5.お嬢様はおねだりをする(2)
「なぁ」
キルケは客間を眺めて呟いた。
「確か今朝、もう1組布団を入れるって言ってくれてなかったか?」
別に羽毛じゃなくて良いんだ。普通に敷き藁とシーツと毛布とかで。
「さあ」
無効ではないの、とエイレン。
「何しろわたくしたち婚約したのですもの」
公然と夜這いを認められたも同然。頑張ってね、と若奥様が貸してくれた今夜のネグリジェは、数年前に貴族女性に流行していた煽情的な紗である。
肌の色をまるまる透かしながら、大事なところだけは布を重ねて隠してあるのがかえって艶めかしい仕様だ。
こんなのと同衾なんざ拷問だぜ、とキルケは震えた。
「あのね」
エイレンが呆れ返ったような顔をする。
「わたくしが何を着てようと、どうせ眠ってしまえば見えないのよ?」
夢に見たらどうするんだ。朝目が覚めてみたら己が身に、木の芽時の青少年のような現象が起きている恥ずかしさは女性には分からないだろう。
「頼むからくれぐれも襲うなよ」
「わたくしだって怪我人への慈悲心くらいはあるわよ」
あくびをしながらエイレン。腰を痛めていなかったら我が身はどうなっていたことだろう、とキルケは生まれて初めて怪我に感謝した。
「でもその腰、早く治さないと辛いのではなくて」
馬車とは揺れるものなんでしょう、とエイレンが気遣う。施療院を担当していたせいか、彼女は怪我や病気に対しては人並みに親切だった。
「まぁ確かにな」
腰は常に痛いわけではないが、何かの拍子にその存在を強烈に主張してくる。このまま馬車に乗るのは確かに無理があるかもしれない。
「わたくし良いストレッチを知っているのだけれど、試してみてはいかがかしら」
その方法とは、こうである。
両肘と両膝を床につき、腰を真っ直ぐに伸ばした状態で顔は正面。獅子のポーズ、とエイレンは説明する。そして、そのままの姿勢をキープして移動。
「はい、1、2、3、4……どう?」
「お、なかなか効きそうだな」
1回3分、1日2セットを毎日試してごらんになって、とエイレンが言い、キルケは客間を往復する。
いち、に、さん、し……
「失礼します」
客間の扉がトントンと叩かれ、アリスちゃんの声がした。
「お邪魔してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
すみませんお昼からずっと慌ただしくてお布団の用意が遅くなってしまいました、と言いながら、いそいそと入ってきたアリスちゃんの足がその場で止まる。
「あっあっあの!」
布団がボスッと投げられた。
「失礼しました!」
そのまま逃げるように去って行くアリスちゃん。キルケは布団を被ったまま、茫然と戸口を見つめた。
「一体どうしたんだ?」
「あら。ご自分の姿をよくイメージされたら分かるのではないかしら」
口角をきゅっと吊り上げてエイレンが言い、キルケは自分がはめられたことを知った。すなわち。
「……あ、赤ちゃんプレイ?!」
「やっと気付いたのね」
本当に腰のためのストレッチなのだから、わざとではないのよ、とエイレン。後半部分は絶対に嘘だ。
キルケは立ち上がって彼女を見た。その表情は燭台の灯では読み取れない程度には平坦だ。
「あんたまだ怒ってたのか」
ざまあみろは冗談で、本当は奥様方が恐かったからだと説明したのに。
「そんな生温い。わたくしの怒りはこの程度では収まらないわよ」
人前で指輪をはめられたのは、エイレンにとっては予想以上に屈辱だったのだ。しかもその石は、さまざまな想いを心の中に呼び起こしてしまって捨てようにも捨てられないものときた。
「本当に忌々しいわ」
「だけど私だけのせいじゃないだろ。種を蒔いたのはあんただし」
「芽が出た時点で、村八分覚悟で摘み取りなさいよ」
「私にそこまでする義務はないよな」
「あら、そのようなことおっしゃって良いのかしら」
エイレンの細い指が、ねっとりとキルケの背中を這い回る。
「今夜ひと晩で、その腰2度と使えないようにして差し上げましょうか?」
「お願いします……じゃなくて!」
一瞬、危ない幻影に惑わされそうになった。
「お願いだから絶対にやめてくれ。婚約破棄でもなんでもするから」
そうね、とエイレンは考える。
「では、取り分はわたくしが6、あなたが4ということでいかがかしら」
「何の」
「この村であなたがいただくご祝儀のよ」
明日からは村の各家に招待されている。おそらくは婚約祝いとしてかなりの上乗せが期待できるはずだ。
キルケが難しい顔をして、せめて五分五分、と言った。エイレンは頷いて彼の背中から手を離すと、さっさとベッドに潜り込む。
「そうそう、言っておくけれど婚約破棄は当分ナシね」
「なんでだ」
「この国ではそちらの方が便利なのでしょう」
そう、聖王国でも庶民の間では若干そのような空気を感じたものだが、帝国ではそれは更に厳しいものだった。婚約もしていない男とフラフラ旅をしているなんて考えられない、と。
「せっかくの機会だから大いに利用させていただくわね」
言うと思った、とキルケは呟いて燭台の灯を落とし、床に敷かれた布団に寝転んだ。
しばらくしてキルケの寝息が聞こえ始めると、エイレンはごそごそと起き出した。
指にはまった透輝石を撫で、意識を集中して精霊魔術の呪文を唱える。
3回、4回……発音は正確なのに、その石は暗く沈黙したままだった。
やはり、そうよね。
納得していても目頭は勝手に、少しだけ熱くなる。涙がこぼれたりなどしないようエイレンは両手で目を押さえ、そのまま眠りに就いた。




