1.お嬢様は帝国に着く(2)
落ちた時の勢いを樹の枝が段々と殺してくれるのが分かる。そちらを狙っていたのは確かだが、こうもうまく森に落ちるのは幸運としか言いようが無かった。
1人ならもう少し落ち方に工夫できそうなところだが、人をもう1人抱えている状態では、体勢を若干変えるのが精一杯だ。
ドンッと背中が地面に叩きつけられる。覚悟していたより衝撃は少なかった。落ち葉が厚く積もっているおかげだろう。
もしかしたらどこかに怪我をしているかも、とそろそろ手足を動かしてみたが、やはり痛みなく動くようだ。それより。
(重いわ)
吟遊詩人はリュートをしっかりと抱き抱え、エイレンの上で気を失っている。もう死んだとでも思い込んでいるのだろうか、ぐったりと力の抜けた身体+楽器というのは意外と重い。
(なんとか抜け出せないかしら)
乗っかられている角度が良くないのか、何度試してもできそうでできない。フッとひと息吐いた時、ふと目線が上へと吸い込まれた。
幾重にも重なる枝の一部が落下の時に折れたのだろう、不自然に開いた天井から光が差し込んできている。空は、聖王国の常に霞がかったような優しい色ではなく、鮮烈な青だ。
この青が、かつてカロスがエイレンに見せたい、と願ったものだったのだろうか。世の中で最も美しいものは自由だ、と彼は言っていた―――
「ううぅ……ん……」
キルケが呻いて目を覚ました。
「ご機嫌よう。早いお目覚めで助かったわ」
エイレンの挨拶に、目をはっきりと見開きパッと顔を上げる。自分が何を下敷きにしているのかをはっきり確認した彼の顔が、みるみる真っ赤になった。あら面白い。
「すまん」
慌ててエイレンの上から降りようとして、うっ、と腰を押さえる。
「ゆっくりでいいわよ」
言われた通りそろそろと状態を起こして膝をずらし、地面に移動して座り直すとキルケは改めてエイレンに頭を下げた。その顔はまだほんのり赤い。
「すまなかったな」
「なけなしの胸を枕にしたからといって、そのように畏まらなくてもいいわ」
「いや、じゅうぶん柔らかか……じゃなくて!女性を下敷きにするなど」
「そう。では貸し1つということで。存分に働いて返して下さればけっこうよ」
「そ、そうか」
「ええ、期待しているからよろしくね。まずはこの森から出てしまいましょう」
立ち上がって、エイレンは少し顔をしかめる。そういえば足をひねっていたのだった。若干ひびでも入ったのだろうか、背中も少し痛む。
「でも死ななかっただけ儲けものよね」
言い切ってスタスタ歩こうとする彼女を、キルケが引き止める。
「ちょっと待てコラ!」
「あらあなた現地人でしょ。早く案内してちょうだい」
「あんたなぁ……これを見ろ」
全身でため息をついて懐から長細い石を出し、木の根の上に水平に乗せる。石の先端は赤く染めてあった。
「それはなに」
「道標石だよ。方角を示してくれる。普通ならな」
「ではこれ壊れているのね」
石はくるくると回り続け、一向に止まる気配を見せない。
「この森が特殊なんだ。中では方角が分からなくなるから、入る時には長い縄を木に縛り付けてから入る。その縄をたぐって出なければ出られない」
「ではこの道は」
「それは獣道だ。人間には役に立た……って言ってるのにどこに行くんだあんた」
「あらだって森に住む獣なら正しい道を教えてくれるでしょう」
何を言っているの、という表情である。確かに聖王国内ならそういうこともあるかもしれない。あの国では人と獣は持ちつ持たれつ、という関係だったから。
が、帝国ではそんなことはおそらく、起こり得ない。キルケは丁寧にエイレンを諭した。
「例えばだな、今の時期に熊に会うとするだろう。そうするとほぼ100%襲われる。子連れで気が立っているからな」
「それはお供えが足りないのではなくて」
「確かにその通りだ」
帝国の人間にとって熊は崇めるものではなく狩るものなのだ。
「ではどうするの」
「方角が分かればな」
だったら、とエイレンは上を指した。
「さっき落ちた時に、そこに穴が空いたわ。木に登れば太陽が見えるわね」
わたくしは無理だけれど。
「大丈夫。動かさないよう気を付ければ、腰はそんなに痛まないわよ」
「……わかったよ」
心無い励ましを受け、キルケはそろそろと木登りを始めた。意外といけ……いや、やっぱ痛い。
適当な位置まで登って光が差す方向を確認する。太陽は中天よりやや傾いていた。日が暮れるまでに森を出られるといいのだが。
「あっちだ」
西に進めば皇都に1番近い街に出られるはずだ、と指し示された方向をエイレンは確認する。
「目印をつけてもいいかしら」
「何をするつもりなんだ?」
目印があると確かに助かるが、今朝出会ってからこれまでで、キルケには分かってきたことがあった。
この女が何かするなら、それはきっとロクなことじゃない。
「こうするのよ」
エイレンの口から神魔法の詠唱が漏れ始める。詠唱が進むにつれ、その身体に光が集まっていく。腕を上げる動作でその光を天に通し、そして指図するかのように腕を振る。
雲1つない晴れた空に稲妻が光り、バリバリという雷鳴。一瞬後には目の前に白い光の柱が立ち、大地を揺るがすような音が鼓膜を攻撃してきた。
それは時を置かずして何度も続き……
「ほら、これで迷わないで済むでしょう」
エイレンの声に、キルケは伏せた目を上げる。
そこで彼が見たものは、点々と焼け焦げ倒れた木々が作る道と、神々しいまでに輝く金の髪に蜜色の瞳を持つ巫女の姿だった。




