6.お嬢様は容疑者になる(2)
そこそこモテていたこれまでの半生のおかげで、キルケは悟っていることがある。
世の女のほとんどは目的地に向かって真っ直ぐに邁進したりしない。
常に周囲に目を配り、興味の順位を上書きし、その順位に従って当然のように蛇行や回り道を繰り返すのである。
その結果、目的地に到達できなかったとしても彼女らは満足げにこう言うはずだ。
「残念だったわね。でもけっこう楽しかったわ」
ここで「そんなの後にして先にメシ行こうぜ」などと言おうものなら、その男に対する評価は確実に2ランクは落ちるだろう。
……いや別に落ちても良いんだが、とキルケは思った。コイツの思考回路も大多数の女の仕様だったってことだな。
そう、昼メシを食べに行こうとしてからすでに3時間が経過しているのに、目的の店にはまだ到達していないのだ。
もっとも彼女の場合、順位トップに立つ興味の対象はかなり変わっていたが。
最初は書店だった。これはまだ予測の範囲内である。それに時間もかからなかった。エイレンはさっと書棚を眺めて瞬く間に買う書物を選び出したからだ。
しかし次が長い。というかまだ終わっていない。今度は薬店で引っ掛かったエイレンは、店主に1つ1つの薬について効能を質問し、少し議論してまた質問、というやりとりを繰り返しながら薬を選定中なのだ。
確かに旅をするなら薬は持っておいた方が良い。が、なんで原料ばかり、しかもそんなに大量に。棒砂糖は分かるが熊胆にまで手を出している。
おいおい手持ちじゃ足らなくなるぞ、と見ていると、エイレンが取り出したのは金貨だった。
「あれはまずいぞ」
薬店を出た後、キルケは渋面でそう注意した。
聖王国とは違い帝国では確かに金貨も一般的に流通している。流通はしているが、それは護衛もつけていない一般市民が使うものではやはりないのだ。
「世間知らずの金持ちほど良いカモはないだろ?」
「わたくしが黙ってカモられるとでもお思いかしら」
エイレンが応えた時、小柄な男がドンッとぶつかってきた。おっとゴメンよ、と軽く去ろうとするその腕をすかさずエイレンが捕らえる。
「ほら見ろ。早速来ただろ」
「……ほらご覧なさい。きちんと捕まえたでしょう」
今のほんのわずかな間に、エイレンが口を何か奇妙な形に動かしていたのは何だったのだろうか?
「てか逃げられてるじゃねーか!」
腕を掴んでいた細い指を無理やり振り切った男は、脱兎の如く駆け出し人混みに紛れた。
あーあ、とキルケは天を仰ぐ。
「ああなったらお終いだぜ」
人の多い街では、スリはいったん逃げられたら捕まえようがないのだ。
しかしエイレンは黙って微笑むと、静かに古の言葉を紡ぎ始めた。晴れた空にも雷を呼ぶ、神魔法の詠唱だ。
「おいコラやめろ!」
街中でぶっ放すなって言ったろ、というキルケの阻止は勿論聞き入れられなかった。
振り上げられた巫女の手が再び降ろされ、青紫色の稲妻を伴った雷が人混みの一角を撃ち抜く。幾人もの悲鳴が上がった……だが。
倒れたのは1人だけだ。
「ね、周囲には当てていないでしょう?」
エイレンはニッコリと言い置いて、悠然と憐れなスリ師の方へ歩いていった。
※※※※※
馬車というのは全く最悪な乗り物だった。最初エイレンはそれに腹を立てていた。しかし、時間が経つに従ってその腹立ちは治めざるを得なかったのだ。
なぜなら、イライラすると余計気分が悪くなるから、である。もちろんこの時点で降りて歩くという選択肢はあった。あったが、なんというか挑戦されている気になってしまっていたのだ。
この程度で負けを認めたりしない、と。最後には大したことなかったと言って笑ってやる。
しかし、そうした気持ちも捨てざるを得なかった。なぜなら、意地になって勝利にこだればこだわるほど、揺れがみぞおちあたりに差し込んでくる気がするからである。
かくして、最終的にエイレンに残ったのは無念無想の境地であった。余分な思考を一切捨て、ただ馬車の揺れと同化し、窓から吹き込む風を身体と心に透した。
ああ己を捨ててもまだ、この世には助けてくれる者たちがいる。
ただその声なき声に耳を傾け、その存在で心を満たすだけで。
精霊魔術師はどんな時でも決して孤独にはなり得ないんですよ、師匠ののんびりした声が聞こえた気がした―――
※※※※※
「本当に馬車とは有難いものだったわ」
雷で焼け焦げ倒れているスリ師から巾着を取り戻しつつ、エイレンは感謝の想いを新たにした。
これまでどうしても理解できなかった精霊魔術の力を使うコツが、たかだか4、5時間ほど耐えるだけで得られたのだ。
「やはり経験と諦めない精神は大切ね」
そしてエイレンの『精霊魔術で神魔法をコントロールしよう』構想の第1号被験者になってくれたスリ師さんもどうも有難う。
おかげで精霊魔術でマーカーすればその的が移動中でもそこに雷が落とせるということが証明できました。
感謝を込めてその状態を確認すれば、幸いなことにまだ息はあった。火傷はそこまでひどくないが、とりあえず手当ては必要だろう。
治癒のまじないを唱えてやると、爛れていた皮膚に薄く新しい膜が張った。
そのピンク色の肌と対照的なのが、面白いくらいに蒼くなっているキルケの顔である。
「あんたとんでもないことをしてくれたな」
「あら取られたものを取り返しただけではないの」
「そんな目立つ方法で人を傷つけたら、逃げようがないだろう」
じきに守備隊が来るぞ、と言われたがなにが問題なのだろうか。
「非はあちらにあってよ」
「この国ではな、例え相手が悪くても、人を半殺しにしたらこっちも悪いことになるんだよ!」
「まぁぁ」
エイレンは驚きに眉を上げた。
「ならず者国家の癖に、法はお行儀の良いこと」
「ならず者国家とは帝国のことか」
「理解が速い人って好きよ」
「なんで帝国が」
気色ばむキルケを手で止め、エイレンは微笑んだ。
「守備隊を待っている間に、二国間戦争をするのと、美味しい昼食をいただくのとではどちらが良いかしらね?」
答はもちろん、決まっている。




