9.お嬢様は皇帝陛下と取引きする(1)
頭上には帝国北部らしいコバルトブルーの空。ともすればやや暑いほどに感じる昼下がりの陽射しを、まだ冷たさをはらんだ微風が和らげている。
前皇后様もご愛用だったというバルコニーは春先の心地良さに溢れていたが、そこで密談している2人の表情にはひとかけらの明るさも無かった。
「牢獄ならまだ何とでもなるのに」
からかい甲斐のなさそうな護衛兼世話係といじり尽くした感のあるニセ婚約者という名の交代監視ってどうなの。
エイレンが忌々しげに呟けば、キルケも負けじと暗い眼差しを向ける。
「私だってフラフラと気の向くままに旅したかったんだ」
それにどうせ泊まるならもっと優しい女の元が良かった。
ボソボソとぼやかれた不平に、エイレンの眉間が少しばかり狭まる。
「だったらさっさといい気になってる坊やに真実をバラして好きな所へいらっしゃれば」
「もちろん言ったとも」
実はその婚約というのはまぁその場のノリの冗談みたいなもので神殿へも行っていませんよ、と説明したら皇帝陛下はきょとんとして仰せられたのだ―――で、どこか問題が?
きっとあの少年に狙った獲物を離す気など全くないのだ。神魔法の鍵を握る人物を監視させつつ、裏方面の手駒にするべく転職をしつこく勧めてくる気なのだろう。
キルケは文字通り頭を抱えて呻いた。
「褒賞はまだ貰ってないのに、ぐずぐずしてたら口説かれるっ……」
「まぁあの坊やにそんな趣味が」
それで攻はやはり坊やの方なのかしら。
こんな状況でも突っつけるポイントは見逃さないらしい。急にイキイキとし出したエイレンの手を、キルケはがっしり握りしめた。
「ついてはさっさと吐いてくれ!とりあえず陛下さえ納得すれば、嘘でも良いんだ!この通りだ!頼む!」
「それはダメ」
「あんただってこんな状況イヤだろ?」
「でも困ったことに帝国軍の総帥って一応、皇帝なのよね。ヘタを打つと周囲の意見ガン無視で侵攻が始まってしまうかも」
ちょっと散歩に行っちゃうかも、程度の軽い言い方であるが、冗談を言っているワケではないらしい。
「あなただってまさか皇帝が『ワクワク!神魔法の秘密』的なノリでわざわざスパイをさせたとは思っていないでしょう?」
「それはそうだが、上からの命令は敢えて深く考えないことに決めてるんだ」
だってこちとら捨て石スレスレの下っ端だから。
エイレンは冷たい瞳で、キルケの手の中から己の手をそっと抜いた。
「言っておくけれど、リスクがより高いのは帝国軍の方よ。聖王国の神は侵略者に容赦しないわ。時間がかかってもそれをあの坊やに納得させなければ」
「まるで帝国のため、みたいな言い方だな」
それは全く違うわね、とエイレン。
「このわたくしを振り回して楽しんだツケはきっちり払っていただく、ということよ。そのうち搾り取れるだけ搾り取って差し上げるから見てらっしゃい」
つまりは搾り取れるまでは忍び難きを忍ぶということだ。いやあんたはそれでいいかもしれんが、キルケは思わず言っても詮無い不満を漏らした。
「……私はどうなるんだ?」
「大丈夫よ」
答えは存外に優しい口調で返される。
「その気が無くても、受の方は耐えればなんとかなるそうではないの」
そういえば初代のフェロキス帝が寝所に引っ張り込んでいたのは7割男だったとか。いやいや今のユヴェニシス帝はそもそもそんな年齢では……どうしようちょうど木の芽時だ。
余分な情報を思い出してしまったキルケがなんとなくゾワゾワしていると、侍女が顔を覗かせた。
「ご歓談中に失礼しますが、そろそろお支度をなさって下さい」
皇帝の非公式な晩餐に呼ばれているのだ。つまり時間が無いからメシ食いながら話そう、ということである。
「まだ時間はじゅうぶんあるではないの。しかもプライベートでしょう」
なに張り切ってるのよ、と顔をしかめるエイレンに、侍女はどキッパリと言い放った。
「ダメです。皇帝の前にそんなかっこうで出るなんて……もう、ダサい以前の問題ですから!」
本日のエイレンのスタイルは聖王国にいた時から着ている、染めのない麻のワンピースである。
「奴隷に間違われちゃいますよ」
「あら、このわたくしが着る物ごときで?」
「もちろんです!」
ブリザードの吹き荒れる瞳に全く反応しない、なかなか強者な侍女はエイレンをズルズルと引きずって行く。後をついて部屋に入りながらキルケはかねてよりの疑問を確認してみた。
「興味なさそうにしてるが、実はまんざらでもない、とか?」
村でも奥様とアリスちゃんの着せ替え人形になっていたし。
「何を言っているの」
ブリザード続行中である。
「いや、よくガマンしてるなと。あんた基本、利用できない奴と女には優しいよな」
当然でしょう、と侍女にされるがままになりながら神殿の巫女は宣った。
「殴って良いのは己より身分の高い者と男だけ、と決まっているのよ」
―――なんだその逆差別は。




