ている気がする。目があって微笑む。彼女の笑顔が私の心の奥をきゅんとさせる。どうやらそれが真相であり理由だろう。
列車は加速にのって、落ち着いてきたころ、その揺れで、少女の頭は右に左に揺れる。足も前に後ろに揺れる。私の目の前のメトロノーム(少女)は揺れる。入道雲が揺れて見える。ガタンゴトンと。
「ねえ、私はどんなお母さんだった?」
「・・・普通。」
「そうじゃなくて、なんていうかな?かわいい?」目は真剣にじろじろと眺める。
「太ってる。」
「えっ」
「あと、髪の毛がもっと長いよ。」
そういって少女はミカンをほおばる。
「うん。冷たい。」
「ねえ、聞いていい?」
「うん?」
「あなたの思い出でいいよ。教えてよ。」
私のショックなど無視してもぐもぐしたまま答える。それからずっと語りだした。私が作る誕生日のトマトケーキが実は嫌いだったことや、初めて娘が歩いたことや、初めての親子喧嘩の内容やそれがどっちが悪かったのかや、初めての海外旅行で迷子になった時に泣いて心配していたことや、娘の結婚式で親族に1時間間違えて伝えて全員遅刻したことや、孫の運動会ではしゃぎ過ぎて肩が外れたことや、母の大みそかの願い事は必ず『世界平和』ということや、狸をもらってきたときも4年以上も犬と思い込んでいたことや、孫を勝手につれて泊りがけでテーマパークに行ったことや、もろもろを矢継ぎ早に話していた。
「次は梨元、梨元です。お出口は右側です。利元病院をご利用のお客様は2番のりば太平町行きバスにお乗換えください。次の発車時刻は11時19分です。」
すらすらと咬むことなく言い切る声。地名は難しいのにバスの路線、時刻まで。これって全部覚えているの?などと動でもいいことを考えていた。
「じゃあね、お母さん。病院に行かなきゃいけないからここで降りるね。」
「あっそう。一人で大丈夫?」
「大丈夫だよ。それにもうお姉ちゃんだからね。」
「えっ!?」
後ろからすっと甘え慣れた声が聞こえる。
「お姉ちゃ~ん。置いてかないでよ。」
二人は手をつないで、入口に並ぶ。ゆっくりとブレーキがかかり、キキっとなる。
「どこに座ってたのよ?心配したんだから。」嘘をついている。
「なんか、おじさんと話していた。」
「知らないおじさんといたの?」
「いや、なんか知らないけど、知っていたよ。僕も向こうも。」
そういって指を指そうとしたけど、私の顔を見てそれは終わる。
「あれ、ママがいる?今日これから会いに行くんじゃなかったの?」
扉は開くので、降りようとする。
「そっか、病院にいるのは、私か。」
「うん、そうだよ。これからお母さんの最後に会いに行くの。」
「ふ~ん。」
「うん。」
「・・・」「・・・」列車とホームで沈黙が続く。
「じゃあ、弟のことよろしくね。」
「うん。もちろん。ねえ、お母さん?お母さんは兄弟っていないの?」
私はきょとんとする。この夢の最大の疑問の最後の目的を手に入れた気がした。奥が言っていた今日の私の鬱の理由が何なのか、母が言っていたあいつというのが誰なのか。
「じゃあね。」その声で私は我に戻った。
「じゃあね、私によろしく。」
「プシュー」とドアが閉じていく。二人の姉弟は手を握って改札口に向けて歩いていく。なぜだかとても頼り強い後ろ姿に見える。私はその姿を見て、振り返る。最後の答えに。
兄がいたんだ。高校の2年のこの夏の日まで。
夏の強い眩惑で消してしまったあの日のことを私は思い出していた。あの日私はいつものように学校に登校して、1限目の最中に担任から呼び出され、病院に向かうよういわれ。兄が車に轢かれ、意識がないということらしい。道中、私はこうやって入道雲を見ていたのだ。結局、兄はその時、死んでしまった。最後に話すことなく。享年20。
「由香子。」
前の連結部の近くの席に呼ぶ声がする。ひどく懐かしい声。もう思い出せないけど。それに違いない。
兄はあの日の姿のまま挨拶をする。
「ずいぶんと久々だな。」
「本当だね。兄さんのこと忘れてたわ。」
「本当に?」
私はつんとして、窓の外を眺めていた。少しだけ沈黙となる。いつの間にか入道雲はそばにある。そういえば、ここまで来たことはなかった。
「なあ、一つ聞いてもいいか?俺が死んだときって泣いた?」
「・・・泣いた。」
兄はそう聞いてなぜか笑っていた。
「私も一ついい?」
「うん?」
「なんであの場所にいたの?轢かれた場所は大学とは違う方向だったから。」
「う~ん。ちょっと恥ずかしい話だけどね。当時付き合っていた彼女から急に別れ話を持ちかけられ、それであわてて飛び込んだ交差点で勢いよく左折してきたトラックにね。なに、あきれてるの?」
「いや、そうじゃなくて、彼女いたんだ。そっちに驚きだよ。」
「俺だっているよ。そりゃ。」
「次は終点大戸、大戸です。お出口は右側です。お乗車ありがとうございました。お忘れ物なきようお願いします。本線はここで10分ほど停車します。のち、折り返し運行いたします。」
「御臨終様。今、死んだみたいだよ。終着点についたということはね。」
「そういうもんなんだ。」
「未練はないの?」
「まあまあ、まずまずやれることはやったからね。」
「プシュー」と扉は開き、私が降りようとした、兄はそのまま座っていた。
「降りないの?」
「まあ、まだ未練があるからね。」私は座り直す。
「もしかしてまだ待ってるの?」
「女々しいだろ。俺もそう思うよ。でも、俺も知りたいことがあるんだよ。」
「でも、その人ももう成仏したかもしれない。」
「ま、あと20年くらい粘ってみるさ。こうしてお前とも会えたんだ。そんなに悪いこともないだろう。」
私は終着駅のホームを出て、そこで兄を見送る。警笛を鳴らして、列車は来た道を戻っていく。どんどん遠ざかる揺れる兄が陽炎に消えていくのを待って。夏の暑さに空を見上げるが、入道雲は、ちょっともう見えない。私の青春のしこりは、忘れていたけど、解けたことだし先にゴールで兄の吉報を待つことにしよう。そう思いながら、山向かいの陽炎に私もなるのであった。
昔、何かの賞に出した記憶があるのだが、思い出せない。短編向けの奴だったような・・・