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11.お嬢様は酔っ払う(3)

フラーミニウス家の穏やかなエリート生活の前に急に現れたその女は、邪魔になるほどのことはないが一家の頭痛のタネだった。


皇帝陛下がその女に焚きつけられて戦争をおっぱじめるのではと、父は表には出さないが髪の毛がはらはらと落ちていくほど心配していた。一方で代々文官の家系の中で1人武官に落ち着いてしまった変わり種の弟は、何の因果か陛下直々に女の護衛を仰せつかってしまった。


そして更に皇帝陛下は、貴族や有力な臣下が各々に歓迎会を開くよう暗に仰せられた。心情としては無視したいが、忠実なフラーミニウス家としてはそうもいかない。


そして他に先んじて女を招待したのが事の始まりだった。


彼女はこちらの懸念をとうに見透かしていたのだろう。最初の挨拶でわざわざこう言った。


「この度はフラーミニウス宰相様とお近付きになる機会をいただけて大変光栄でございます。

わたくしも故国を離れた身ではございますが、宰相様と同じく、聖王国と帝国の平和的な関係が続きますように尽力したく存じておりますのよ」


この台詞で家での女の評価は「少しは物を考えているらしい」ことになり、彼女への警戒レベルは1下がったのであった。それはともかく、レグルスにとっての問題はその後である。


彼はその夜も、賓客たちをソツなくもてなしていた。


貴族には人脈作りが重要なものだが、フラーミニウス家の場合その意義は若干異なる。全ての貴族と気安い関係を築くのは、皇帝陛下に叛意を持つ者を探り出す意味合いもあるのだ。


つまりは賓客をもてなすのも寄ってくる貴婦人方とほどほどに愛想良く丁寧に接するのも、侯爵家の跡取りたるレグルスには仕事の一環なのである。


そんな時に、ふと主賓のくせに壁際に貼り付いて動かない彼女と目が合った。その目が憧れに満ちたものであれば、慣れたものとして気にも留めなかったに違いない。しかし彼女の目は、そういった種類のものではなかった。


強いていうなら、憐れみの眼差しである。


なぜ自分が憐れまれなければならないのか。


その時はムッとしただけだったが、後で不安になった。


その目は記憶から追い払おうとしても追い払えず、彼が心の奥底に隠して忘れかけていた箱の蓋を引っ掻いて嫌な音を立てる。その蓋を開けてしまっては、責務が果たせぬというのに。


ならばあの眼差しを、ほかの婦人方と同じものにしてしまえばいいのだ。


自分には容易いことだ、と信じていたそれは、しかし思ったよりは難しかった。弟が「頭に変わったネジを締めた」女と表現していたが、確かにその通りだ。今も何を言い出すかと思えば。


「貧民対策、ですか」


「ええ。故国ではそちらの方に関わっておりましたから。癖のようなものですわ」


「確か次のパン無償配布に同行したいと希望されていましたね」


「ええ。この国でどのように対策がされているのか興味がありますの。フラーミニウス家の工場で多くの貧民が雇われたと伺い感動しましたわ」


「一時はそれでかなり減らせたらしいが、今では焼け石に水ですよ」


「なるべく人を多く使うとすればどのような業種が良いかしら」


「縫製ですね。製紙も需要はありますが、人手は比較的少なくて済む」


「確かレグルス様は製紙工場の経営をしておられましたわね。また見学させて下さるかしら」


「結構ですよ。また日取りを弟に伝えます」


……この女のペースに飲まれては、延々と工場経営の話になってしまう。ふと彼女の手元を見れば、杯はまだ満ちたままだった。


「蒸留酒はお気に召しませんか」


「飲み慣れていないのよ」


「ではこれでいかがでしょう」


懐から小瓶を取り出して、甘い匂いのする液体を自分と彼女の杯に少量ずつ注ぐ。


「これはなに」


「媚薬です」


疑わしげな声に敢えて爽やかさを装って答えれば、返ってきたのは生温い微笑みだった。


「そんなものあるわけないでしょう」


「その通りです。これは今若い貴族(ぼくたち)の間で流行っている薬で、酒に入れて飲むとほんの少し素直で楽しい気持ちになる。だから『媚薬(ヴェネヌーム)』と呼ばれているのですよ」


要は酒に入れるシロップである。従兄弟から女を口説くのに使えるぞ、と冗談半分に押し付けられた時には誰が使うかと思ったものだが、なるほど相手によっては便利なものだ。


女の瞳がきらりと光る。


「原料は」


「砂糖、カカオ、蒸留酒、そしてごく少量のダチュラ」


「『海の民(ナヴァリウス)』がもたらす薬剤が2つも入っているのね。カカオは精神高揚、ダチュラは幻覚と弛緩作用。それで『媚薬(ヴェネヌーム)』とは面白いわ」


急に生き生きしだしたところを見ると、どうやら別のスイッチを押してしまったらしかった。


「ということは最近『海の民(ナヴァリウス)』が帝国に来たのかしら。会ってみたかったわ」


「彼らが来たのは15年も前です。その時にもたらされた種子を帝国南部の一部地域で栽培しているのでぼくたちがこうして楽しむことができる」


「帝国の繁栄は南部の属州によるところが大きいのね」


「全くです」


壊滅的なまでに恋を語る雰囲気には持っていけない。半ばヤケ気味に杯を空ける……焼けつくように甘い。そしてザラッとした苦みが残る。


「試してみますか?」


促すと、好奇心からか女は存外素直に杯を口にした。杯が空くのを待ち、彼女をじりじりと暗がりに追い詰める。


「どういうおつもり?」


その声は、面白がっているような、からかうような軽やかな響きを帯びていた。


「わかっておられるはずだ」


だん、と両手を壁について彼女を腕の中に閉じ込め、その瞳を覗き込み可能な限り甘く囁く。


「あなたをぼくのものにしたい。今、この時だけでも」


女が無言で彼を見つめ返す……その瞳は意外なほど無機質だった。あれおかしいな。


内心狼狽えたが、ここは勝負処だろう。更に熱を込めて見つめれば、ようやっと女の唇から甘えたような吐息が漏れた。


「……鼻毛」


「ええ?!」


完全なフェイントに思わず鼻を押さえた隙に、女は彼の脇の下をするりと抜けた。次の瞬間、強く彼の肩を掴みドン、と壁に押しつけ、膝を使って身体を固定する。愛のあの字も感じられない力技であった。


だんっ。


続いてレグルスの顔の両側に勢い良く手がつかれた。


「う・そ」


媚薬は確かに効いていた。


鏡で己を見るようだった、親し気でありながら感情の籠もらない微笑は今や彼女の頬からすっかり消えている。


代わりに表れているのは、蛇が舌舐めずりをするかのような嗜虐的な笑み。


艶やかに輝く蜜色の瞳に射竦められたレグルスの心境は、さながら蛇に睨まれたカエルであった。憐れみなど生易しいものだったのだ、と彼は悟ったが、既に遅かった。


「ではこの時を、忘れたくても忘れられない思い出にしてさしあげるわ」


女は冷たい指で背筋をそっとなぜるような優しさで囁き、彼の唇にゆっくりとその柔らかな唇を近付けたのだった―――



一時後。


エイレンはバルコニーの暗がりにへたり込む青年を残し、なにくわぬ顔で馬車に乗り込んだ。


部屋に戻ると、逃げ惑う侍女と吟遊詩人を追いかけて猛烈なキスをかまし、そのまま寝てしまった。


彼女が、しまった、と思ったのは、翌朝頭痛と共に目覚めてからだったという。

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