17.お嬢様は空へ飛び立つ(2)
―――その日、もし神殿の塔の上を見る者がいたならば、そこに、かつては実体と神に劣らぬ力を持っていたという、古代の精霊の姿を認めたことだろう。
しかしそれは、その姿となった、彼女自身さえ知らぬことである―――
塔の上を吹く強い風にも、踝まで長く伸びた髪はなびかない。
長い金の髪を身に纏い、幾重にも重なった蝶の翅を震わせて、娘は下界を見詰めていた。
その金の瞳に映るのは、多種多様の鬼たち。
地中から王都をゆるがす土鬼、道を埋めつくし建物を覆う水鬼の幼生。
川を氾濫させているのは成長した水鬼であり、逃げ惑う人々には霊鬼が憑こうとしている。
彼らは最初から悪であったのか、といえば、そうではない。
彼らは元は普通の精霊だった。
この地に神と共にやってきた人々により、追いやられ、歪められ、悪とされたのだ。
(救いたかったと、あのひとはいつも言っていたわ)
身に取り込みすぎた霊鬼が、記憶までをも喰らったのか、それが誰だったかももう、思い出せない。
ただ、その眼差し、声にいくつかの言葉、抱きしめ抱きしめられた時の温もりと力……断片的に甦るそれらはひどく懐かしい。
「きっと、愛していたのね」 呟きは風に散って消えていった。
今は、それを追う時間は残されていない。
わかっているのは、それだけだ。
忘れたくない温もりに満ちた想い出の欠片も、次第に消えていく。
(まだわたくしの意志が残っているうちに、鬼たちを全て連れて、遠くへ行かなければ)
なぜそうしなければならないか、その理由は思い出せなかった。
人も神も、不完全で利己的な、忌むべき存在ではなかっただろうか。
善悪なくただそこにあった精霊や鬼たちを、彼らにとっての利用価値で崇め、あるいは貶め、あるいは駆逐したのは、人や神ではなかっただろうか。
真に悪しき存在は、人や神の方ではなかっただろうか。
(なのに、なぜ……)
もしかしたら、とても大切なことがあったのかもしれない、と彼女は想像する。
「きっと、あいして、いたのね」 想い出を失った胸の裡に、その言葉がすとん、と落ち込んで、彼女は微笑む。
歪んだその頬を、涙が一筋、伝って落ちていった。
「………………」
冷たい空気に色を失いつつある唇が、囁くように精霊の言葉を紡ぐ。
『還れる者は疾く還れ。地に還る者は地に、水に還る者は水に』
風が、囁きを運び、地上に届ける。
『人と神が汝らを逐わなくなるその日まで、土となり、水となって眠れ』
幾度となく繰り返すうち、神殿や王宮の揺れが徐々におさまった。
荘厳な建物を覆ったいたら黒い水鬼たちの多くが、ずるずると退いていく。
ある者は川や海へと戻っていく道をたどり、ある者はその場で姿を失い、黒く地面を濡らした。
それでもなお残り、蠢く鬼たちに、彼女は精霊の言葉で囁き続ける。
『還れぬ者、眠りにつけぬ者は、わたくしと共においで』
紡がれる言葉に呼応するかのように強い風が再び、吹き付けた。
その風は人々を散らして地上を旋回し、残った鬼たちを空へと巻き上げていく。
その風が塔の上へと達し、足元に渦巻き出した瞬間―――彼女もまた、空へと身を踊らせた。
陽光に耀めく長い髪をなびかせ、風に乗り、天空高くを駆け抜ける。
その胸に、憂いや迷いが去来することなど、ついぞ無かったかのように、彼女は笑う。
『誰も知らないところへ』
紡がれた精霊の言葉に、風が加速し、やがて。
かつて聖王国の巫女だった姫の姿は、いずこへともなく消えていった。
※※※※※
辺りを騒がせていた、鬼たちの気配が消えた。
霊鬼とも精霊とも、エイレンともつかなかった者の気配も。
腰を下ろし、眠る恋人を膝に抱えたまま、聖王国の神は片手で目蓋を押さえる。
その喉から漏れるのは、圧し殺した嗚咽の音。
彼女の最後の願い、それは。
『誰もわたくしのために悲しませないで。皆がわたくしを忘れるように』
お前はそれでいいのか、と、何度問いかけても答えはない。
(だが、お前の最後の願いなら、叶えねばならないだろう)
神は片手を伸べ、その力を国中に解き放った。




