8.お嬢様は皇帝陛下に振り回される(1)
「どうしてこうなるのかしら」
エイレンは珍しく、額に手を当てて呻いている。そんな彼女に、キルケは生温かい目を向けた。
「自業自得だろ」
調度品の数が少々減った皇帝陛下のプライベートな貴賓室。窓の鎧戸は破壊され、皓皓とした月の光とともに冷たい夜風が吹き込んできている。
皇帝陛下を思い切り引っぱたいた後、神魔法で呼んだ風は鎧戸を突き破り、調度品を巻き込んで部屋中を吹き荒れた。皆近くのものをつかんで身を守り、なんとか飛ばされるのを免れたが、キルケは確かに目撃した。
小さな運命の女神の石像が陛下の頭ぎりぎりをかすって飛んでいくのを。皇帝暗殺未遂と思われても仕方ない状況だった。
「だから、当然牢にでも入れられるかと思っていたのよね」
「入りたかったのか」
「牢の構造って、入ってみないと分からないものでしょう。ほかにお仲間がいれば話も聞きたかったし」
実地調査した後は処罰が下される前に実力行使で牢破りして高笑いしてやろうと思っていたら、高笑いしたのは皇帝の方だった。
繊細な見た目に反してメンタルはなかなか強靱だった少年は、引っぱたかれたことはさて置いてしまい、更には命の危険があったこともガン無視した。目を輝かせて「もっと見せろ」と神魔法の技をねだる彼は間違いなく宮殿で1番の危険人物であった。
それならばもうここ半壊ほどはして差し上げようかしら、と次の詠唱の準備をしたところでキルケに必死こいて止められた。皇帝の方は侍従長に土下座してたしなめられ、更には中の様子が尋常でないことに気付いたフラーミニウス氏と衛兵数名も足を踏み入れてきて……当然この流れは地下牢行きだ、とめちゃくちゃ期待したのに。
皇帝陛下は無邪気に満面の笑みを披露してくれたのだ。
「面白かったぞ。ぜひしばらく逗留して神魔法について詳しく教えてほしいものだ。明日には部屋を用意させよう……だが今夜はもう遅い」
このままこの貴賓室に泊まるが良い。皆の者こちらの客人を丁重に扱うように。ゆめゆめ失礼な振る舞いまかりならんぞ。
と慈悲深くも仰せられた皇帝陛下のお陰で、何らリサーチする楽しみのない、壊れた鎧戸のおかげで薄ら寒いだけの部屋で一夜を明かすことになってしまった。
どう考えても軽い嫌がらせに違いない。エイレンは再び額に手を当てて呻いた。
「彼からはわたくしと同じニオイを感じるわ」
損得勘定の結果によっては気に食わない者の靴でも平気で舐めてみせるタイプである。そしてその屈辱の分、きっちり相手から搾り取ろうとするのだ。
「良かったな。ちっとは学んで行いを改めてくれ」
あくびをするキルケ。彼としてはもちろん、牢よりはこちらの方が断然マシである。長椅子に横になり侍従長が親切にも手配してくれた毛布にくるまると、エイレンが感情の籠もらない瞳を向けた。
「ちくちくしたりしないかしら」
「いや」
「目眩や動悸・息切れは感じない?」
「いや」
「なら1時間ほどそのままでいて下さらない」
いやあともう3時間はいける。というか普通に眠い。が、キルケは親切心から忠告することにした。
「あんたな、それ考えすぎ」
「そうかしら」
エイレンは世間話のようなノリで首をかしげる。
「この宮殿にはわたくしを殺したい理由の方が、そうしない理由より多いと思うのだけれど。そのためにわざわざ故国では死人扱いと教えて差し上げたのだし」
これまでの経緯を見るに、おそらく帝国の重臣たちはリスクを負ってまで聖王国に手を出すつもりはないのだろう。それならば。
消さなければ若い皇帝の野心に火を点ける可能性が大いにあるが、消しても国際的に問題ない娘など、秒速で消すのではないだろうか。死因の捏造など後でいくらでもできるし、手っ取り早く行方不明ということにしても良さそうだ。
キルケが面倒くさそうにあくびをした。
「いやまだ先だろ。侍従長は皇帝の意に反してまで何かするヤツじゃなさそうだし、一応、死人扱いのウラを取るのにも時間がかかるだろうしな」
「わたくしの言うことが信用できないというの」
「そらまぁ、普通の思慮分別があれば本人の言うことを丸呑みにしたりはしないだろうよ」
意味ないわね、と舌打ちするエイレン。こちらの気持ちはすでに臨戦態勢だというのに、相手の出方が遅すぎる。
「フラーミニウスさんも宰相に早馬で知らせる程度の機転は利かせなさいよね。なんのための身内なんだか」
「いや少なくともあんたの退屈しのぎのためではないことは確かだろ」
意外なことを言われた、というようにエイレンはまじまじとキルケを見た。それから、これからもわたくしの良い友人でいてちょうだい、と微笑んだのだった―――




