9.お嬢様は皇帝陛下と取引きする(3)
エイレンが皇帝陛下に水をぶっかけようとした翌日は、晩餐会は無かった。そのかわり―――
「このわたくしを寝所に呼ぶとは良い度胸ね」
そんなに苛められたかったのかしら、と聖王国から来た姫は優雅な仕草でガウンを脱ぎ去った。その下は、ごくシンプルにゆるく三つ編みにされた髪と同じくシンプルな白絹のネグリジェ。詰まった首元と踝まである裾がつつましやかだ。
皇帝陛下は一瞥してこう宣った。
「貞淑な新妻風か……ダナエのヤツ、分かりにくい萌えを狙ってきたな」
ダナエはエイレンのために前皇后から借り受けた侍女である。仕え始めの12歳の頃から他人の髪やら服装やらをいじるのが大好きだった彼女は今、新たな獲物を与えられて嬉々としているのかもしれない。
「あの人、夜遊びに出掛ける婚約者なんか棄てて皇帝陛下を狙うべきとか主張していたわ」
「残念だが余はもう少し露出が多い方が好みだとダナエに伝えてくれ」
「そのようなつまらないことはご自分でおっしゃい」
それにしても、と少年は顔をしかめた。
「夜遊びに行ったのか……アイツも来るように伝えたのだが」
「皇帝陛下の女の趣味が悪くて良かった、これで私はお役御免だなと大層な浮かれようだったわね」
「そんなワケあるか。滞在中に説得する予定なんだ。出来る限り引き止めておいてくれ」
「わたくしにそんな協力をしなければならない義理はないでしょう」
「うむ。しかし、この度の貧民街の視察は差し止めたぞ」
「……まぁそんなことを」
エイレンの反応は短く静かだったが、聞く者が聞けば分かる。彼女が相当怒ったのが。しかし皇帝陛下は意に介さず喉をクックッと鳴らした。
「真面目なフラーミニウスの次男に監視されつつダナエのお喋りに付き合わされる宮殿生活はさぞかし退屈だろうなぁ。いじりやすい吟遊詩人の1人もいないとな?そうだ、一般の貴婦人のごとく太ると嘆きながら甘い菓子を楽しみ、仕立て屋を呼んでできるだけほっそり見えるドレスを作らせる生活を送ってみる……」
か?まで言い切る前に、だん、とエイレンが踏み込み、皇帝をベッドに押し倒した。そのまま少年の上に馬乗りになってそのシャツの胸をはだけ、優しく告げる。
「では取引といきましょうか」
「もしや……貧民街の視察を許可する代わりに筆降ろしを手伝ってくれる、のか?」
ぶん、と頬の横スレスレに拳が叩き込まれた。きれいなお姉さんの猛攻にドギマギしてるいたいけな少年に、ひどい仕打ちである。
そして、彼女は更に残酷な追い打ちをかけてきた。
「これからあなたのお返事によっては、服を着たら見えない場所に余すところなく爪で隠語を書き込んで差し上げるわ」
明日は地味にひりひりするけれど、人には見せられないわよね?と、少年の白い肌をつっと指でなぞりつつものすごく良い笑顔の姫。
むう、と皇帝の口から呻り声が漏れる。
「で、条件はなんだ?」
「貧民街のほかに工場と学校の視察もしたいから手配させてちょうだい。それから宮殿内での帯剣も許可して下さるわね。ついでに自然豊かなところでバカンスを楽しみたいから、適当な離宮を用意して」
「3つ目は却下だ」
ちっとエイレンが舌打ちする。
「では先の2つはお願いね。必ず実行すると皇帝の名にかけて誓いなさい」
「……分かった。余の名にかけて誓おう」
「よくできました」
エイレンは微笑んで皇帝の上から降りると、用は済んだとばかりにガウンを羽織った。好奇心に駆られて少年が尋ねる。
「もし、余が誓いを破ったらどうするのだ」
「ダナエに寝所で皇帝陛下がいかに優しく振る舞って下さったかを無いこと無いこと延々と話すことにするわ」
なるほど。1日で噂が離宮にいる皇太后の耳にまで入ることだろう。
では失礼するわ、と嫌味なほどに美しい礼を披露するエイレンに、皇帝陛下は仰せられた。
「そうだ。次に余の上に乗っかる時は、もう少し胸の谷が見えそうな衣装にしてくれ。完全に見える前の寸止めが良いな」
「この少年の皮を被ったタヌキオヤジ」
「何を言うのだ。余の年頃の者は皆愛の神の申し子なのだぞ。余とてたまたま政権を預かる立場に居るだけで、親愛なる帝国の民と同じ人間だ」
胸に手を当て、民草に対する恭順の意を表す皇帝。演説ではこれがけっこうウケるが、エイレンはフン、と鼻を鳴らしただけだった。
客人が去った後、少年はひとりニヤニヤする。
(タヌキオヤジ、か……明日、宰相にでも自慢してやろう。余もついにそなた並に言われるようになったぞ、と)
それに、貞淑な人妻に組み敷かれるシチュエーションも実はけっこう悪くなかった、と思う皇帝陛下であった。




