8.お嬢様は皇帝陛下に振り回される(2)
「そんなことを申しておったか」
将棋の赤い駒を動かしながら、皇帝陛下は愉しそうに言った。
皇帝陛下はお忙しいはずの公務の合間を縫って、スパイに使った男を自室に招き入れボードゲームの相手をさせているのだ。昨晩連れてきたばかりの娘の様子を聞くのに、一体なぜわざわざ。
「無鉄砲なだけの小娘かと思っていたら、ちゃんと頭もついていたのだな」
小娘ってもあんたより3歳上ですぜ、と思うキルケだったが、無鉄砲に関しては同意見である。彼女がこれまで何とかなってきたのは、運が己に向いているかどうかを瞬時に判断する能力のおかげだ……その程度の判断はしているのだろう、と信じたい。
手が止まっている、と促されて緑の駒を動かし、挟み込んだ赤を回収すると、皇帝陛下がふむ、と唸った。
「しかし動くならフラーミニウスではないな。カティリーナとかネルヴァあたりではないか」
「私にそんなこと訊かないで下さいよ。捨て石スレスレの下っ端なんですから」
完全能力主義を謳っていても制度が始まってから50余年も経てばその分野が得意な血筋というのは出てくるもので、皇帝陛下が挙げたのは公安や軍事関係に強い新興の名家である。
確か陛下の腹心とされるお歴々の中にもそんな名前のがいた気はするが、畏れ多くてとても言えない。
「確かにあいつらなら足がつかないように暗殺するなんてお得意でしょうな。変にプライドがあるお貴族様と違って陰で躊躇なく汚いことしてのし上がってきたとこありますもんねぇ」
なんてことは。
皇帝陛下の駒が緑の駒を3つ一辺に奪っていく。
「捨て石から将に変わりたいとは思わぬのか?」
「ご冗談を」
首をすくめて慎重に駒を進めるキルケに、皇帝陛下はストレートなひと言を放った。
「余は捨て石よりもう少し使いやすい手駒が欲しいのだが、そなたどうだ?」
「いやいやいや私でなくても」
びっくりしすぎてせっかくの作戦を忘れた。その隙に、赤の駒が緑の布陣を無効にするべく動く。
キルケはごく一般的な提案をしてみた。
「公安局のドブネズミに優秀なのがいくらでもいるでしょう」
制服の色から『ドブネズミ』という有難くない通称で呼ばれているが、特殊部隊の彼らの有能さは折り紙つきだ。しかし皇帝陛下はダメだ、と仰せられた。
「奴らを使うとジジイどもにすぐバレる」
「バレたら困るようなことしなさんなよ」
思わず入れてしまったツッコミは慈悲深くも無視された。
「そなたのことは調べたぞ。ドブネズミの候補だったが本番に弱いそうだな」
「あーそうなんスよ。試験とかになると腹下ししちまって……お恥ずかしい」
へへへ、という誤魔化し笑いは、知っているぞ、と言わんばかりの笑みに迎え撃たれる。
「ヒマの油と大黄の根」
「なんのことでしょうかね」
「余も講義が面倒な時に使ったことがあるが、1度で懲りたぞ。あの腹痛に耐えるくらいなら大人しくジジイの子守唄を拝聴した方がマシだ」
「いやいやいや私はそんなことしてませんって」
嘘だ。試験の時も再試験の時も再々試験の時も……ドブネズミになるくらいなら脱肛だって辞さないと、延々と下剤を飲み続けた。脱肛にはならなかったが痔の方はまじやばかった。
皇帝陛下はキルケの台詞を再びガン無視し、首尾良く奪った緑の駒を弄びつつ直々の勧誘を進める。
「それだけ意地をかけて獲得した商売だ。やめろとは言わぬが、副業の方も真剣に考えておけ」
違った。勧誘でなくて命令だ。内心息を詰めながらも、駒を動かし赤い駒を奪う。
「謹んでお断り申し上げます。副業が過ぎると本業にも影響しますんで……片手間でできることだけで勘弁してくださいよ」
まぁそうだな、と意外にもあっさりと皇帝陛下は頷いた。
「ではこれも片手間でできると信じて引き続き頼みたいのだが」
「いやいやいや!あのお嬢さんのお世話は片手間では無理っす」
イヤな予感に煽られて横にぶんぶん振る両手を、冷たい翡翠の瞳が見つめる。
「心配せずとも、世話係はフラーミニウスの次男に頼んだぞ。侍女も1人付けた」
気の毒にフラーミニウス(次男)氏。彼の歯は果たしていつまで保つだろうか。
「じゃあ私は何を?」
「もちろん、ご機嫌伺いだ。聞けば婚約まで漕ぎついたそうじゃないか」
気が付けば緑の駒の一群は赤い駒に退路を断たれようとしていた。キルケは呻き声を漏らす。
「このまま籠絡して神魔法に関する情報を全て吐かせろ。その後は自由にして構わないし、褒賞も倍出そう」
皇帝陛下は言いたいことだけ仰せられると、緑の駒をごっそりとかっさらったのだった。




