17.お嬢様は手抜きを覚える(1)
―――黒い髪に褐色の肌を持つその女の名を、少年は「ザナ」と呼んだ。振り返るその顔は、はっきりとした目鼻立ちに燃えるような暗い緑の瞳が印象的だ。
「ザナ、会いたかった」
逢瀬はいつも昼でも薄暗い小屋の中だった。少年は夢中で女の豊かな肢体を抱き、未来を語る。
「ここを出て、遠くの街で2人で暗そう」
しかし少年の欲望を静かに受け入れながらも、女の語る言葉は死のにおいに満ちている。
「あんたはもうここに来ちゃいけない。ちゃんと師匠について修業しな。そしてちゃんとした嫁さんをもらって、幸せな家庭を作るんだよ。そうしたらあたしは、冥界の王の前でだって胸を張って笑っていられるんだ」
「だから僕は君と結婚するよ」
希望に満ちて少年は女を抱きしめ、キスをする。口づけは少ししょっぱい、寂しい味がした ――――
朝、目を覚ましたリクウの視界に飛び込んだのは輝くような黄金の髪だった。
そうだ、いつもの色に変えておかなければ、と手を伸ばしかけて、やめる。今その髪に触れてしまうのは、なんだかとてつもなくマズいような予感がしたのだ。
先ほどまで見ていたイタい夢が尾を引いている。初めての恋人ができた頃、自分は修業に熱心でない生意気なだけの弟子で、師匠の元を抜け出しては彼女の住む小屋に通っていた。
思春期ゆえに欲望優先だった恋愛はしかしそれなりに真剣で、精霊魔術などというお先真っ暗な職業は捨てて新しい職を得、彼女と暮らそうと本気で考えていたのだ。
それを後悔したのは彼女が亡くなった時だった。もし自分がきちんと修業を積んでいたら、彼女の病に気付けたのではないか。治すことができたのではないか。
そんな思いは10年近く経った今も尾を引いていて、恋人の夢には苦い後味がつきまとう。
(久々に見たな)
最近その夢を見ていなかったのは、それぞれにワガママなところのある家出娘たちに振り回されていたからだろう。
その家出娘の片割れは、リクウの傍らで静かな寝息を立てている。数時間前には夜目にも真っ青だった顔色が少し戻っているのを見て、彼はほっとした。
エイレンの寝顔を見るのはこれで2度目だ。前回は本当に寝ているのかと思う程に険しい表情をしていたが、今は穏やかで年相応かそれよりも幼くすら見える。
こうして見るとかわいいものだな、と微笑んで少女の頭を撫でようとし……すんでのところで手を引っ込めた。
なんとなくではあるが、それ、多分、地雷。
※※※※※
「夜中は大変だったようだな」
執務室で書類にサインしつつ、国王は神官長にイヤミを言った。
春から夏にかけて、恒例の地方視察旅行の前でスケジュールが山積みなのにわざわざ神官長を呼んだのは、何を隠そう、そのためである。
対する神官長はとぼけた表情で首をひねった。
「はて、何のことでございましょう……確かに夜中にご側室様を訪いましたが、大変なことなど特に何も」
「そうかな。私がそなたを見掛けた時には、ファーレンの侍女と2人、血まみれの服の女を抱えているように見えたが」
「それはそうでしょう。私が呼ばれましたのも、その者を施療院に運ぶためですからな……そんな用事でわざわざ呼ぶな、と叱りつけてやりたいところですなぁ」
しかし国王様がおいでだったとは気付かず誠に失礼いたしました、と深々と頭を下げる神官長をディードは醒めた目で眺めた。この古狸め。
「あの者は誰だったのだ……どこかで見掛けた顔のようだったが」
特徴のある金髪に、ファーレンによく似た顔立ちの女といえば1人しかいないはずだ。
しかし神官長はしれっと話をずらした。
「おや、一介の侍女を国王様が気になさるとは……さてはお好みのタイプでしたかな?ご側室様の父としては仲介役は辞退させていただきたいところですが」
ジジイあくまでとぼける気か。私ははっきり見たんだぞ、と言ってもおそらくは好々爺の表情で躱されることだろう。
しかし1つ分かることがある。ここまで神官長が知らぬ存ぜぬを押し通すこと自体が、その証拠ではないか。
「もう良い。退がれ」
しっしっ、と手を振り神官長を追い出すと、今度は低い声で短く呼んだ。
「イチ」
「おります」
返事は柱の陰から聞こえてきた。イチは国王を陰ながら守り、また表立ってはできない仕事をもこなす通称『草』と呼ばれる特殊部隊のリーダー格だ。
ちなみに『草』のメンバーは皆、序列で呼ばれている。イチ、ニイ、サン。
「お前、神殿の前の『一の巫女』を覚えているか?」
「もちろんですとも」
「探して連れてこい」
「……老獪な古狸を懲らしめるためですか?」
側室になるはずだった『一の巫女』が流行り病で急死したと知らされた後の、ディードの怒りようを知っているのはイチだけだ。
ディードはニヤリと悪役の笑みを浮かべて首を振った。
「私の物を取り返すだけだ。抵抗しても傷付けるなよ」
「御意」
イチの姿が消え、ディードは1人、物思いにふける。
―――かつての『一の巫女』は如才ない女だった。確か初めて紹介された時の彼女は14歳だったと思うが、その頃にはもう政治系貴族に笑顔と贈り物を振りまいてコネを作ることを覚えていたようだ。
その如才なさは当然のように未来の夫である自分にも向けられていた。目を合わせる度、彼女はいかにも敬愛に満ちた笑顔を見せる。しかし、その瞳の奥で燃えていたのは愛情ではなく冷たい炎だった。
その値踏みするかのような眼差しに 出会う度、この生意気な女は自分に征服される時、どのような声で鳴くのだろうと想像したものだ ―――
神官長が何を思ってその存在を隠し、姉の方を差し出したのか、などディードにとってはどうでもよい話だった。
どちらにしろ、王宮と神殿の関係は崩すワケにはいかないのだし、今彼が愛しているのは側室ただ1人なのだから。
だが、生きているのならばエイレンもまた欲しい。
彼の狩猟本能をこれほどまでに刺激する獲物は、後にも先にもなかなか現れるものではないのだ。




