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9.お嬢様は皇帝陛下と取引きする(2)

パンとサラダ、蒸して甘酸っぱいソースをかけたスズキ、オムレツ、豚と豆のスープ。


食器も盛り付けも美しいが、皇帝のお食事は意外と普通―――少々ぜいたく、という程度―――だった。もともと軍人の家系だということもあるのかもしれない。


貴族の食事は唸るほど用意しては大半残すものらしい、と認識していたキルケには好感の持てるものだったが、エイレンはさっと見回して、あらつまらない、と言った。


「贅の限りを尽くした食事を毎回棄てている、とそのうち街角でリークして差し上げるつもりだったのに、暴動のタネにもならない見すぼらしさね」


「なかなか美しく装ったな」


喧嘩腰をガン無視して皇帝陛下は瞳を輝かせる。


皇太后()の若い頃のドレスなどクソダサいだけかと思っていたが、そなたが着ると神話から抜け出たような魅力がある」


ばしゃっ、と誉めたはずの女から投げかけられた水をすんでのところでかわした皇帝の代わりに濡れたのは、背後に控えていた給仕係だった。


「あらごめんなさい。指をすすぐつもりが、わたくしったらそそっかしくて」


織り込まれた銀糸が繊細に光を反射する、柔らかな袖で被害者の胸を拭いつつエイレンは申し訳なさそうな表情を作る。


「許して下さるかしら」


「も、もちろんです……」


手巾(ハンカチ)を使うより更に近い。思わぬ貴婦人の接近に給仕係の顔がみるみる赤くなった。


「その程度にしておいてやれ」


明らかに面白がっている客を皇帝陛下がたしなめる。


「そして余も少し濡れたのだが」


「は、すぐにお着替(めしか)えを」


小姓に命じようとする侍従長を陛下はじろりと睨む。


「気の利かぬヤツだな」


「は……?」


「余も袖で拭いて貰いたい」


「……はぁ」


では失礼いたします、とそっと袖で皇帝陛下の肩を拭う侍従長。


「全く気の利かぬヤツだな。考えてもみよ。毛髪力が劣勢になりかけのオヤジと宝玉を挿した金髪美女ならどちらが良いか」


「は、それはもう後者でございますとも」


「ならばそのようにいたせ」


「では早速手配して参ります」


「そなた何年侍従長をしておるのだ」


やや遠回しな侮辱に、侍従長はお言葉ですが、と声を上げた。


「陛下の客人に私から頼み事などできましょうか」


「それもそうだ」


皇帝陛下は頷き、エイレンに向かって尊大に顎を上げる。


「拭いてくれ」


「ではしっかり拭けるようにもう一度お水をかけて差し上げるわ」


ボウルを再び取ろうとするエイレンの手をキルケが押さえる。


「やめとけ」


「あら悪いのはあちらよ。脂ぎった中年政治系貴族のようなことをよく言えるわね」


「何を言うのだ、かような邪な気持ちではないぞ」


皇帝陛下が口を挟む。


「キレイなお姉さんに優しくしてもらいたいな、という甘酸っぱい憧れに満ちた、いたいけで純粋な少年の心をどこまで傷付ける気だそなた」


お嫌いなはずの『年若い(ユヴェニシス)』ネタを使い余裕を見せる陛下に、エイレンはどこまでも凍り付いた眼差しを投げる。


「その化けの皮がはがれて厚顔無恥な本性が白日の下に(さら)されるまでかしら」


なぜ私までこの席に呼ばれたんだろう、とキルケは考えた。それはきっと料理人を泣かさないためだ。


「お楽しみの最中ですが、そろそろ料理もちょうど良い具合に冷めたのでは?」


侍従長が毒見を終え食事が始まると、場は一転して静かになった。やはりお互いスッキリするまで喧嘩させておいた方が良かったのだろうか……いやいやいや、きっとそれはそれでマズいに違いない。


キルケが気を揉んでいると、皇帝陛下は甘みの強いワインが入ったグラスを回しながらぽつりと言った。


「貧民街の視察を申し込んだそうだな」


「あら人のことをいちいちお気にされていては背が伸びなくてよ」


「あそこはただのゴミ溜だ。見る価値があるとは思えないが」


「それはわたくしが決めるわ」


「身ぐるみ剥がれて濁り川(ティビス)に浮くことになっても文句は言えぬぞ」


「月並みな脅しね」


エイレンが柳眉を逆立て、皇帝陛下は少し俯いて声を絞り出す。


「正直言って、あそこを見られるのは恥ずかしい」


今にも崩れ落ちそうな、レンガを積み重ねただけの過密住宅。馬車どころが荷車も入れない狭い路地には独特の臭気が漂い、酔っ払いと死体が転がっている。


疫病と犯罪の温床はいくら手を打っても無くならないものだった。


いきなり帝国の恥部を突いてくるとはどれだけSなんだこの女、と思わずにいられないが、ここまで押されてしまっては、いたいけで純粋な少年としては()じらってみせる程度が関の山である。


まぁ、とエイレンがおかしそうに言った。


皇帝陛下は気付かなかったが、その笑みは出会って以来初めての好意的なものだった―――

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